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第十四話 天使の寵愛

 テオの、商売人(ビジネスマン)としての誇りを懸けた戦いは、彼の完全勝利で、幕を閉じた。

 彼は、ルールを破るのではなく、ルールを完璧に守り、そして、利用することで、そのルールの番人を、打ち破ったのだ。

 だが、その勝利の喧騒は、すでに天使の耳には届いていなかった。

 監査官ザフキエルの無感動な瞳は、もはやテオにはなく、その視線は、人混みの中で一羽の蝶を無邪気に追いかける、一人のエルフの少女へと、静かに向けられていた。


 ザフキエルは、混乱していた。

 彼の、完璧な論理で構築された世界が、この、あまりに非論理的な王国に来てから、ぐらぐらと揺らいでいた。

 激情のギル。

 彼の、非効率で、非人道的な訓練は、確かに是正したはずだった。

 だが、その結果、彼は、より理解不能な、「静かなる地獄の閨房(けいぼう)訓練」なる、謎の精神修行を始めてしまった。

 光輝魔術師ジーロス。

 彼の、違法建築は、確かに是正したはずだった。

 だが、その結果、彼は、「醜さを纏った美」などという、新たな、そして、より悪質な芸術様式を、生み出してしまった。

 そして、不徳の神官テオ。

 彼の、悪質な詐欺商法は、確かに是正したはずだった。

 だが、その結果、彼は、法令遵守(コンプライアンス)を逆手に取った、新たな風刺的ビジネスを、確立してしまった。

 是正すればするほど、この世界の「混沌」は、形を変え、より予測不能な方向へと進化していく。

(…データが、足りない…)

 ザフキエルは、自らのクリップボードに、そう、書き込んだ。

(この世界の、混沌の根源。その、基本パラメータを、再計測する必要がある…)

 彼は、自らの論理を再構築するため、最も基本的な監査に立ち返ることにした。

 人間という、あまりに非論理的な、監査対象ではない。

 もっと、純粋で、世界の法則に忠実な、存在。

 彼は、王城の、広大な庭園で、自らの業務を淡々と遂行していた。

 本日の監査対象は、「王城における、生態系の調和レベル」について。

「…ふむ。この薔薇の、赤色の彩度。許容範囲を、二パーセント超過。やや主張が激しすぎる。要、是正」

「池の鯉の、遊泳速度。平均で、秒速〇・三メートル。やや緩慢。水中の酸素濃度に問題がある可能性」

 彼の、無機質な声が、美しい庭園に虚しく響く。

 彼にとって、この世界の森羅万象は、全てが監査の対象であり、是正されるべきデータでしかなかった。

 その、完璧な、無機質な世界に、一つの予測不能なノイズが飛び込んできたのは、まさにその時だった。

「わあ、待ってくださーい!」

 楽しげな、鈴を転がすような声。

 ザフキエルが顔を上げると、一人のエルフの少女が、庭園の中を、ふらふらと、しかし、実に楽しそうに、駆け回っていた。

 エルフの弓使い、シルフィ。

 彼女は、一羽の、瑠璃色に輝く美しい蝶を、追いかけていた。

 もちろん、彼女は、蝶を捕まえようとしているわけではない。

 ただ、その美しい羽ばたきに誘われるままに、花の香りを楽しみ、木漏れ日の暖かさを感じ、風の歌を聞いているだけ。

 彼女の、その行動には、目的も、意味も、効率も、何一つ存在しない。

 ただ、そこに「在る」だけの、純粋な生命の輝き。

 ザフキエルは、その、あまりに非論理的で、あまりに無駄の多い存在を、初めて目の当たりにした。

 彼は、咄嗟に、監査ツールを、彼女に向けた。

 彼の、完璧な論理で構築された脳が、この、理解不能な生命体を解析しようと試みる。

(…対象、エルフ族、シルフィ。…行動目的、不明。…移動ルート、非効率。…エネルギー消費、過大…)

 彼の監査基準では、シルフィの行動は、全てが「違反」のはずだった。

 だが、彼の監査ツールが弾き出したデータは、彼の予想を、完全に裏切っていた。


【対象:シルフィ】

【魂の輝度:安定。基準値を、九十九・九パーセント、維持】

【世界の調和との親和性:百パーセント】

【コンプライアンス違反項目:ゼロ】


「…………は?」

 ザフキエルの口から、初めて、感情のこもった、素っ頓狂な声が、漏れた。

 ありえない。

 この、混沌の塊のような少女が、完璧に、世界の調和と一致している?

 違反項目が、ゼロ?

