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第十六話 寵愛という名の地獄

 監査官ザフキエルの、あまりにズレた寵愛は、シルフィにとって、新たな地獄の始まりだった。

 それは、暴力や悪意とは無縁の、純粋な善意と尊敬の念に基づいた、静かで、粘着質で、そして、魂をじわじわと削り取るような、精神的なストーキングだった。


 翌朝。シルフィは、決意していた。

(今日こそは、絶対に、あのキラキラした羽のお兄さんに見つからずに、厨房までたどり着いてみせます…!)

 彼女は、エルフとしての全ての能力を、初めて、生存のために行使した。

 音もなく部屋を抜け出し、気配を完全に消す。

 そして、厨房へと向かうべく、自信に満ちた一歩を踏み出した。

 もちろん、その方向は、厨房とは真逆の、地下へと続く薄暗い階段だった。

 彼女は、自らの完璧な隠密行動と、完璧に間違った方向感覚に、何の疑いも抱かず、勝利を確信しながら、その冷たい階段を下りていった。


 たどり着いたのは、ひんやりと湿った空気が漂う、王城の地下牢だった。

「…あれ?」

 彼女が、首を傾げた、その瞬間。

 薄暗い牢獄の隅の影から、ザフキエルが、すっ、と姿を現した。

「…おはようございます、シルフィ殿」

「ひゃっ!?」

「素晴らしい。気配遮断の技術、完璧です。ですが、空気抵抗の、僅かな変化で、そこにいることは、分かっていました。その、自然との一体化、実に興味深い」

 ザフキエルは、クリップボードに、何かを書き込みながら、淡々と告げた。

 シルフィは、泣きそうになった。

 彼女は、踵を返し、来た道を、全力で逃げ出した。


 シルフィの逃亡劇は、一日中、続いた。

 だが、彼女の行動は、全て、ザフキエルの「善意」によって、先回りされてしまっていた。

 彼女が、厨房へ向かおうとして、今度は、東塔の全く使われていない物置部屋に迷い込むと、その部屋の扉の前に、ザフキエルが、音もなく、立っていた。

「シルフィ殿。厨房は、あちらの方向です」

 彼が、指をさした先。

 そこには、床が、美しい光の矢印で、ピカピカと、輝いていた。

「あなたの、その、遠回りをするという、深遠な行動原理は、まだ、私には完全に理解できません。ですが、もし、あなたが、空腹であるという、生理的欲求を満たすことを優先するのであれば、こちらのルートが、最も効率的です」

「あ…あ…」

 シルフィは、言葉を失った。

 迷子になる、という、彼女にとって、最も自然で、最も当たり前の日常が、奪われた。

 彼女は、光の矢印に導かれるままに、一度も道に迷うことなく、厨房へとたどり着いてしまった。

 それは、生まれて初めての、屈辱的な体験だった。


 彼女が、庭園で、昼寝をしようとすれば、彼は、どこからともなく現れ、最も、快適な木陰に、ふかふかのクッションを、設置しておく。

「睡眠の質は、心身の調和に、不可欠です。どうぞ、ご自由にお使いください」

 彼女が、一羽の蝶を、追いかけようとすれば、彼は、その蝶の飛行ルートを、完璧に予測し、その最終到達地点に、そっと、彼女を誘導する。

「蝶の、不規則な飛翔パターンと、あなたの、予測不能な追跡ルート。この、二つの混沌が交差する一点。そこには、宇宙の真理が、隠されているのかもしれません…」

 シルフィは、もはや、泣きそうだった。

 彼女の、自由が、奪われていく。

 行き当たりばったりの冒険が、全て、完璧に管理された、退屈な「観察記録」へと変えられていく。

 彼女は、生まれて初めて、「一人の時間」という概念の、尊さを知った。

 そして、ついに、彼女の、堪忍袋の緒が切れた。


 その日の夕方。

 アイリス分隊の作戦会議室は、シルフィの、魂からの訴えで、満たされていた。

「うぅ…アイリス様ぁ…。もう、限界ですぅ…。どこへ行っても、あの人が、いるのです…。トイレに、行こうとしたら、扉の前で、『排泄という、生命活動の、根源的な、サイクルについての、考察』とか、ぶつぶつ…」

 彼女は、本気で泣いていた。

 その、あまりに不憫な姿に、仲間たちも、同情を禁じ得なかった。

「姉御! あの、天使野郎! やることが、陰湿すぎやしませんか!?」

「ノン! 乙女の、プライベートな空間にまで、土足で踏み込むなど! 美学の、欠片もない!」

「ひひひ…。こりゃ、傑作だ。あの、堅物の天使が、ただの、変態ストーカーじゃねえか」

 アイリスは、深いため息をつくと、いつものように、天を仰いだ。

(神様…。シルフィが、可哀想です…。何か、手を、打ってはいただけないでしょうか…?)


 その頃、塔の一室。

 ノクトは、その、一部始終を、水盤越しに、眺めていた。

 そして、腹を抱えて、笑っていた。

「…は、はは…! あはははは! 傑作だ! あの、完璧な論理の化身が、混沌の権化に心酔し、その論理的思考を暴走させている、か…!」

 彼は、このシュールなコメディを、最高の娯楽として、消費していた。

 彼の、完璧な日常に、直接的な害はない。

 むしろ、ザフキエルの全ての意識がシルフィに集中しているおかげで、彼への監査の目は、全く、向けられていなかった。

『…却下だ』

 ノクトは、アイリスの、悲痛な訴えを、一蹴した。

『これは、好機だ。あの天使が、シルフィという、理解不能な「不条理(バグ)」の解析に夢中になっている間に、我々は、奴の、本当の弱点を探る。…シルフィには、もう少しだけ、我慢してもらえ。これも、世界平和のためだ』

(どの口が、それを言うのですか…!)

 アイリスは、内心で、絶叫した。

 だが、ノクト()の命令は、絶対だ。

 彼女は、涙目のシルフィに、「…もう少しだけ、頑張ってください…」と言うことしかできなかった。


 ノクトは、上機嫌だった。

 彼の目論見通り、ザフキエルは、シルフィという巨大な沼に、完全に足を取られていた。

 彼の、完璧なゲーム環境は、安泰だ。

 彼は、アイリスに命じて取り寄せさせた、新作の限定ポテチの袋を、満足げに眺めた。

 ソルトリッジ社が、社運を懸けて開発したという、究極の一品。

 『濃厚コンソメ・ストロングソルト味』。

 その、魅惑的な響き。

(…ふん。筋肉馬鹿も、ナルシストも、詐欺師も、天使も。…全て、俺の掌の上で踊っているに過ぎん)

 彼は、自らの、完璧なゲームの腕前に、酔いしれていた。

 この世界の、全ての混沌は、彼がその気になれば、いつでも解決できる。

 だが、今は、この面白いショーを、もう少しだけ楽しむのも、悪くない。

 彼は、絶対的な、全能感と、平穏に、包まれていた。

 自らの、快適な引きこもりライフは、永遠に、保証されているのだ、と。

 その、絶対的な自信が、粉々に打ち砕かれる、その瞬間まで。

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