第二十四話 天使、疲弊する
地獄の接待、四日目。
監査官ザフキエルは、昨夜もまた、一睡もしていなかった。
自動筆記の羽根ペンは、彼の尽きることのない思考を、休むことなく記録し続けていたが、そのペン先は、過度の労働によって、明らかに摩耗し始めていた。
『―――被験体シルフィの行動原理に関する考察、第四項。彼女は、食、歴史、音楽、舞踏、音響物理学、地理学、天文学という、世界の構成要素を、わずか三日間で、私に提示した。この、異常なまでの情報伝達速度は、何を意味する…? …私に対する、知的な挑戦か? あるいは、この世界の、崩壊が近いことを示唆する、警告…?』
彼の、完璧な論理で構築された脳は、シルフィの、ただの気まぐれな行動を、壮大な、何かの陰謀か、あるいは神託であると、完璧に誤解していた。
彼は、生まれて初めて、自らの「限界」というものを、意識し始めていた。
彼の頬はこけ、完璧に整えられていたはずの純白のローブには、いつの間にか、インクの染みが一つ、付着していた。
その頃、アイリスは、本日の、偽りのミッションを、シルフィに、与えていた。
もちろん今回も、全ては、塔の上の『神』からの、悪魔的な脚本通りである。
「…いいですか、シルフィ。本日の目的地は、『見えざる運命のタペストリー』です」
「みえざる、うんめいの、たぺすとりー…?」
「はい。王城の、どこか秘密の場所に隠された、古代の遺産です。その、タペストリーには、この世界の、全ての人の運命が、織り込まれている、と伝えられています」
そんなタペストリーは、もちろん、存在しない。
ノクトが、またしても即興ででっち上げた、ただの悪趣味なおとぎ話だ。
「わあ! 素敵です! それを見れば、私が、いつ、虹色のお花畑にたどり着けるのかも、分かるのでしょうか!?」
シルフィは、そのあまりに魅力的な偽りの目的地に、目をキラキラと輝かせた。
「行ってまいります! ザフキエル様も、きっと、お喜びになりますね!」
彼女は、元気よく部屋を飛び出していった。
アイリスは、その、あまりに無垢な後ろ姿に、そっと、幸運を祈るように両手を合わせた。
(…ザフキエル様。どうか、本日も、ご無事で…)
聖女の祈りは、今日ももちろん、誰にも届かなかった。
「ザフキエル様! 本日の、冒険の目的地が決まりました! 『見えざる運命のタペストリー』です!」
「…うんめいの、たぺすとりー…?」
ザフキエルの、疲弊した論理的な脳が、その、あまりに抽象的で、哲学的な響きを、解析しようと試みる。
(運命…。因果律…。なるほど。彼女は、昨日、世界の物理的な法則(天文学)の調和を、私に示した。今日は、その次に、世界の、形而上学的な構成要素である、『運命』という概念の調和を、私に教えようと…? なんという、完璧な、教育プログラムなのだ…!)
彼は、感動に打ち震えながら、シルフィの小さな手を、固く握りしめた。
その手は、以前よりも少しだけ、弱々しく感じられた。
「…はい。ぜひ、ご案内をお願いします、シルフィ殿」
地獄の接待、四日目が、今、始まった。
シルフィの、無計画な城内散歩は、今日も絶好調だった。
彼女は、「タペストリー」という言葉から、美しい布がたくさんある場所に違いない、という、単純な、しかし、彼女なりの論理的な推測を立てた。
そして、彼女が向かったのは、王城の、巨大な洗濯室だった。
そこは、城中の全てのシーツや、テーブルクロス、そして、衛兵たちの汗臭い下着までが一手に集められる、混沌と、生活感と、そして、湿った熱気に満ちた空間だった。
「わあ! 大きな、お風呂が、たくさんです!」
シルフィは、湯気を立てる巨大な洗濯桶を、そう誤解した。
そして、山と積まれた、洗濯物の山。
「布が、たくさん! きっと、この中に、運命のタペストリーがあるのですね!」
「…………」
ザフキエルは、固まった。
そして、彼の、疲弊した論理的な脳が、またしても壮大な勘違いを始めた。
(…洗濯…。汚れを洗い流す、という行為…。…なるほど。運命とは、汚れるもの。それを浄化し、あるべき姿へと戻す、ということか…。そして、この、様々な身分の者の衣服が、分け隔てなく同じ場所で洗われる、という光景。…これは、運命の前では、全ての魂は平等である、という、深遠なメタファー…! なんという、無駄のない…! なんという、美しい…!)
