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第二話 静かなる是正

 英雄たちの混沌に満ちた日常が、再び王都の風物詩となってから数週間が過ぎた。

 アイリスは、山積みの公務の合間を縫って、一人で王都の市街を散策していた。

 それは聖女としての視察というより、あまりに濃密すぎる仲間たちから逃れるための、ささやかな現実逃避だった。

 活気に満ちた目抜き通り。

 人々の熱気、馬車の蹄の音、そして、どこからともなく漂ってくる香ばしい焼き菓子の匂い。

 この混沌こそが、王国が「やる気」を取り戻した、何よりの証拠だった。

 アイリスは、その喧騒に、ほんの少しだけ、安らぎを感じていた。

 しかし、その日。

 彼女は、見慣れた日常の風景の中に、一枚の、完璧に磨き上げられたガラスをはめ込んだかのような、静かな違和感を覚えることになる。

「…あれ?」

 彼女が足を止めたのは、中央広場に面した、古くからの織物問屋の前だった。

 店の軒先に掲げられた、木製の看板。

 それは、長年の風雨に晒され、少し右肩下がりに傾いているのが、味のある風情を醸し出していたはずだった。

 だが、今日のその看板は、まるで建設されたばかりの建物に取り付けられたかのように、地面に対し、寸分の狂いもなく、完璧な水平を保っていた 。

(…修理、したのでしょうか)

