第十二話 屈辱の原価計算
不徳の神官テオの、完璧な信仰ビジネスは、たった一人の天使によって、たった数分で、完全に崩壊した。
『業務停止命令』。
その、あまりに無慈悲な宣告は、彼の店の全ての「商品」を、ただのガラクタへと変貌させた。
信者たちの信頼は地に落ち、店の前には、もはや熱狂的な行列ではなく、「金を返せ!」と叫ぶ、怒れる元・信者たちが、詰めかける始末だった。
テオは、店の奥の執務室で、頭を抱えていた。
だが、彼は、ただの商人ではない。
彼は、稀代の詐欺師。
この、絶体絶命の窮地にあってなお、彼の心は、まだ、折れてはいなかった。
(…面白い。面白いじゃねえか、天使野郎…!)
彼の脳裏に、昨夜、アイリスから伝えられた、ノクトの言葉が、蘇っていた。
『…面白い。あの天使野郎。一つだけ、ミスを、犯したな…』
ミス。
あの、完璧な論理の化身である天使が、犯したという、たった一つの、ミス。
ノクトは、そのミスの詳細を、まだ、テオには、明かしていなかった。
だが、その言葉だけで、十分だった。
勝機は、ある。
テオは、不敵な笑みを、浮かべた。
(ひひひ…! 俺を、誰だと思ってやがる。書類仕事なんざ、お手の物よ! あんたが、その、くだらないルールとやらで、俺を縛るつもりなら、こっちも、そのルールの上で、完璧に、踊ってやろうじゃねえか!)
ザフキエルが、最後に、言い残した言葉。
『全ての業務は、あなたが、これらの違反項目を完全に是正し、その証明書を、天界の法務部へ提出するまで、再開を認めません』
つまり、逆に言えば、その「証明書」さえ、完璧に作り上げてしまえば、自分のビジネスは、再開できるのだ。
彼は、ザフキエルが置いていった「是正勧告書」を、手に取った。
そして、その、最初の項目を、読み上げる。
「…第一項。『聖水』。正確な、成分表示と、原価計算書を、添付すること…」
テオは、ペンを手に取った。
彼の、ビジネスマンとしての、誇りを懸けた、反撃の狼煙が、今、上がろうとしていた。
数時間後。
テオは、一枚の、完璧な(と彼が思う)原価計算書を、完成させていた。
そこには、彼の、詐欺師としての、全ての知恵と、悪知恵が、詰め込まれている。
彼は、その書類を手に、アイリス分隊の作戦会議室へと乗り込んだ。
そして、部屋の隅で、なぜかずっと壁に向かって正座させられているジーロスの隣に、どっかりと腰を下ろす。
また何か芸術的な問題でも起こして、アイリスの逆鱗に触れたのだろう。
(…まあ、俺の知ったこっちゃねえがな)
そんな、些細な疑問は、すぐに、彼の頭から、消え去った。
アイリスが、彼の書類を受け取り、その内容を、脳内で、ノクトへと、転送し始めたからだ。
アイリスは、その、あまりにふざけた内容に、眩暈を覚えた。
【商品名:奇跡の聖水 原価計算書】
原材料費:
瓶(一個):銅貨一枚
王都の地下水(百ミリリットル):銅貨〇・一枚(※水道代として、王家に納税済み)
人件費:
取水作業員への、労働対価:銅貨〇・五枚
付加価値:
『聖女アイリス』ブランド使用料:金貨十枚
『奇跡が起きるかもしれない』という、物語の制作費:金貨五枚
顧客の、精神的満足感に対する、対価:金貨二十枚
原価合計:金貨三十五枚、銅貨一・六枚
販売価格:金貨五十枚
結論:適正価格である。
その、あまりに悪質な、原価計算。
アイリスの脳内に、ノクトの、呆れ返った声が、響いた。
『…却下だ。あの詐欺師に、伝えろ。ブランド使用料、物語制作費、精神的満足感は、天界会計基準法、第七項Gにおいて、無形資産として、計上は認められていない、と。原材料費と、人件費のみで、再計算しろ』