彼の、瞳が、潤む。
その、彼の感動を、ぶち壊すかのように、シルフィは、一つの巨大な洗濯桶に、興味を示した。
中には、石鹸が溶かされた、泡だらけのお湯が、なみなみと注がれている。
「わあ! 泡のお風呂です! 楽しそうです!」
彼女は、そう言うと、何の躊躇もなく、その泡の山に、両手を突っ込んだ。
そして、その泡を、すくい上げると、ふぅ、と、息を吹きかけた。
シャボン玉のように、きらきらと輝く泡が、熱気に満ちた洗濯室の、空中を、舞い始める。
「きゃっ!」
その、あまりに無邪気で、あまりに混沌とした姿。
ザフキエルの、完璧な論理の世界が、ぐにゃり、と歪んだ。
美しい。
非効率で、非論理的で、そして、衛生的に問題があるかもしれない。
だが、なぜだ。
なぜ、こんなにも、美しいと、感じてしまうのだ。
彼の頬が、再び、ほんのりと赤く染まる。
『観察記録、午前十時。被験体、洗濯という、浄化の儀式を通し、「運命の可塑性」と、「存在の平等性」を、提示。…さらに、泡という、刹那的な存在を通し、生命の儚さと美しさを、表現…。…これは、新たな調和の形…? …データにない…。要、追加分析…』
ザフキエルの、天使としての聖なる魔力は、その論理的な思考と精神の安定性に、深く、結びついていた。
彼が、シルフィの、理解不能な行動を、必死に、自らの論理の枠に押し込めようと、思考を巡らせるたび。
彼の、膨大な魔力が、思考のためのエネルギーとして、急速に、消耗されていくのだ。
それは、彼がこれまで経験したことのない、魔力の使い方だった。
普段の、監査業務であれば、彼の魔力は、ほとんど消費されることはない。
だが、この、シルフィという、歩く「混沌」の解析は、彼の思考回路に、常に最大負荷をかけ続けていた。
彼の背中に生えた、光の結晶の翼が、一瞬だけ、その輝きを揺らめかせた。
それは、彼の聖なる魔力が消耗し始めている、何よりの証拠だった。
だが、彼は、その、自らの異変に、気づいていない。
ただひたすらに、目の前の、謎の生命体の、深遠なる(と彼が思い込んでいる)行動の分析に、没頭していた。
その日の午後。
アイリスは、作戦会議室で、仲間たちから、奇妙な報告を受けていた。
「姉御! 大変であります! 洗濯室が、泡まみれで、大変なことになっておりました! 犯人は、まだ分かっておりやせんが、現場には、小さな足跡と、キラキラした羽が数枚、残されていたとのことで…」
ギルの、報告。
「ノン! 聞いてくれたまえ、アイリス! 先ほど、学院の、僕のアトリエに、全身が泡だらけの妖精のようなものが現れてね! 僕の、パレットの上で、滑って転んで、僕の最高傑作の絵を、台無しにしていったのだよ! なんて、前衛的な、パフォーマンスだ!」
ジーロスの、報告。
「ひひひ…! おい、アイリス! 今、城下で、とんでもねえ噂が流れてるぜ! 『王城に、幸運をもたらす、泡の妖精が現れた』ってな! 早速、『幸運の泡』っていう新商品(ただの石鹸水)を、売り出してみたんだが、これが、飛ぶように、売れてやがる!」
テオの、報告。
全ての、元凶は、ただ一人。
アイリスは、天を仰いだ。
ギルの報告、ジーロスの嘆き、テオの悪だくみ…。
その全てが、シルフィという混沌の震源から生まれた、厄介な余波だった。
ノクトの言う『終わりなき迷子の天使』とは、ザフキエルを精神的に追い詰める作戦のはずだった。
だが、現実は違う。
これは、シルフィという予測不能な災害が、王城を遊び場にして、ただ、終わりなき混沌を振りまくだけの、悪夢の始まりだった。
彼女の胃は、明日、いや、おそらくは、この作戦が終わるまで、キリキリと痛み続けるのだろう。
そして、その胃痛の原因である『神』が、この惨状を高笑いしながら見物している姿を、彼女は、嫌というほど、想像することができた。
 