 些細なことだ。そう思い、彼女は再び歩き出した。

 だが、違和感は、そこから始まった。

 隣の八百屋の、野菜を並べた台。

 トマトも、カボチャも、まるで幾何学の教科書のように、大きさ順、色順に、完璧なグラデーションを描いて並べられている。

 向かいのパン屋の窓から見えるパンは、全てが、全く同じ焼き色、全く同じ形をしていた。

 そして、何より奇妙だったのは、「音」だった。

「いらっしゃい! 新鮮な魚だよ! 今朝とれたての!」

 魚屋の主人の、いつもの、威勢のいい呼び込みの声。

 だが、今日のその声は、なぜか、決して、不快にならない。

 まるで、熟練の音楽家が調律したかのように、周囲の喧騒の中に、完璧に調和する音量と音程を保っていたのだ 。

 アイリスは、立ち止まり、市場全体を見渡した。

 活気はある。

 だが、その活気は、まるで、完璧にリハーサルされた、演劇のようだった。

 誰もが、決められた立ち位置で、決められた台詞を、決められた音量で、話している。 そんな、ありえない妄想に、彼女は囚われた。

「…どうかなさいましたか、アイリス様?」

 護衛の騎士が、不思議そうに尋ねる。

「…いえ。なんだか、今日の市場は、いつもより、すがすがしい気がして」

「はっ! 左様でございますな! 私も、なんだか、空気が澄んでいるように感じます!」 騎士は、何も、気づいていない 。

 周りの人々も、「なんだか今日は、気持ちのいい日だねえ」と、笑い合っている 。

 この、静かな、しかし、確実に世界を侵食しつつある「完璧さ」の、その不気味さに気づいているのは、どうやら、自分だけらしい 。

 アイリスは、言い知れぬ不安を胸に、王城へと、足を速めた。


 その、静かなる是正の波は、英雄たちの日常をも、間接的に、しかし確実に、蝕み始めていた。


 騎士団訓練場。

 激情のギルは、その日も、騎士たちに、地獄の特訓を課していた。

 だが、彼の集中力は、どこか、散漫だった。

「なってないであります! 剣の角度が、甘い! もっと、こう…!」

 彼が、指導のために、武器庫から一本の訓練用の剣を抜き取った、その時だった。

「…む?」

 彼は、武器庫の、そのあまりの「完璧さ」に、眉をひそめた。

 壁にかけられた剣も、槍も、盾も、全てが、ミリ単位の誤差もなく、等間隔に、完璧に、整列している。

 床には、チリ一つ落ちておらず、彼の顔が、鏡のように映り込んでいた。

「…掃除当番の者は、誰であったか。…見事ではあるが、やりすぎでありますな。これでは、いざという時、武器を取り出すのに、気を遣って、躊躇してしまうではないか」

 彼は、ほんの少しの、居心地の悪さを感じていた。

 戦場とは、混沌であるべきだ。

 この、完璧すぎる秩序は、戦士の魂を、どこか、萎縮させる。

 そして、その影響は、騎士たちにも現れていた。

「貴様ら! 何をしておる! 訓練中に、石畳の目地を掃除する者があるか!」

「はっ! ですが、ギル教官! なぜか、分かりませんが…! この、ほんの僅かな土汚れが、気になって、気になって、仕方がないのです…!」

「そうです! この、武器の、ほんの僅かな角度のズレが、我々の士気を、著しく低下させているように感じます…!」

 騎士たちは、もはや、強くなることよりも、「完璧な秩序」を保つことの方に、無意識に、意識を奪われていた。

 ギルは、その、あまりに細かく、あまりに生産性のない行動に、怒りを通り越して、混乱していた。


 王立魔術学院。

 光輝魔術師ジーロスは、自らが創り上げた、プラチナとダイヤモンドの校舎の前で、新たな芸術の構想に、頭を悩ませていた。

「ノン…! だめだ! 全く、インスピレーションが、湧いてこない…!」

 彼は、扇子で、自らの額を、ぱしり、と叩いた。

 彼の目には、この完璧な校舎が、もはや、退屈なオブジェにしか見えなくなっていた。

「なぜだ…? この、完璧なまでの美の殿堂が、なぜ、僕の心を、少しも、ときめかせないのだ…?」

 彼は、学院の廊下を、いらだちながら、歩き回る。

 壁に飾られた、歴代院長の肖像画。その、全ての額縁が、全く同じ高さに、完璧に、揃えられている。

 窓ガラスは、一点の曇りもなく、磨き上げられ、外の光を、ありのままに、通している。

「…そうか! そうだったのか!」

 ジーロスは、天啓を得たかのように、叫んだ。

「完璧すぎるのだ、この世界は! 芸術とは、不完全さの中にこそ、宿る! 僅かな、歪み! 予測不能な、混沌! それが、僕の、創造の源泉だったというのに!」

 彼は、この、静かなる秩序に、自らの芸術の、最大の敵を、見出した。


 そして、不徳の神官テオ。

 彼の商売は、今日も、繁盛していた。

 だが、彼もまた、奇妙な違和感に、首を傾げていた。

「ひひひ…。なんだか、今日の客は、やけに行儀がいいじゃねえか」

 彼の店の前には、いつも通り、長蛇の列ができていた。

 だが、その列は、まるで兵士の行進のように、一糸乱れぬ、完璧な列を成している。

 客たちは、彼の胡散臭い口上にも、熱狂することなく、ただ、静かに、そして冷静に、耳を傾けていた。

「あのう、店主殿。こちらの『聖女のため息』ですが、内容物は、空気ということで、よろしいでしょうか? また、その『聖なる息吹』とやらの、科学的根拠を、ご提示いただけますかな?」

 一人の客が、極めて冷静に、そして論理的に、質問を投げかけてくる。

「ぐっ…!」

 テオは、言葉に詰まった。

 いつものように、「聖女様の奇跡を、信じる心が、大切なのですよ!」などという、感情論で、ごまかすことができない。

 客たちの目が、あまりにも、理性的すぎた。

 彼の詐欺的商法は、人々の、熱狂や、欲望、そして、ほんの少しの「愚かさ」の上に、成り立っていた。

 だが、今の王都の人々は、あまりにも、「正しく」なりすぎていた。


 その頃、塔の一室。

 ノクトは、レイドボスを完璧な連携で打ち破り、満足げに、息をついていた。

「ふむ。マナ通信網の質が、ここにきて急激に向上している。遅延はゼロ。ノイズもゼロ。素晴らしい。王国の技術者が、ついにこの天才の要望に追いついたか」

 最高のゲーム環境。

 それは、彼にとって、世界の平和そのものだった。

 だが、その完璧すぎる安定性に、彼のゲーマーとしての鋭い直感が、ほんの僅かな、しかし無視できない「違和感」を捉えていた。

(…安定しすぎている。まるで、誰かが意図的に、ノイズを全て除去しているかのようだ。嵐の前の静けさのようで、気持ちが悪い…)

 彼は、その些細な胸騒ぎを、新しいポテチを開封することで、無理やり意識の外へと追い出した。


 アイリスは、その日の夕方、仲間たちから、それぞれの、奇妙な体験談を、聞いていた。

 断片的な、情報。だが、その全てが、一つの方向を指し示している。

 何者かが、この世界の、「乱れ」を、正そうとしている。

 それは、善意なのか、悪意なのか。

 アイリスは、言い知れぬ不安を胸に、調査の開始を決意した。

 彼女は、まだ知らない。

 この、静かなる是正の波が、やがて、彼女自身のプライベートな領域、そして、塔の上の、一人の『神』の、最も神聖な領域――ポテチの味――をも、侵食することになるのを。

 そして、それが、この平穏を根底から覆す、新たな戦いの始まりになることを。

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