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第十一話 テオの受難

 光輝魔術師ジーロスが、天使ザフキエルの「正しさ」を、自らの「美学」で打ち破ってから、数日が経過した。

 王立魔術学院は、今や王都で最も奇妙な観光名所と化していた。

 その外観は、写真と見比べても寸分の狂いもない、地味で醜悪な石造りの校舎。

 だが、一歩足を踏み入れようとすれば、その手は幻影をすり抜け、その奥にある、本来のプラチナとダイヤモンドの輝きに触れることになる。

 ジーロスは、この「醜さを纏った美」という、自らが発見した新たな芸術様式に心酔し、毎日テラスで「我が術中に嵌った、愚かなる天使の顔を思い出すティータイム」と称して、優雅にお茶会を開いていた。

 彼の芸術家としてのプライドは、完全に回復したどころか、以前よりもさらに厄介な方向へと進化していた。

 その、あまりに性格の悪いティータイムを横目に、アイリス分隊のメンバーは、次なる監査のターゲットが誰になるのかと、戦々恐々としていた。

 特に、不徳の神官テオの警戒心は、最高レベルに達していた。

(筋肉馬鹿がやられ、ナルシストが続いた…。奴の監査の順番が、何を意味しているのかは分からねえが、論理的に考えりゃ、次は俺か、あの方向音痴のエルフだ。…そして、俺の商売が、奴の言う「法令遵守(コンプライアンス)」とやらに、これっぽっちも適合していねえことは、俺自身が一番よく分かっている…!)

 彼は、来るべき監査に備え、対策を練っていた。

 帳簿の改竄、商品の隠蔽、そして、いざという時のための、完璧な言い訳の数々。

 詐欺師としての、彼の全能力が、今、たった一人の、生真面目な天使を迎え撃つために、研ぎ澄まされていた。

 だが、彼の、その完璧な準備は、全くの無駄骨に終わる。

 ザフキエルの監査は、テオの想像の、遥か斜め上を行く、あまりに静かで、あまりに屈辱的な形で、始まったのだから。


 その日の朝。

 テオが経営する『聖女アイリス様ファンクラブ本部』は、いつものように、熱狂的な信者たちで、ごった返していた。

「ひひひ…! さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 本日限定入荷! こちらは、聖女様が、先日の公務でお使いになったという、ありがたい羽根ペンだ! これで文字を書けば、君も、聖女様のような、美しい文字が書けるようになる…かもしれない!」

 テオは、自らの口上の才能を、遺憾なく発揮していた。

 もちろん、その羽根ペンは、昨夜、彼が厨房で拾ってきた、ただの鳥の羽根だ。

 だが、彼の言葉の魔術は、そのガラクタを、信者たちの頭の中で、国宝級の聖遺物へと変貌させていく。

 信者たちが、その聖遺物(という名のゴミ)に、殺到しようとした、まさにその時だった。

 店の入り口が、すっ、と、静まり返った。

 そして、そこに立っていたのは、純白のローブを纏った、監査官ザフキエルだった。

 彼は、熱狂する信者たちの壁を、まるで、そこに何もないかのように、すり抜けて、カウンターの前へと、進み出た。

「…不徳の神官、テオ、ですね」

 ザフキエルの、感情のない声が、響く。

「本日、あなたの『商業活動』に対する、監査に参りました」

「…来たか、天使野郎…!」

 テオは、内心の動揺を隠し、不敵な笑みを浮かべた。

「ひひひ…! ようこそ、聖女様の、聖域へ! 監査だか、なんだか知らねえが、見ての通り、俺の商売は、大繁盛だ! これも、民衆の、厚い信仰心の、表れってやつでな!」

「信仰心、ですか」

 ザフキエルは、クリップボードを一瞥した。

「私の、データによれば、それは、信仰心ではなく、『射幸心』と『承認欲求』を、巧みに刺激された結果の、非論理的な、衝動買いであると、分析されていますが」

「ぐっ…!」

 テオの、笑顔が、引き攣った。

 ザフキエルは、テオの、完璧なはずの防御(という名のハッタリ)を、意にも介さず、監査を開始した。

 彼は、テオが「聖遺物」として売り出している商品を、一つ一つ、指さしていく。

 まず、彼が手に取ったのは、『聖水』と書かれた、小瓶だった(ただの井戸水)。

 彼は、その瓶に、水晶でできた、スポイトのような監査ツールを、そっと、差し入れた。

 ツールが、淡い光を放ち、数秒後、ザフキエルの手元に、一枚の羊皮紙が、自動的に、生成された。

「監査項目、第一。『聖水』。…成分分析の結果、硬度、ミネラル含有量、ともに、王都の地下水と、九十九・九パーセント、一致。聖なる魔力の含有量は、ゼロ。これは、天界法、及び、王国法における、景品表示法、第三条第一項、『不当景品類及び不当表示防止法』に、明確に、違反します」

「な…!」

 ザフキエルは、次に、壁に飾られていた、一枚のブロマイドを、指さした。

 それは、テオが、魂を込めて描いた、棒人間の、聖女アイリスの絵だった。

「監査項目、第二。『聖女のブロマイド』」

 ザフキエルは、信者たちが熱狂的な目でテオの描いた棒人間の絵を見つめているのを、値踏みするように一瞥した。

「タイトルには、『見れば、あなたも幸せに!』と、記載されていますね」

 テオは、信者たちの熱狂を背に、自信満々に言い返した。

「ひひひ…! 当たり前だ! 見ろよ、この笑顔! みんな、聖女様のありがたいお姿を見て、幸せな気持ちになってるじゃねえか!」

 だが、ザフキエルは、その「幸せそうな光景」を、まるで存在しないかのように無視した。

 彼は、どこからともなく、魂の輝度を測定するという、水晶のレンズが付いた監査ツールを取り出すと、それを信者たちにかざした。

「主観的な感情の発露は、監査データとして採用されません」

 彼は、測定器が示した数値を読み上げながら、冷たく告げた。

「天界の『表示に関する統一基準法』によれば、『幸福』とは、『対象の魂の輝度が、平常時より安定して五パーセント以上、上昇した状態』と、厳密に定義されています。しかし、私の計測によれば、この絵画を鑑賞したことによる、皆様の魂の輝度の上昇率は、平均で、一・二パーセント。これは、統計上の誤差の範囲を出ません」

