第十話 美しき原状回復
光輝魔術師ジーロスは、死んだ。
いや、正確には、彼の魂の核である「芸術家としてのプライド」が、完全に死んだ。
天使ザフキエルから突きつけられた、あまりに屈辱的な「業務改善命令」。
自らの美学の結晶を破壊し、かつての、醜悪な石造りの校舎を、一ミリの狂いもなく「原状回復」せよ、と。
その、創造性を一片たりとも許さない、完璧な「模倣」という名の精神的拷問は、ついに彼の心を折り、ジーロスは自室に引きこもって、抜け殻のようになっていた。
部屋の床には、あの醜い石造りの校舎の設計図が、無数に散らばっている。
彼は、その設計図を、ただ、虚ろな目で見つめるだけだった。
「…美しくない…」
彼の口から、か細い、うわ言のような声が漏れる。
「…完璧に、醜いものを、完璧に、再現する…。ノン…そんなこと、僕には…できない…」
芸術家が、創造を、放棄した瞬間だった。
アイリスは、その、あまりに哀れな姿に、かける言葉も見つからなかった。
このままでは、ジーロスの魂は、本当に壊れてしまう。
(神様…! ジーロス様が、もう限界です! このままでは…!)
彼女が、脳内で悲痛な叫びを上げると、しばらくの沈黙の後、ノクトの、心底うんざりしたような、しかし、どこか楽しげな声が響いた。
『…ようやく、心が折れたか、あのナルシストも。…だが、まだだ。この程度では、奴は、またすぐに立ち直る。…もっと、根本的に、奴の価値観を、破壊する必要があるな』
(は、破壊、ですか!? これ以上に、ですか!?)
『そうだ。だが、心配するな。これは、破壊と再生の儀式だ』
ノクトの声は、絶対的な自信に満ちていた。
『新人、あの芸術家気取りに、俺の言葉を、一言一句、違えずに伝えろ。これは、説得ではない。…新たな、芸術論の、講義だ』
アイリスは、深呼吸を一つすると、抜け殻のようになったジーロスの前に、立った。
「…ジーロス」
その声は、聖女の、慈愛に満ちたものではない。
全てを見通す、絶対者の、冷徹な響きを、帯びていた。
「あなたは、芸術家として、根本的な、間違いを犯しています」
「…なに…?」
ジーロスが、虚ろな目で、顔を上げる。
「あなたは、ザフキエルという、最高の『観客』を、全く理解していない」
アイリス(ノクト)は、続けた。
「あの天使は、美など、求めてはいない。彼が求めているのは、ただ一つ。『ルール通りである』という、完璧な、論理だけです。ならば、あなたが、彼に示すべき芸術は、何か?」
彼女は、床に散らばった、醜い校舎の設計図を、指さした。
「石を積み上げ、醜い形を、物理的に再現することなど、ただの、三流の『労働』です。あなたは、芸術家でしょう? なぜ、土や石といった、凡庸な素材で、戦おうとするのですか?」
その言葉に、ジーロスの、死んでいた瞳が、ほんの少しだけ、揺らめいた。
「あなたの、武器は、光。あなたの、芸術は、幻。…ならば、あなたの戦場は、石や木の上では、ないはずです」
アイリス(ノクト)は、とどめを刺した。
「―――ザフキエルの命令書を、もう一度、よく読みなさい。そこに、このゲームの、唯一の攻略法が、書かれています」
ジーロスは、震える手で、ザフキエルから突きつけられた、あの、屈辱の命令書を、手に取った。
『―――建築時の記録写真データに基づき、厳密に、一ミリ単位での再現を、要求します』
その、一文。
彼は、これまで、その言葉の、屈辱的な部分にしか、目を向けていなかった。
だが、今、ノクトの言葉を通して、その文章を、もう一度、読み直す。
「…記録写真、データ、に基づき…。…厳密に、一ミリ単位での『再現』…」
はっ、と。
ジーロスは、顔を上げた。
彼の、脳内で、何かが、閃光のように、弾けた。
「…そうか…! そうだったのか…!」
彼の、死んでいた瞳に、再び、狂気の、芸術家の光が、宿った。
「命令書には、『石で』作れ、などとは、一言も、書かれていない…! 書かれているのは、ただ、『写真データと、寸分違わぬ、見た目を、再現せよ』と、いうことだけ…!」
ザフキエルの、完璧な論理の、たった一つの、穴。
それは、彼の、あまりに厳格すぎる「ルール至上主義」が生んだ、致命的な、盲点だった。
「…は、はは…」
ジーロスの、口から、乾いた、笑いが、漏れた。
「…ははは…! あははははははははっ!」
彼は、立ち上がった。
その姿は、もはや、抜け殻ではない。
新たな、そして、より歪んだ、芸術の神髄を、掴んだ、狂気の求道者の、姿だった。
