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第二十一話 最悪の接待

 地獄の接待は、かくして始まった。

 アイリスは、あまりにもシュールな二人組――純粋な善意でザフキエルの手を引くシルフィと、未知の生命体を前にした研究者のように目を輝かせるザフキエル――の後ろ姿を、胃痛をこらえながら見送ることしかできなかった。

 脳内には、ノクト()の、どこまでも性格の悪い、満足げな笑い声が響き渡る。

『…ひひひ…。さて、と。あの生真面目な天使が、混沌の無限地獄に、どこまで耐えられるか。…最高の実験の始まりだ』

 彼の、個人的な復讐劇は、今、最も陰湿で、最も悪趣味な、最終章へと、その幕を開けたのだった。


「さあ、行きましょう、ザフキエル様! 私が、このお城の、秘密の冒険へお連れします!」

「はい! よろしくお願いします、シルフィ殿!」

 シルフィは、ザフキエルの手を固く握りしめ、意気揚々と一歩を踏み出した。

 彼女の頭の中には、アイリスから授けられた「この方を絶対に一人にしてはいけない」という、ただ一つの、絶対的な使命感だけが燃え盛っていた。

 そして、もう一つ。「王城に隠された古代の調和の遺産をご案内する」という、壮大な(そして、彼女自身もそれが何か全く分かっていない)任務。

(古代の、調和の、遺産…。きっと、とっても綺麗で、キラキラしていて、美味しいものに違いありません!)

 彼女の単純な思考回路は、その「遺産」を、伝説の虹色キャンディーか何かだと、完璧に誤解していた。

(確か、アイリス様が言っていました。そういうすごいお宝は、大抵、薄暗くて、誰も行かないような、秘密の場所に隠されている、と!)

 彼女は、エルフとしての、野生の勘(という名の、ただの思いつき)を、最大限に発揮した。

 厨房でも、図書室でも、庭園でもない。

 もっと、こう、冒険心をくすぐる、特別な場所。

 彼女は、自信満々に、ザフキエルを、ある方向へと導き始めた。

 もちろん、その方向は、アイリスが想定していた、当たり障りのないただの散歩コースとは真逆の、最も面倒くさい場所だった。


 ザフキエルは、シルフィに手を引かれながら、その小さな背中を、食い入るように観察していた。

 その空いた方の手には、巨大なクリップボードが握られている。

 そして、彼の肩の横には、一本の、純白の羽根ペンが、まるで意思を持っているかのように、宙に浮いていた。

 シルフィが動くたび、ザフキエルが何かを分析するたび、その羽根ペンは、彼の思考を読み取っているかのように、自動で、そして猛烈な勢いで、クリップボードの羊皮紙の上に、几帳面な文字を刻みつけていく。

『被験体シルフィ、観察記録、午後一時。観察者との、物理的接触(手繋ぎ)を開始。…魂の輝度に、変化なし。…だが、私の精神パラメータに、+〇・二%の安定効果を確認。…興味深い』

 彼は、生まれて初めて、他者の温かい手の感触に、触れていた。

 だが、その感動は、すぐに、論理的な分析対象へと変換されてしまう。

『被験体、東棟の、来賓用通路を、無視。北棟へと、進路を変更。…論理的な、ルート選択ではない。これは、何を意味する…? …ああ、なるほど。北棟は、この城で最も古い建築様式が、残されている。彼女は、まず、この城の「歴史」という、時間軸の調和から、私に教えようと…? なんという、深遠な、ガイドプラン…!』

 あまりに、壮大な、勘違い。

 シルフィは、ただ、北棟の廊下の先にきらりと光る、衛兵の鎧の装飾が、綺麗だと思っただけだった。


 シルフィの、無計画な、城内散歩は、続く。

 彼女は、北棟の、薄暗い廊下を、てくてくと進んでいく。

 やがて、彼女の目に、一つの、見覚えのない扉が、飛び込んできた。

 それは、普段は固く閉ざされているはずの、王家の巨大な食料貯蔵庫の、裏口の扉だった。

 なぜか、今日は、鍵が開いている。

 やる気をなくした衛兵が、鍵を閉め忘れた、とかではない。

 ノクトが、事前に、アイリスを通じて、衛兵に「今日は、害虫駆除の燻蒸を行うため、全ての扉の鍵を、開けておくように」と、もっともらしい嘘の指令を出していたのだ。

「あら? こんなところに、扉が。…なんだか、中から、甘い匂いがします」

 シルフィの、鋭敏なエルフの嗅覚が、扉の向こうから漂ってくる、微かな、しかし、極めて上質な、小麦とドライフルーツの香りを捉えた。

(…きっと、古代の調和の遺産は、この中に!)

