第一話 英雄たちの混沌と平穏
千年前の悪魔との契約によって失われていた王国の「やる気」が完全回復してから、数ヶ月が過ぎた。
地獄の官僚主義迷宮での死闘は、今や遠い昔の出来事のようだ。
王国は活気を取り戻し、人々はそれぞれの日常へと帰っていった。
そして、その日常を取り戻したのは、英雄たちもまた、同じであった。
あまりにも混沌とし、そして、ある意味で、平穏すぎる日常へと。
王城の最も高い塔。
ノクト・ソラリアは、特注の椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な魔力モニターに映し出された、新作MMORPG『フロンティア・ワールド・オンライン』の世界に没頭していた。
彼は今、最高に機嫌が良かった。
悪魔の契約が破棄されたことで、王国の経済活動は正常化。
その結果、彼の生命線であるソルトリッジ社のポテトチップスは、世界最高の品質と、完璧な安定供給体制を実現していた。
「フン。初週でレイドボスに到達できないプレイヤーは、攻略の『こ』の字も知らない。このギルドは全員、事前準備が完璧ではないな。…よし、最終フェーズは、全員に毒属性の耐性ポーションを投与。定石通り、確実に仕留める」
ノクトは、ポテトチップスの袋を小気味よく開封しながら、最高の環境で最高の日常を謳歌していた。
彼の完璧な引きこもりライフを脅かすものは、もはや、この世界のどこにも存在しない。
そう、彼は信じて疑わなかった。
しかし、その「最高の平穏」とは裏腹に、聖女アイリス・アークライトの日常は、極度の混沌に陥っていた。
「やる気」が戻った世界で、彼女の公務の量は、以前の三倍に膨れ上がっていたのだ。
今日のスケジュール表には、彼女が断固として許可していないはずの、「聖女のため息」という名の新商品(ただの空き瓶)の発表会への出席が、太字で記載されている。
彼女は、朝から、深い、深いため息をついた。
(…私の、ため息が、商品に…)
騎士団の訓練場からは、今日も、大地を揺るがす轟音が響いていた。
激情のギルは、「やる気」を取り戻した騎士たちに、以前にも増して、理不尽な特訓を課していた。
「なってないであります! やる気が戻ったからといって、その程度か! 騎士たるもの、己の限界を知るべからず! 我々の剣は聖女様のためにある! 城壁を歯で持ち上げろ! そして、城を肩車してスクワット! その上で、その場で一万回ジャンプだ!」
騎士団の士気は、確かに最高潮だった。
だが、それは「王国の平穏を守る」という崇高な目的のためではなく、「ギルの理不尽な情熱から、一刻も早く解放されたい」という、切実な動機に基づいていた。
騎士団は強くなったが、医務室のベッドは、常に満床だった。
王立魔術学院は、もはや「学院」とは呼べない、金銀財宝の殿堂と化していた。
光輝魔術師ジーロスは、「美とは創造するもの!」というスローガンのもと、校舎をプラチナとダイヤモンドで増築した挙句、今度は、次なる建築テーマについて、アイリスに熱弁をふるっていた。
「アイリス! 次のテーマは、『天使が舞い降りた瞬間を永遠に固定する、非対称の黄金率』です! 私は今、天界のマナを利用し、純粋な光の柱で天空に巨大な七角形の彫刻を造ろうと計画しています! 予算? 知るか! 芸術に予算を尋ねるなど、愚行中の愚行!」
王国の財務は、破綻寸前だった。
だが、ジーロスは王国を救った英雄の一人として、誰にも止められない。
彼の、止まることのない芸術活動は、アイリスの胃を締め付ける、一種の、精神的テロだった。
そして、不徳の神官テオは、今日も今日とて、新たな儲け話を生み出していた。
彼は「聖女アイリス様ファンクラブ本部」(現:アイリス・コネクション)の部署をフル稼働させ、公務に疲れたアイリスの微かなため息を瓶詰めにし、『聖女のため息』(ただの空瓶)を、「本物の聖なる息吹」として販売し、莫大な利益を上げる予定でいた。
「ひっひっひ。聖女様の溜息は金になる。何せ、この溜息の中には、あの光輝魔術師の芸術テロと、激情の騎士指導官の過剰訓練に対する、生きたストレスが凝縮されているのだからな! これこそ、真のストーリービジネス!」
テオの信仰ビジネスは、アイリスの精神的負担に、正比例して繁盛していた。
そして、アイリスが最も不安に感じるのは、シルフィの存在だった。
「…シルフィは、今、どこにいるのでしょうか?」
アイリスの不安げな問いに、侍女は、顔色ひとつ変えずに答えた。
「それが…。昨晩、王城の自室にいたのは確認しましたが、今朝から姿が見えません。おそらく、王城内で、また、迷子になっていらっしゃるかと…」
王城の図書室へ行くつもりで、なぜか、地下牢の裏口に辿り着くのが、彼女の日常だった。
アイリスは、いつ、どのタイミングで、シルフィが、予測不可能な形で王城のどこかに現れ、新たな騒動を引き起こすのか、その予感に、身震いした。
その頃、ノクトは、ゲーム内での完璧な勝利を収め、満足げに、息をついていた。
「ふう。やれやれ。これで、最強の伝説武器の設計図が手に入った。やはり、世の理不尽な混沌を忘れさせてくれるのは、ルールが明確なゲームだけだな」
彼は、ポテチを一口、口に入れた。
口の中に広がるコンソメの旨味が、王国の混沌とは無関係な、最高の「平穏」を、保証していた。
英雄たちの、混沌に満ちた日常。
そして、一人の『神』の、完璧な平穏。
二つの、相容れない日常が、まだ、交わることなく、存在していた。
この、危ういバランスの上に成り立つ平和が、やがて、天から舞い降りる、一人の、あまりにも生真面目な監査官によって、根底から覆されることになるのを、まだ誰も、知らなかった。