 彼の、数万年に及ぶ、監査官としてのキャリアの中で、初めての、異常事態だった。

 彼は、信じられない思いで、シルフィの一挙手一投足を、観察し始めた。

 シルフィは、蝶を見失うと、今度は、地面に咲いていた、一輪のタンポポの綿毛を見つけた。

 彼女は、その綿毛を、そっと摘み取ると、ふぅ、と、優しく息を吹きかけた。

 白い綿毛が、風に乗って、空へと舞い上がっていく。

(…無意味な、行為だ。…だが、その行為による、空気抵抗の微細な変化が、周辺の気圧に〇・〇〇一パーセントの影響を与え、結果として、雲の形成を僅かに促進する…? …まさか、そこまで計算して…?)

 ザフキエルの、論理的な脳が、彼女の、無意識の行動に、壮大な意味を見出そうと、暴走を始める。

 シルフィは、今度は、空腹を覚えたのか、近くの木に実っていた真っ赤なリンゴを、一つもぎ取った。

 そして、そのリンゴを、半分だけかじると、残りの半分を、地面にそっと置いた。

 すぐに、どこからともなく現れた、一匹のリスが、その残りの半分を、嬉しそうに巣穴へと運んでいく。

(…自らの食欲を満たすと同時に、生態系への配慮も忘れない…。なんと、完璧な、調和の精神…。なんと、無駄のない、行動様式…!)

 あまりに、壮大な、勘違い。

 シルフィは、ただ、お腹がいっぱいになったから、残しただけだった。


 ザフキエルは、震えていた。

 感動に、打ち震えていた。

 彼は、この、混沌とした、不完全な世界で、初めて、完璧な「調和」の体現者を見つけたのだ。

 ギルの、非論理的な、情熱。

 ジーロスの、独善的な、美学。

 テオの、非倫理的な、強欲。

 それらの、「違反」だらけの、醜い世界の中で、ただ一人、彼女だけが、完璧に「正しい」。

 彼女の、目的意識のない純粋な行動は、世界の調和と完全に一致した、無為自然の体現なのだ。

 彼は、クリップボードを、握りしめた。

 そして、決意した。

 この、奇跡の存在を、徹底的に、観察し、分析し、その、完璧な調和の秘密を、解き明かさなければならない、と。

 それは、監査官としての、使命感ではなかった。

 ただ、純粋な、研究者としての、知的好奇心だった。


「あのう…」

 ザフキエルが、その、神聖な観察対象に、声をかけた。

 シルフィは、きょとんとして、彼を見上げた。

「あなたは、素晴らしい」

 ザフキエルは、初めて、その無表情な顔に、ほんの少しだけ、尊敬の色を、浮かべた。

「あなたの、その、存在そのものが、この世界の、あるべき姿です。あなたは、唯一の、模範的な存在です」

「え、えへへ…?」

 シルフィは、何を褒められているのか、全く分からなかったが、とりあえず、照れくさそうに笑った。

「あの、お兄さんの、その、キラキラした羽、とっても素敵ですね!」

「…これは、天界の、標準的な、飛行ユニットです」

 ザフキエルの、論理的な、返答。

 だが、彼の心の奥深くで、ほんの少しだけ、温かい、何かが、芽生えたような気がした。

 ザフキエルは、シルフィの後をついて回り始めた。

 彼女の天然な言動や迷子の行動を「最高の調和理論」として逐一メモし、専門用語で分析を始めるためだ。


 その日の、夕方。

 シルフィは、困惑した顔で、作戦会議室へと、戻ってきた。

「あのう、アイリス様…。なんだか、今日、変な人に、ずっと、後をつけられていたのですが…」

「え…!?」

 アイリスが、立ち上がる。

「その人は、どんな…」

「はい。真っ白な、服を着ていて、背中に、キラキラした、羽が生えていて…。私が、お花を見ていると、その後ろで、『花の色彩が、対象の精神に与える、影響についての、考察…』とか、ぶつぶつ、言っていました…」

「…………」

 アイリスと、テオは、顔を見合わせた。

 間違いない。

 あの、天使だ。

 アイリスは、天を仰いだ。

 テオは、腹を抱えて、笑い出した。

「ひーひひひひ! 傑作だな! あの、堅物の、天使野郎が、よりによって、一番の混沌の塊に、心酔しちまったってのかよ!」


 ザフキエルの、ズレた寵愛は、こうして、始まった。

 それは、シルフィにとって、これまでの、どの受難とも違う、最も理解不能で、最も精神的に追い詰められる、新たな地獄の始まりを告げる、鐘の音だった。

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