第十五話 終わりなき観察記録
ザフキエルのズレた寵愛は、こうして始まった。
それは、シルフィにとって、これまでのどの受難とも違う、最も理解不能で、最も精神的に追い詰められる、新たな地獄の始まりを告げる、鐘の音だった。
翌朝。
シルフィは、いつものように、自室のベッドで目を覚ました。
窓から差し込む、柔らかな朝日。
小鳥たちの、楽しげな歌声。
「…お腹が、空きました」
彼女の、純粋な本能が、一日の始まりを告げる。
今日の目標は、ただ一つ。
自室から厨房まで、無事にたどり着き、焼きたてのハチミツマフィンを、手に入れること。
彼女は、昨日、アイリスに十回も復唱させられた、完璧なルートを、頭の中で繰り返した。
(この扉を、右に出て、まっすぐ。突き当りを、左。そして、赤い絨毯の階段を、下りる…)
完璧な、はずだった。
彼女は、自信満々に、部屋の扉を開けた。
そして、右に、曲がった。
だが、その廊下の、三メートルほど先。
壁に飾られていた風景画の額縁が、ほんの少しだけ傾いているのが、彼女の目に留まった。
「あら…? 曲がっています。なんだか、可哀想です」
彼女は、てくてくと、その絵画の元へと歩み寄った。
そして、その額縁を、まっすぐに直してあげる。
だが、その、ほんの数歩の寄り道が、彼女の、脆弱な記憶野から、「厨房への完璧なルート」のデータを、完全に、消し去ってしまった。
「…ええと。…どっち、でしたっけ…?」
彼女は、首を、こてん、と傾げた。
そして、結局、いつものように、自らの本能だけを頼りに、歩き始めた。
もちろん、その方向は、厨房とは真逆だった。
彼女の、その、あまりにいつも通りの、迷子の始まりを、物陰からじっと見つめる、一対の無感動な瞳があった。
監査官ザフキエル。
彼は、昨夜から、ずっとそこにいた。
彼は、クリップボードに、極めて几帳面な文字で、メモを取っていた。
『被験体シルフィ、観察記録、午前七時。目的地(厨房と推定)への、最短ルートを、意図的に放棄。廊下の絵画の、僅かな不調和を、是正する行動を確認。…なるほど。彼女にとって、個人的な欲求の充足よりも、世界の微細な調和の維持が、優先される、というわけですか。素晴らしい』
あまりに、壮大な、勘違い。
彼は、シルフィが、ただ道に迷っているだけだとは、夢にも思っていなかった。
シルフィの、無自覚な城内散歩は、続く。
彼女は、厨房へ向かうはずが、いつの間にか、王立魔術学院へと続く渡り廊下に、迷い込んでいた。
「わあ、キラキラです」
廊下の窓から見える、ジーロスが創り上げた、プラチナとダイヤモンドの校舎。
その、悪趣味な輝きに、彼女は、目を奪われていた。
その、数メートル後ろを、ザフキエルが、影のようについてくる。
『午前七時十五分。被験体、王立魔術学院へ到達。目的地(厨房)とは、著しく、乖離。…これは、何を意味する…? 食欲という、物理的な欲求から、知性という、より高次の、欲求へと、その行動目的がシフトした…? …あるいは、あの、醜悪な建造物の、美的法令遵守違反を、自らの、清らかな存在で、中和しようと…? …深い…。あまりに深遠な、行動原理だ…』
ザフキエルの、論理的な脳は、シルフィの、あまりに非論理的な行動を、理解するために、フル回転していた。
だが、その思考は、常に、的外れだった。
やがて、シルフィは、魔術学院にも飽きて、今度は、騎士団の訓練場へと、迷い込んだ。
そこでは、もはや情熱を失った騎士たちが、ザフキエルが定めた「安全第一」の綿の剣で、ぽすぽすと、気の抜けた打ち込み稽古を、続けている。
シルフィは、その光景を、ただ、ぼんやりと、眺めていた。
すると、一人の若い騎士が、彼女の姿に気づき、駆け寄ってきた。
「シルフィ様! 見てください! 我々は、こんなにも、安全で、誰一人、怪我をすることのない、完璧な訓練を、行えるようになりました!」
その、どこか自嘲気味な報告に、シルフィは、にこやかに、頷いた。
「はい! とっても、平和で、素敵です!」
その、純粋な、賛辞。
若い騎士の、ささくれだった心が、ほんの少しだけ、癒された。
その、一部始終を、ザフキエルは、柱の影から、記録していた。
『午前八時。被験体、騎士団訓練場へ到達。…なるほど。混沌(ギルの訓練)が、秩序(是正措置)へと、移行した、その結果を、自らの目で、確認しに来た、というわけですか。そして、その、平和的な変化を、肯定し、賞賛する。…なんと、素晴らしい…。彼女は、私の、この是正活動の、唯一の理解者だ…!』
ザフキエルの、勘違いは、もはや、信仰の域に達していた。
彼は、この、模範的存在の、行動原理を解き明かすことこそが、この世界を真に是正するための、唯一の鍵であると、確信し始めていた。
その日の午後。
シルフィは、ようやく、自力で(というより、彼女を探しに来たアイリスによって)、作戦会議室へと、たどり着いた。
だが、彼女の精神は、確実に、すり減っていた。
「あのう、アイリス様…」
彼女は、おずおずと、切り出した。
「なんだか、今日、どこへ行っても、あの、キラキラした羽のお兄さんが、いるような、気がするのですが…」
「え…!?」
アイリスが、立ち上がる。
「気のせい、でしょうか…。私がお花を見ていると、後ろで、ぶつぶつ、何かをメモしていますし、私が、あくびをすると、その、あくびの、持続時間まで、計測しているような…」
「…そ、それは、気のせいでは、ありません、シルフィ…」
アイリスは、顔を、青ざめさせた。
テオは、腹を抱えて、笑い転げている。
「ひーひひひひ! 傑作だな! あの、堅物の、天使野郎が、よりによって、一番の混沌の塊の、ストーカーに、なっちまったってのかよ!」
その、あまりにシュールな、しかし、笑えない、現実。
アイリスは、天を、仰いだ。
ギル、ジーロス、テオ。
彼らの受難は、まだ、理解できた。
だが、シルフィの、この、受難は、あまりに理不尽で、あまりに救いがなかった。
なぜなら、相手は、悪意ではなく、百パーセントの、善意と尊敬の念で、彼女を追い詰めているのだから。
その頃、塔の一室。
ノクトは、シルフィの、その報告を、アイリスの脳内通信を通して、聞いていた。
そして、彼の、ゲーマーとしての、鋭い直感が、閃いた。
(…なるほどな)
彼の口元に、いつもの、不敵な笑みが、浮かぶ。
(あの、完璧な論理の塊である、天使野郎。その、唯一にして、最大の、そして、致命的な、脆弱性は…)
彼は、水盤に映し出された、シルフィの、きょとんとした顔を、指でなぞった。
(…シルフィ、か。…面白い。実に、面白い)
彼は、ついに、見つけたのだ。
この、理不尽な、クソゲーを、クリアするための、完璧な攻略法を。
それは、剣でも、魔法でもない。
ただ、一人の、天然エルフの、「方向音痴」という、究極の、混沌だった。
ノクトの、反撃の計画が、今、静かに、そして、最も悪趣味な形で、始まろうとしていた。




