第二十二話 終わりなき迷子の天使
作戦名、『終わりなき迷子の天使』。
それは、天使を迷子にする作戦ではなかった。
天使と共に迷子になった一人のエルフが、この城に終わりなき混沌をもたらす、壮大な物語の始まりだったのだ。
アイリスの胃痛は、翌日からも、当然のように続いた。
地獄の接待、二日目。
監査官ザフキエルは、昨夜、一睡もしていなかった。
彼は、夜を徹して、昨日収集した「データ」の分析に没頭していた。
クリップボードには、彼の自動筆記の羽根ペンによって、びっしりと、几帳面な文字が書き連ねられている。
『―――被験体シルフィの行動原理に関する考察、第二項。彼女は、既存の秩序(食料庫)に、自らの存在という混沌を投入することで、新たな価値(幸運の白い粉という、商業的価値)を創出した。これは、破壊と再生の、縮図である。…なんと、高尚な…。なんと、効率的な、世界の是正活動…』
彼の、完璧な論理で構築された脳は、シルフィのただの事故を、壮大な哲学的行為だと、完璧に誤解していた。
彼は、疲れを知らないはずの、天使の肉体に、初めて、ほんのわずかな心地よい疲労感と、そして、未知の知的好奇心に満たされた高揚感を覚えていた。
早く、今日の「案内」を、始めてほしい。
彼は、生まれて初めて、誰かと共に過ごす時間を、心待ちにしていた。
その頃、アイリスは、シルフィに、本日の偽りのミッションを与えていた。
もちろん、全ては、『ノクト』の、悪魔的な脚本通りである。
「…いいですか、シルフィ。本日の目的地は『共鳴する木霊の部屋』です」
「きょうめいする、こだまの、へや…?」
「はい。そこは、王城のどこか秘密の場所に隠された、古代の遺産です。壁に向かってお話をすると、その言葉が、美しい歌声になって返ってくる、と伝えられています」
そんな部屋は、もちろん、存在しない。
ノクトが、即興ででっち上げた、ただの悪趣味なおとぎ話だ。
「わあ! 素敵です! きっと、とっても、楽しい場所に違いありません!」
シルフィは、その、あまりに魅力的な偽りの目的地に、目をキラキラと輝かせた。
「ザフキエル様を、お迎えに行ってきます!」
彼女は、元気よく、部屋を飛び出していった。
アイリスは、その、あまりに無垢な後ろ姿に、そっと、胸の前で、幸運を祈るように両手を合わせた。。
(…ザフキエル様。どうか、ご無事で…)
聖女の、祈りは、もちろん、誰にも、届かなかった。
「ザフキエル様! 本日の、冒険の目的地が決まりました! 『共鳴する木霊の部屋』です!」
「…こだまの、へや…?」
ザフキエルの、論理的な脳が、その詩的な響きを、解析しようと試みる。
(音の、反響。特定の周波数への、共鳴…。なるほど。彼女は、昨日、生命の根源である『食』の調和を示した。今日は、その次に、世界の構成要素である、『音』という波動の調和を、私に教えようと…? なんという、完璧な、教育プログラムなのだ…!)
彼は、感動に打ち震えながら、シルフィの小さな手を、固く握りしめた。
「…はい。ぜひ、ご案内をお願いします、シルフィ殿」
地獄の接待、二日目が、今、始まった。
シルフィの、無計画な城内散歩は、今日も絶好調だった。
彼女は、まず、西棟の長い廊下を、てくてくと歩き始めた。
壁には、歴代国王の肖像画が、ずらりと並んでいる。
「わあ、おじいさんの絵が、たくさんです」
「…ええ。ソラリア王国の、歴史ですね」
ザフキエルの、自動筆記ペンが、猛烈な勢いで動き出す。
『被験体、まず、王家の歴史を概観。時間軸の連続性という、調和の基礎を提示。…完璧な導入だ』
やがて、シルフィは、一つの巨大な扉の前で、足を止めた。
『王立大舞踏会場』。
彼女は、その扉を、何の躊躇もなく開けた。
中では、宮廷音楽家たちが、数日後に控えた演奏会の、リハーサルを行っていた。
美しいワルツの調べ。
「まあ、素敵な音楽です!」
シルフィは、その音楽に誘われるように、だだっ広い舞踏会場の中央へと歩み出た。
そして、一人で、くるくると楽しげに踊り始める。
「…………」
ザフキエルは、固まった。
そして、彼の、論理的な脳が、またしても、壮大な勘違いを始めた。
(…音楽。そして、舞踏。…そうだ。音という波動の調和は、音楽という芸術へと昇華される。そして、その芸術は、肉体の動きと一体化することで、舞踏という、より高次の総合芸術へと進化する…! なんという、無駄のない、論理の飛躍…! なんという、美しい結論…!)
