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第二十三話 天然エルフの無自覚な攻撃

 地獄の接待、三日目。

 監査官ザフキエルは、昨夜もまた、一睡もしていなかった。

 自動筆記の羽根ペンは、彼の尽きることのない思考を、休むことなく、記録し続けていた。

『―――被験体シルフィの行動原理に関する考察、第三項。彼女は、食、歴史、音楽、舞踏、音響物理学という、世界の構成要素を、順序立てて、私に提示した。だが、その教育プログラムは、あまりに、高密度すぎる。…私の、情報処理能力が、追いついていない。…これは、私に対する、挑戦なのか…?』

 彼の、完璧な論理で構築された脳は、シルフィの、ただの気まぐれな行動を、壮大な教育的挑戦だと、完璧に誤解していた。

 彼は、天使の肉体に宿るはずのない、明確な「疲労」と、そして、それを上回る、燃え盛るような「知的好奇心」に、突き動かされていた。


 その頃、アイリスは、本日の、偽りのミッションを、シルフィに、与えていた。

 今回ももちろん、全ては、『ノクト()』の、悪魔的な脚本通りである。

「…いいですか、シルフィ。本日の目的地は、『叡智の泉』です」

「えいちの、いずみ…?」

 シルフィが、こてんと首を傾げる。

「はい。王城の、どこか秘密の場所に隠された、古代の遺産です。その泉の水を一口飲めば、この世界の、全ての知識を手に入れることができる、と伝えられています」

 そんな泉は、もちろん、存在しない。

 ノクト()が、またしても即興ででっち上げた、ただの悪趣味なおとぎ話だ。

「わあ! 素敵です! それを飲めば、私でも、もう、迷子にならなくなるのでしょうか!?」

 シルフィは、そのあまりに魅力的な偽りの目的地に、目をキラキラと輝かせた。

「行ってまいります! ザフキエル様も、きっと、お喜びになりますね!」

 彼女は、元気よく部屋を飛び出していった。

 アイリスは、その、あまりに無垢な後ろ姿に、そっと、幸運を祈るように両手を合わせた。

(…ザフキエル様。どうか、ご無事で…)

 聖女の祈りは、今日ももちろん、誰にも届かなかった。



「ザフキエル様! 本日の、冒険の目的地が決まりました! 『叡智の泉』です!」

「…えいちの、いずみ…?」

 ザフキエルの、論理的な脳が、その、哲学的な響きを、解析しようと試みる。

(叡智…。知識…。なるほど。彼女は、昨日、世界の物理的な調和の形を、私に示した。今日は、その次に、世界の精神的な構成要素である『知』という概念の調和を、私に教えようと…? なんという、完璧な、教育プログラムなのだ…!)

 彼は、感動に打ち震えながら、シルフィの小さな手を、固く握りしめた。

「…はい。ぜひ、ご案内を、お願いします、シルフィ殿」

 地獄の接待、三日目が、今、始まった。


 シルフィの、無計画な城内散歩は、今日も絶好調だった。

 彼女は、まず、王立大書庫へと向かった。

 叡智の泉、というからには、本がたくさんある場所に違いないという、彼女なりの、単純な、しかし、今回はたまたま論理的な、推測だった。

「わあ、本の匂いが、たくさんです」

「…ええ。王国の、知の、集積地ですね」

 ザフキエルの、自動筆記ペンが、猛烈な勢いで、動き出す。

『被験体、まず、王立大書庫へ。…完璧な導入だ。知の概念を学ぶ上で、これ以上ふさわしい場所はない』

 やがて、シルフィは、一つの巨大な地球儀の前で、足を止めた。

 それは、この世界の全ての地理が精密に描かれた、国宝級の代物だった。

「まあ、大きな、ボールです!」

 シルフィは、その、くるくると回転する地球儀が、すっかり気に入ってしまったようだった。

 彼女は、その地球儀を、楽しげに、何度も、何度も、回し始めた。

「…………」

 ザフキエルは、固まった。

 そして、彼の、論理的な脳が、またしても、壮大な勘違いを始めた。

(…地球儀。…世界の、縮図。…そうだ。個別の知識を学ぶ前に、まず、この世界の全体像という、マクロな視点から、物事を捉えよ、と。…なんと、無駄のない論理…! なんという、美しい結論…!)