アイリスが、その、あまりに専門的すぎるダメ出しをテオに伝えると、彼は、絶叫した。
「な、なんだと!? 付加価値を、認めねえだと!? それじゃあ、俺の商売は、成り立たねえじゃねえか!」
テオの、受難は、そこから始まった。
彼は、その後も、何度も、何度も、是正書類を、作成した。
ブロマイドの、誇大広告については、キャッチコピーを、「見れば、あなたも幸せに!」から、「本商品をご覧になった際の、精神状態の変化につきましては、効果を、保証するものではございません。個人の、感想です」という、どこかの世界の、健康食品のような、逃げ口上に、書き換えた。
だが、それも、
『却下だ。そもそも、描かれている棒人間の、笑顔の角度が、十五パーセント誇張されているという、根本的な問題が、解決されていない』
と、一蹴された。
数日間にわたる、不毛な、書類作成地獄。
テオの精神は、確実に、すり減っていった。
彼は、自らの、最も得意とする土俵――言葉と、ルールの、駆け引き――で、会うことさえできない、謎の『神』という、絶対的な存在に、完膚なきまでに、叩きのめされていたのだ。
そして、ついに、運命の日が、やってきた。
ザフキエルが、再監査のために、彼の店の前に、再び姿を現したのだ。
テオは、やつれ果てた顔で、しかし、最後の希望を胸に、ザフキエルの前に、一枚の羊皮紙を、差し出した。
それは、彼が、この数日間、心血を注いで作り上げた、完璧な(はずの)、『聖水』の新しいラベルだった。
そこには、こう、書かれていた。
【品名:王都の、おいしいお水。原材料名:水。栄養成分表示(百ミリリットルあたり):エネルギー〇キロカロリー、タンパク質〇グラム、その他、全てゼロ。ご注意:これは、ただの水です。飲んでも、奇跡は、起きません】
その、あまりに正直で、あまりに商売っ気のない、ラベル。
「…どうだ、天使野郎…!」
テオは、絞り出すような声で、言った。
「これなら、文句、ねえだろ…! これこそが、あんたの言う、『公正なる取引』ってやつじゃ、ねえのか…!」
ザフキエルは、そのラベルを、無感情な瞳で、一瞥した。
そして、一言。
「…素晴らしい」
彼は、頷いた。
「完璧です。これこそが、私が、求めていた、『正しい』表示です。これなら、業務の、一部再開を、認めても、いいでしょう」
「…ほ、本当か!?」
テオの顔に、一筋の、光が差した。
だが、ザフキエルは、首を横に振った。
「ただし、価格、ですが」
彼は、テオが提出した、原材料費と人件費だけの、原価計算書を、指さした。
「原価、銅貨一・六枚。これに、あなたの、店舗の維持費、人件費、そして、適正な利益を、上乗せしたとしても、せいぜい、銅貨三枚、といったところでしょう。…その価格で販売するのであれば、認めます」
「……………」
銅貨、三枚。
かつて、金貨五十枚で、飛ぶように売れていた、あの「聖水」が。
テオは、膝から、崩れ落ちた。
それは、勝利ではなかった。
彼の、ビジネスモデルの、完全な、死、だった。
ザフキエルは、その、絶望の淵にいる詐欺師の亡骸に、最後の一撃を、加える。
「ああ、それから」
彼は、懐から、一枚の、請求書を、取り出した。
「先日の、監査の際に、発覚いたしました、文化財の、不当な私的利用に対する、罰金、及び、修復費用の、請求書です。合計で、金貨一万枚、となります。納付期限は、一週間後ですので、よろしく」
「いちまん…まい…?」
テオの、意識が、遠のいていく。
彼の、商売人としての誇りを懸けた戦いは、完全な敗北で、幕を閉じた。
彼の商才は、天使の、あまりに厳格な「公正さ」の前に、完膚なきまでに、叩きのめされたのだ。
彼の、本当の受難は、まだ始まったばかりだった。