「ノン! 僕は、間違っていた! あの天使は、無粋な朴念仁などでは、なかった! 彼は、この僕に、新たな、芸術の地平線を、示してくれていたのだ! なんという、高尚な、挑戦状だったことか!」
あまりに、壮大な、勘違い。
彼は、意気揚々と、部屋を飛び出していった。
「見るがいい、アイリス! そして、天界の、我が好敵手よ! これから、僕の、人生最高の、傑作を、創り出してご覧にいれよう!」
アイリスは、その、あまりの復活劇に、ただ呆然と、立ち尽くすしかなかった。
翌日。
王立魔術学院の中庭は、再び、ジーロスの、独壇場と化していた。
だが、その様子は、以前とは、全く、違っていた。
彼は、プラチナとダイヤモンドの校舎を、解体しなかった。
それどころか、その、半壊した、美しい残骸を、まるで、キャンバスのようにして、新たな、創造を、始めたのだ。
彼は、自らの、光輝魔術の全てを、解放した。
だが、それは、これまでの、派手で、けばけばしい、光の乱舞では、なかった。
もっと、繊細で、緻密で、そして、恐ろしいほどの集中力を要求される、光の、織物だった。
彼は、あの、古ぼけた写真を、完璧に、スキャンし、その、全ての「見た目」の情報を、光の、粒子へと、変換していく。
そして、その光の粒子を、一粒、また一粒と、寸分の狂いもなく、プラチナの校舎の、表面に、投影し、定着させていく。
それは、もはや、魔法ではなかった。
神の領域の、超絶技巧だった。
彼は、自らの、美しい芸術作品の上に、光の魔法で、あの、醜悪な、石造りの校舎の「幻影」を、完璧に、描き上げていたのだ。
石の、ざらざらとした、質感。
壁の、僅かな、ひび割れ。
屋根の、苔の、生え具合。
蝶番の、赤黒い、錆の色。
その全てが、写真データと、一ミリの狂いもなく、完璧に、再現されていた。
それは、ジーロスの人生で、最も技術的に完璧で、そして、最も魂のこもっていない、最高の傑作だった。
彼の、プライドを懸けた、完璧な、「美しき原状回復」が、完成した瞬間だった。
約束の一週間後。
ザフキエルは、再び、学院に、姿を現した。
そして、目の前に、完璧に「原状回復」された、石造りの校舎を見て、初めて、その無表情な顔に、ほんの少しだけ、満足の色を、浮かべた。
「…やれば、できるでは、ありませんか」
彼は、水晶の定規を取り出し、監査を、開始した。
壁の、高さ。完璧。
窓枠の、角度。完璧。
石の、色合い。完璧。
全ての、項目が、彼の、厳格な基準を、クリアしていく。
「…素晴らしい。完璧な仕事です。これにて、監査は終了…」
彼が、そう、言いかけた、瞬間だった。
彼は、その、完璧な石の壁に、確認のため、そっと、手を、触れた。
そして―――、
その手は、何の、抵抗もなく、壁を、すり抜けた。
「…………は?」
ザフキエルの、思考が、フリーズした。
彼の手が、触れたのは、冷たく、硬い、石ではなかった。
その、奥にある、キラキラと輝く、プラチナの、感触だった。
「―――どうだね、監査官殿」
ジーロスの、勝ち誇った、声が、響いた。
「命令書には、こう、書かれていたはずだ。『写真データに基づき、厳密に、一ミリ単位での再現を要求する』、と。…僕の、この作品は、その命令を、完璧に、満たしているはずだが? …文句、あるかね?」
ザフキエルの、完璧な、論理の世界が、ガラガラと、音を立てて、崩れていく。
命令は、確かに、守られている。
見た目は、完璧に、再現されている。
だが、その、本質は、全く、違う。
これは、合法的な、イカサマだ。
「ぐ…! こ、これは…! ルールの、拡大解釈だ! 許されん!」
「ノン! これは、芸術だよ」
ジーロスは、不敵に、笑った。
「君が、僕に、教えてくれたのだよ。醜さの中にこそ、真の美は宿る、と。…この、醜い石造りの、幻影の、その奥に、僕の、本当の芸術は、今も、輝いているのだからね!」
ザフキエルは、わなわなと、震えていた。
彼は、クリップボードに、震える手で、こう、書き込んだ。
『是正勧告、完了。ただし、光学迷彩による、擬装工作。…法令遵守の解釈について、天界法務部との協議を要する…』
彼は、それだけ書き残すと、屈辱に顔を歪ませながら、光の中へと消えていった。
ジーロスの、芸術家としての誇りを懸けた戦いは、彼の完全勝利で、幕を閉じた。
だが、それは、次なる英雄の受難の、始まりを告げる、鐘の音でもあった。




