第十九話 『神』の仮説と検証
ノクトは、初めて、このゲームの、本当の攻略法に、気づきかけていた。
だが、その、最後のピースが、まだ足りない。
彼は、自室の塔で、一人、水盤に映るシルフィの無垢な笑顔を、見つめていた。
そして、この矛盾を解き明かすための、次なる、そして、最も悪趣味な、実験を、静かに計画し始めていた。
翌日。
アイリス分隊の作戦会議室は、これまでにない、奇妙な緊張感に包まれていた。
ギル、ジーロス、テオの三人は、アイリスの前に、直立不動で立たされている。
彼らの、これまでの敗北の報告は、全て、ノクトの元へと、届いていた。
そして、今、その『神』からの、次なる神託が、下されようとしていた。
「…皆様。神様より、新たな指令が、下りました」
アイリスは、目の下に深いクマを作りながら、告げた。
昨夜、彼女は、一睡もしていなかった。
脳内で、ノクトが、延々と、ブツブツと、独り言のように、仮説と検証のプロセスを垂れ流し続けていたからだ。
『…奴の論理は完璧だ。だが、その完璧な論理が、シルフィという、非論理の塊の前でだけ、機能不全を起こしている。…これは、システムの、バグだ。…だとすれば、そのバグを、意図的に発生させ、奴の思考回路をオーバーロードさせれば…。ひひひ…面白い…』
その、あまりに性格の悪い、独り言を、一晩中、聞かされ続けたのだ。
「…これより、我々は、天使ザフキエルに対する、最終検証実験を、開始します」
アイリスは、震える手で、一枚の羊皮紙を広げた。
そこには、ノクトが描いた、悪魔的な作戦の、全容が記されている。
「作戦名、『純粋なる冒涜』」
その、あまりに物騒な作戦名に、分隊員たちが、ごくりと、喉を鳴らす。
「…今回の主役は、シルフィです」
アイリスが、そう言うと、部屋の隅で蝶の絵を描いていたシルフィが、きょとんとして顔を上げた。
「え? 私、ですか?」
「はい。あなたには、これから、ザフキエルの前で、この世界で最も『法令遵守に違反』した行動を、取ってもらいます」
「ええっ!?」
アイリスは、シルフィに、一枚の指示書を手渡した。
そこには、たった一言、こう書かれていた。
『―――綺麗な壁に、お花の絵を、描きましょう』
その日の午後。
アイリス分隊は、王城の西棟のテラスへと向かっていた。
そこは、王城の中でも、ひときわ、白く、美しい壁で、有名だった。
そして、そのテラスでは、案の定、ザフキエルが、監査の真っ最中だった。
彼は、壁の白さを、特殊な測定器で、計測していた。
「…ふむ。壁の、白色度、九十八・七パーセント。天界の、基準値よりも、〇・二パーセント、高い。…素晴らしい。完璧な、白です」
彼が、その完璧な白さに、満足げに頷いていた、まさにその時だった。
「あのう、すみませーん」
シルフィが、てくてくと、彼の元へと歩み寄った。
その両手には、ジーロスがノクトの指示で特別に調合した、七色の、キラキラと輝く、魔法の絵の具が入ったバケツが、握られている。
「…シルフィ殿。何か、ご用件ですか」
「はい! あのですね、この、真っ白な壁、なんだか、寂しそうなので、私が、可愛いお花の絵を、描いてあげようと思います!」
「…………は?」
ザフキエルの、無感動な顔に、初めて、明確な亀裂が入った。
完璧な、白。
調和の、象徴。
それを、この、模範的存在であるはずのシルフィが、汚そうとしている?
彼の、論理的な脳が、エラーを起こす。
(…待て。落ち着け、私。…これは、きっと、何か、深遠な意図があるはずだ。…そうだ。彼女は、この、完璧な『静』の調和に、あえて、『動』の混沌を、加えることで、より、高次元の調和を、生み出そうとしているのでは…?)
ザフキエルの、壮大な勘違いが、再び始まった。
その、彼が、思考停止している間に、シルフィは、すでに行動を開始していた。
彼女は、その、小さな両手を、絵の具のバケツに、どっぷりと、浸した。
そして、その、七色に汚れた手で、完璧な白い壁に、べたり、と手形をつけた。
「えいっ!」
純白の壁に刻まれた、混沌の第一歩。
ザフキエルの、肩が、びくり、と震えた。
「わあ! 楽しいです!」
シルフィは、楽しくなってしまった。
彼女は、次々と、壁に手形をつけ始めた。
赤、青、黄色、緑。
無邪気な、暴力。
完璧な調和が、無慈悲な混沌によって、塗りつぶされていく。
「や…」
ザフキエルの口から、か細い声が漏れた。
「やめ…」
やがて、シルフィは、壁に、巨大な虹色の太陽のような、花の絵(という名の、ただの落書き)を、描き上げた。
その、あまりに前衛的で、あまりに冒涜的な、アート。
それは、ザフキエルの、法令遵守精神に対する、正面からの宣戦布告だった。
物陰から、その光景を見守っていた分隊員たちは、息をのんだ。
「姉御…! これは、さすがに、やりすぎでは…!」
ギルが、顔を、青ざめさせる。
ジーロスは、その、あまりに冒涜的なアートに、感動の涙を流していた。
「素晴らしい…! 既存の調和を破壊し、新たな混沌を創造する…! これぞ、真の、芸術だ!」
テオは、ただ、そろばんを、弾いていた。
「…この壁の、修復費用…罰金は、いくらに、なるかな…?」
アイリスは、ただ、胃を押さえていた。
ザフキエルは、震えていた。
怒りではない。
困惑だ。
彼のルールブックには、この事態を、どう処理すればいいのか、書かれていなかった。
法令遵守違反は、明白。
景観法、器物損壊、その他、多数の法律に違反している。
だが、その違反行為を行っているのが、彼が、唯一認めた「模範的存在」であるシルフィなのだ。
彼の、頭の中で、二つの、絶対的な正義が、激しく衝突した。
『ルールは、絶対、遵守されなければならない』
『模範的存在である、シルフィの行動は、全てが正しい』
論理の、矛盾。
彼の、完璧な思考回路が、ショートした。
「あ…あ…」
彼は、クリップボードを、取り落とした。
そして、シルフィが描き上げた、混沌の塊のような落書きを見つめ、震える声で、呟いた。
「…す、素晴らしい…。き、既存の調和を、一度破壊し、再構築しようという、高度な芸術的試み…。…実に、合理的、です…」
彼は、自らの論理を守るために、現実を捻じ曲げたのだ。
シルフィの、ただの落書きを、高尚な芸術だと、無理やり結論付けた。
だが、その無理やりな結論は、彼の精神に、致命的な負荷を与えた。
彼の、完璧な無表情が、初めて、ぐにゃり、と歪んだ。
その瞳から、ハイライトが消えかけている。
その、決定的な瞬間を、塔の上のノクトは、見逃さなかった。
『…仮説は、立証された』
彼の、脳内に、歓喜の、雷鳴が、轟いた。
『奴の、致命的な弱点は、シルフィだ。…面白い。実に、面白い』
彼は、ついに、掴んだのだ。
この、理不尽なクソゲーの、ラスボスを倒すための、唯一の、そして最強の、武器を。
彼の口元に、悪魔の笑みが、浮かんだ。
『これより、作戦名『終わりなき迷子の天使』の、最終準備に入る。あの、生真面目な天使に、本当の「混沌」とは何かを、骨の髄まで、教えてやる』
ノクトの、個人的な復讐劇は、今、最終章の幕を開けようとしていた。