 彼は、テオに向き直ると、最終的な結論を、宣告した。

「よって、『幸福になる』という表示の基準値を満たすデータは、客観的に、確認できませんでした。これは、天界法、及び、王国法における、景品表示法、第五条、『優良誤認表示の禁止』に、明確に、違反します」

 ザフキエルは、さらに、別の、奇妙な測定器を取り出した。

 それは、二つの、水晶のレンズが付いた、特殊な、定規のようだった。

「さらに、看過できない問題があります」

 彼は、その測定器を、棒人間の、にこやかな笑顔に、当てた。

「この、棒人間に描かれた、笑顔の、口角の角度は、約三十度。ですが、我々の、これまでの観察データによれば、聖女アイリス本人が、公務中に見せる、平均的な微笑の角度は、約二十五・五度。…つまり、この絵は、聖女の実際の微笑比率より、約十五パーセント、幸福感を、誇張して、描いていることになります。これもまた、悪質な、誇大広告です」

「そこまで、調べやがったのか!?」

 テオは、もはや、反論の言葉も、見つからなかった。

 彼の、感覚と、ハッタリだけで、成り立っていた商売が、今、冷徹な「データ」と「事実」によって、木っ端微塵に、粉砕されていく。

 ザフキエルは、最後に、テオが今、まさに売り出そうとしていた、羽根ペンを、指さした。

「…そして、それ。天界法、第千二百八十条、『文化財の、不当な私的利用及び、商業転用の禁止』に、違反します」

「…は? ぶんかざい…?」

「その羽根ペンは、三百年前に、この国を訪れた、伝説の詩人が、国王に献上した、歴史的価値の極めて高い、文化財です。なぜ、あなたが、それを持っているのですか?」

「…え? …いや、俺は、ただ、厨房の隅に落ちてたのを、拾っただけで…」

「厨房、ですか。…なるほど。文化財の、管理体制にも、重大な、問題があるようですね。それも、後ほど、国王陛下への、是正勧告書に、追記しておきましょう」

 テオは、知らなかった。

 自らが、ただのガラクタだと思ってくすねてきたものが、とんでもない、代物だったということを。

 彼の顔から、血の気が、引いていく。

「結論を、申し上げます」

 ザフキエルは、クリップボードに何かを書き込みながら、冷たく言い放った。

「あなたの、商業活動は、その、九十九パーセントが、詐欺、及び、不当表示に、該当します。これは、この世界の、公正な取引の秩序を、著しく乱す行為です」

 彼は、懐から、一枚の、羊皮紙を取り出した。

 表題には、『業務停止命令書』と、冷たい文字で、記されている。

「つきましては、あなたに、この命令書を、交付します。本日ただいまをもって、あなたの、全ての商業活動の、停止を、命じます」

「な、なんだと!?」

「猶予は、ありません。即時、執行です」

 テオの、顔が、絶望に、染まる。

 だが、彼は、ただの商人ではなかった。

 彼は、稀代の詐欺師。

 この、絶体絶命の窮地で、最後の、そして、最大の、悪あがきを、試みた。

「ま、待て! 待ってくれ、天使様!」

 彼は、その場に、土下座した。

「わ、悪かった! 俺が、全て、間違っていた! だから、どうか、慈悲を…!」

 その、あまりの豹変ぶりに、周りの信者たちも、呆気にとられている。

「…どうか、この話、内密に、処理しては、いただけやせんかね…? …もちろん、旦那様には、それ相応の、『誠意』というものを、お見せしやすぜ…?」

 テオは、上目遣いで、ザフキエルを見上げながら、懐から、ずっしりと重い、金貨の袋を、取り出した。

 賄賂。

 それは、彼が、これまで、幾多の窮地を乗り越えてきた、最後の、切り札だった。

 だが、ザフキエルは、その金貨の輝きに、一瞥もくれなかった。

 彼は、ただ、静かに、クリップボードに、新たな項目を書き加えた。

「―――贈収賄、未遂。監査への、非協力的な態度。…違反項目、二件、追加です」

「ひっ…!」

 テオの、最後の希望が、断ち切られた。

 ザフキエルは、立ち上がった。

「業務停止命令は、決定です。全ての業務は、あなたが、これらの違反項目を、完全に是正し、その、証明書を、天界の法務部へ、提出するまで、再開を、認めません。…それでは」

 彼は、それだけ言うと、来た時と同じように、ぺこり、と頭を下げ、音もなく消えていった。

 後に残されたのは、全ての商売道具を失い、ただ呆然と立ち尽くす、一人の詐欺師だけだった。

 彼の、完璧な信仰ビジネスは、たった数分で、完全に崩壊した。

 アイリスは、その報告を、作戦会議室で聞き、深いため息をついた。

(…始まりましたか。テオの、受難が…)

 彼女の脳内に、ノクト()の、静かな声が、響いた。

『…フン。面白い。あの天使野郎。一つだけ、ミスを犯したな…』

 彼の、ゲーマーとしての、鋭い目が、ザフキエルの、完璧な論理の、たった一つの「穴」を、見抜いていた。

 テオの、商売人(ビジネスマン)としての誇りを懸けた、反撃の狼煙が、今、上がろうとしていた。

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