彼の、瞳が、潤む。
その、彼の感動をぶち壊すかのように、シルフィは、踊るのに飽きたのか、今度は、部屋の隅に置かれていた、巨大なコントラバスのケースに、興味を示した。
「わあ! 大きな、箱です! この中に、入れるのでしょうか?」
「え…? いえ、シルフィ殿、それは、楽器のケースで…」
ザフキエルの、制止も、虚しく、シルフィは、そのケースの中に、すっぽりと、収まってしまった。
「…なんだか、落ち着きます…」
その、あまりにシュールな、光景。
ザフキエルの、頬が、引き攣った。
『…被験体、楽器との物理的融合を敢行…。…これは、一体、何を意味する…? …奏者と楽器の一体化…? 道具との完璧な調和の表現…? …深い…。深すぎる…。要、追加分析…』
その日の午後。
シルフィとザフキエルの、奇妙な二人組は、王城の地下深くへと迷い込んでいた。
シルフィが、地下へと続く階段の、ひんやりとした空気を、気に入ってしまったからだ。
たどり着いたのは、王家の財宝が眠る、巨大な宝物庫だった。
ノクトが、事前に、全ての扉の鍵を開けておいたのは、言うまでもない。
山と積まれた、金貨。
人の頭ほどもある、巨大な宝石。
だが、シルフィは、それらの財宝には目もくれなかった。
彼女は、その、だだっ広い石造りの部屋の中央で、足を止めた。
そして、手を、ぽん、と叩いた。
ぽん、と、音が、返ってくる。
「…わあ!」
わあ、と、音が、返ってくる。
「…ヤッホー!」
ヤッホー、ヤッホー、ヤッホー、と、音が幾重にも重なって響き渡った。
「見つけました、ザフキエル様! ここが、『共鳴する木霊の部屋』です!」
彼女は、満面の笑みで、振り返った。
ザフキエルは、その場で、崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。
彼の、論理的な脳が、悲鳴を上げていた。
食、歴史、音楽、舞踏、そして、音響物理学。
このエルフの少女は、たった二日で、この世界の、森羅万象の、調和の全てを、自分に教えようとしている。
その、あまりに高尚で、あまりに詰め込みすぎな、教育プログラム。
彼の、天使としての数万年の人生の中で、これほど知的な刺激を受けたことはなかった。
彼の、完璧な無表情に、初めて、明確な「疲労」の色が浮かび始めた。
その頬はこけ、瞳の光はどこか虚ろだ。
『観察記録、午後四時。…被験体の、情報伝達速度が、私の、情報処理能力を、超過…。…思考回路に、過負荷…。…システム、クールダウンを、要求…』
自動筆記の羽根ペンが、初めて、乱れた文字を書き殴った。
アイリスは、その日の夕方、シルフィからの報告を受けていた。
「アイリス様! 見つけましたよ! 『共鳴する木霊の部屋』! とっても、楽しかったです!」
その隣で、ザフキエルは、焦点の合わない目で、虚空を見つめていた。
「…調和…混沌…音…波動…」
彼は、何か、うわ言のように、呟いている。
アイリスは、その、あまりに痛々しい姿に、ほんの少しだけ、罪悪感を覚えた。
だが、脳内に響くノクトの満足げな声が、その感傷を打ち消した。
『…よし。奴の、精神パラメータに、マイナス十五%のデバフ効果を確認。…いい調子だ。…新人、明日も頼むぞ』
終わりなき、迷子の天使。
その、地獄の接待は、まだ、始まったばかりだった。




