第十七話 神聖なる物(ポテチ)への冒涜
王城では、今日も、奇妙な追いかけっこが繰り広げられていた。
一人の純粋なエルフが、ただ静かな場所を求めて逃げ惑い、その背後を、一人の無感動な天使が、クリップボードを手に、影のように付き従う。
シルフィの受難は続き、そして、その裏で、ザフキエルの「是正」は、着実に、しかし、静かに、王国全土へと、その範囲を広げていた。
彼の監査の目は、もはや、王城や、騎士団だけには、とどまらなかった。
彼は、この国の、文化、経済、そして、人々の生活習慣そのものに、その完璧すぎるメスを、入れ始めたのだ。
酒場の喧嘩は禁止され、吟遊詩人の歌は、全て、心と体に優しい、ヒーリング音楽へと改変された。
そして、ついに、彼の、その完璧すぎる正義の刃は、この国の、最も神聖で、最も触れてはならない聖域へと、向けられることになる。
王城の最も高い塔。
ノクトは、いつものように、自らの、完璧な日常を、謳歌していた。
アイリス分隊の、混沌とした報告は、彼の耳にも届いている。
だが、それは、彼にとって、対岸の火事でしかなかった。
むしろ、ザフキエルという、予測不能な、新しいキャラクターが登場したことで、この、退屈な、現実という名のゲームが、少しだけ面白くなってきたとさえ、感じていた。
『…面白い。あの天使の、唯一にして、最大の、そして、致命的な、脆弱性は…シルフィ、か』
彼は、水盤に映る、シルフィにストーキングする、ザフキエルの姿を、楽しげに眺めていた。
(あの、完璧な論理の化身が、混沌の権化に、心酔している。…これ以上の、皮肉はないな。…まあ、俺のゲーム環境に実害がない限りは、好きにさせておくか)
彼は、自らの快適な日常が、永遠に保証されていると、信じて疑わなかった。
その、絶対的な自信が、粉々に打ち砕かれる、その瞬間まで。
その日の、午後。
アイリスは、ノクトからの、緊急の、そして、どこか機嫌の悪い「神託」を受けていた。
『…新人。ポテチの在庫が切れた。至急、献上せよ』
(承知いたしました、神様。本日は、先日、ソルトリッジ社から、特別に献上されました、最高級の試作品がある、と聞いておりますが、そちらで、よろしいでしょうか?)
『…試作品、だと…? フン、まあ、いいだろう。俺の、この、神の舌で、その価値を、見極めてやろう』
アイリスは、侍従に命じ、その、特別な一袋を、国王の執務室経由で、ノクトの元へと届けた。
それは、ソルトリッジ社が、社運を懸けて開発したという、究極の一品。
袋には、『濃厚コンソメ・ストロングソルト味』と、力強い文字で、書かれている。
ノクトは、その、いかにも、体に悪そうで、ジャンキーな響きに、満足げに頷いた。
彼は、厳かな手つきで、その封を切る。
袋から立ち上る、芳醇な、コンソメの香り。
彼は、一枚の、完璧な、黄金色のチップスを、指でつまみ上げ、光に、かざした。
表面に、惜しげもなく、まぶされた、大粒の、岩塩の輝き。
「…素晴らしい」
彼は、呟いた。
そして、その、至高の一枚を、口へと運んだ。
―――ザクッ。
完璧な、歯ごたえ。
だが、次の瞬間、彼の、完璧な表情が、凍りついた。
「…………?」
味が、しない。
いや、する。
するのだが、あまりにも、優しすぎた。
濃厚なコンソメの、暴力的なまでの旨味がない。
舌をピリピリと刺激する、ストロングな塩気もない。
ただ、ジャガイモ本来の、素朴な甘みと、ほんのりと香る野菜のブイヨンのような、上品な風味だけが、口の中に広がっていた。
それは、まるで病人食だった。
「…な、なんだ、これは…?」
彼は、震える手で、袋の、裏側を、見た。
そこには、以前は無かったはずの、一枚の、小さなシールが、貼られていた。
そして、そのシールには、極めて丁寧な、しかし、ノクトにとっては、悪魔の宣告にも等しい一文が、記されていた。
【天界監査局・世界環境改善指導員、ザフキエル様のご指導に基づき、本製品は、塩分を、七十パーセントカットし、化学調味料を一切使用しない、健康志向の製品として、生まれ変わりました】
ノクトの思考が、完全に停止した。
ゴトリ、と。
彼の手から、コントローラーが、滑り落ちる。
彼の、脳裏に、これまでの全ての出来事が、走馬灯のように駆け巡った。
市場の、静けさ。
ギルの、ラジオ体操。
ジーロスの、屈辱。
テオの、敗北。
そして、あの、天使の、顔。
『―――国民の、塩分の過剰摂取傾向…』
玉座の間での、あの、何気ない、一言。
全てが、繋がった。
あの、天使は。
あの、法令遵守の、化身は。
ついに、この、ノクトの、最も神聖で不可侵な領域―――ポテチの味―――にまで、その、汚れた「是正」の手を伸ばしてきたのだ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
王城の、最も高い塔が、揺れた。
いや、揺れているように、見えた。
塔の頂から、これまでに誰も感じたことのない、巨大で、冷徹で、そして、底なしの、怒りの魔力が、嵐となって吹き荒れたからだ。
アイリスは、貴婦人たちとのお茶会の席で、その、あまりの殺気に、背筋が凍りついた。
(…神様…!? いったい、何が…!?)
彼女の脳内に響いたのは、もはや、声ではなかった。
純粋な、私怨の、極致。
地獄の業火よりも冷たい、絶対零度の、殺意の、波動だった。
『……あの、天使野郎……』
その、静かな呟きは、世界の終わりを告げる、鐘の音だった。
『…俺の…。俺の、ポテチを…。…冒涜しやがったな…!』
彼の、個人的な、しかし、あまりに大きな怒りが、ついに、頂点に達した。
もはや、この世界の、混沌も、秩序も、どうでもいい。
ただ、自らの、最も大切なものを奪った、その、理不尽な「正しさ」を、完膚なきまでに、叩き潰す。
その一点に、彼の全ての思考は収束した。
『―――新人!』
その、絶叫にも似た命令に、アイリスの体が、びくり、と跳ねた。
『これより、作戦目標を、最終フェーズへと、移行する! あの、クソ天使を、探し出せ! そして、俺の前に、引きずり出してこい!』
その声は、もはや、『神』のものではなかった。
ただの、お気に入りのオモチャを壊された、子供の癇癪。
だが、その、あまりに個人的で、あまりに理不尽な癇癪こそが、この物語を、次なる混沌のステージへと導く、引き金となったのだ。
アイリス分隊の、受難の日々は、終わった。
これより始まるのは、一人の、引きこもりの『神』による、天使への、あまりに個人的な、復讐劇。
史上最もくだらない聖戦の火蓋が、今、切って落とされた。