 彼の、瞳が、潤む。

 その、彼の感動を、ぶち壊すかのように、シルフィは、くるくると回り続ける地球儀に、目を回してしまった。

「…あ…目が、回ります…」

 彼女は、ふらり、とよろめいた。

 そして、近くにあった、天文学の書架に、もたれかかった。

 ドミノ倒しのように、本が数冊、床に落ちる。

 その中の一冊が、ぱらり、と開かれた。

 そこに描かれていたのは、美しい星々の絵だった。

「わあ! キラキラです!」

 シルフィは、すっかり、地球儀のことも、叡智の泉のことも忘れ、その美しい星図に見入ってしまった。

『…被験体、地球儀との物理的接触により、精神状態が不安定に…。…その結果、天文学の書物との、偶発的な接触を誘発…。…これは、一体、何を意味する…? …ミクロ(地理)から、マクロ(天体)へ、視点を移行せよ、という暗示…? …深い…。深すぎる…。要、追加分析…』


 その日の午後。

 シルフィとザフキエルの、奇妙な二人組は、王城の最上階へとたどり着いていた。

 シルフィが、星図に描かれていた、一番明るい星を、「一番、近くで、見たい」と言い出したからだ。

 たどり着いたのは、王立天文台。

 そこには、星々を観測するための、巨大な魔力望遠鏡が設置されていた。

 もちろん、ノクトが、事前に、全ての扉の鍵を開けておいたのは、言うまでもない。

「わあ! 大きな筒です! これで、お星様を見るのですね!」

「…ええ。天文学とは、宇宙の法則を解き明かす、学問です」

 ザフキエルは、シルフィの、その、あまりに完璧なガイドプランに、もはや、感動を通り越して、畏怖の念さえ抱き始めていた。

 食、歴史、音楽、舞踏、音響物理学、地理学、そして、天文学。

 この、エルフの少女は、この世界の森羅万象の調和の全てを、自分に教えようとしている。

 その、あまりに高尚で、あまりに詰め込みすぎな、教育プログラム。

 彼の、天使としての、数万年の人生の中で、これほど知的な刺激を受けたことはなかった。

 彼の、完璧な無表情に、初めて、明確な「疲労」の色が浮かび始めた。

 その頬はこけ、瞳の光はどこか虚ろだ。


「ザフキエル様! 見えました! お星様が、とっても、綺麗です!」

 シルフィが、望遠鏡を、覗き込みながら、歓声を上げる。

 ザフキエルは、ふらり、と、よろめいた。

 そして、近くにあった、壁に、もたれかかった。

『観察記録、午後四時。…被験体の、情報伝達速度が、私の、情報処理能力を、超過…。…思考回路に、過負荷…。…システム、クールダウンを、要求…』

 自動筆記の羽根ペンが、初めて、乱れた文字を、書き殴った。

 彼は、もはや、立っていることさえ辛かった。

 だが、シルフィは、無邪気に続ける。

「ザフキエル様! 次は、どこへ冒険に行きますか?」

「…もう…」

 ザフキエルの口から、か細い声が漏れた。

「…もう、結構です…」


 アイリスは、その日の夕方、シルフィからの報告を受けていた。

「アイリス様! 今日も、とっても、楽しかったです! ですが、ザフキエル様、なんだか、途中で、青い顔をして座り込んでしまって…」

 その隣で、ザフキエルは、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。

「…調和…混沌…星…宇宙…」

 彼は、何か、うわ言のように、呟いている。

 アイリスは、その、あまりに痛々しい姿に、ほんの少しだけ罪悪感を、覚えた。

 だが、脳内に響く、ノクト()の満足げな声が、その感傷を打ち消した。

『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス五十%のデバフ効果を確認。…この調子なら、あと数日で、完全に心が折れるな。…新人、明日も頼むぞ』

 終わりなき、迷子の天使。

 その、地獄の接待は、まだまだ続くのだった。

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