 彼女は、何の疑いもなく、その扉を開けた。

 扉の向こうには、薄暗く、ひんやりとした、そして、山のように積まれた小麦粉の袋と干し肉と樽詰めのワインで満たされた空間が、広がっていた。

「わあ! 食べ物が、たくさんです!」

「…食料庫、ですか」

 ザフキエルは、眉をひそめた。

「シルフィ殿。これは、一体…?」

「はい! ここが、最初の、秘密の場所です!」

 シルフィは、自信満々に宣言した。

 ザフキエルは、再び、その論理の迷宮へと、足を踏み入れる。

(食料庫…。生命の源…。なるほど。彼女は、まず、この世界の全ての活動の根源である、「食」という、最も基本的な調和の形を、私に示そうと…? …深い。あまりに、深すぎる…!)

 彼は、クリップボードに、新たな分析を書き加えた。

『被験体の、ガイドプラン、第一段階。生命維持の、基礎パラメータの、提示。…極めて、論理的かつ、教育的な、アプローチである』


 シルフィは、食料庫の中を、楽しげに探検し始めた。

 そして、一つの巨大な小麦粉の袋の山を、見つけた。

「わあ! 雪山みたいです!」

 彼女は、その白い山に駆け寄ると、何の躊躇もなく、その頂上へと登り始めた。

「きゃっ!」

 足を滑らせ、彼女の小さな体が、小麦粉の雪崩と共に滑り落ちる。

 ザフキエルが、助けようと、手を伸ばすよりも、早く。

 彼女の体は、頭から、小麦粉の袋の中に、突っ込んでいた。

 数秒後。

 袋の中から現れたのは、全身が真っ白な小麦粉で覆われた、雪の妖精のような、シルフィだった。

「…ぷはっ! …なんだか、お化粧みたいで、楽しいです!」

 彼女は、悪戯っぽく笑った。

 その、あまりに無邪気で、あまりに混沌とした姿。

 ザフキエルの、完璧な論理の世界が、ぐにゃり、と歪んだ。

 美しい。

 非効率で、非論理的で、そして、掃除が大変そうだ。

 だが、なぜだ。

 なぜ、こんなにも、美しいと、感じてしまうのだ。

 彼の頬が、ほんのりと、赤く染まる。

『観察記録、午後二時半。被験体、小麦粉との、物理的融合を敢行。…その結果、生み出された、予測不能な、白い混沌。…これは、新たな調和の形…? …データにない…。要、追加分析…』


 アイリスは、その日の夕方、分隊員たちから次々と寄せられる奇妙な報告に、頭を抱えていた。

「姉御! 大変であります! 食料庫の小麦粉が、半分以上、ダメになっておりました! 犯人はまだ分かっておりやせんが、現場には、小さな足跡と、キラキラした羽が数枚、落ちていたとのことで…」

 ギルの、報告。

「ノン! 聞いてくれたまえ、アイリス! 先ほど、学院の僕のアトリエに、全身が真っ白な、幽霊のようなものが、現れてね! 床に置いてあった僕のパレットで足を滑らせ、その勢いで、僕が三日三晩心血を注いだ最高傑-作のカンヴァスに、全身からダイブしていったのだよ! 白と、赤と、青が混じり合った、あの混沌! なんて、前衛的なパフォーマンスだ!」

 ジーロスの、報告。

「ひひひ…! おい、アイリス! 今、城下で、とんでもねえ噂が流れてるぜ! 『王城に、幸運をもたらす、白い妖精が現れた』ってな! 早速、『幸運の白い粉』っていう新商品(ただの小麦粉)を売り出してみたんだが、これが飛ぶように売れてやがる!」

 テオの、報告。

 全ての、元凶は、ただ一人。

 アイリスは、天を仰いだ。

 作戦名、『終わりなき迷子の天使』。

 それは、天使を迷子にする作戦ではなかった。

 天使と共に迷子になった一人のエルフが、この城に、終わりなき混沌をもたらす、壮大な物語の始まりだったのだ。

 彼女の、胃痛は、明日からも、きっと、続くだろう。

 そして、その混沌の中心で、一人の『神』が高笑いしている姿を、彼女は、嫌というほど想像することができた。

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