母の嗅覚
気まずい空気の中で朝食は行われた。
最初は女子たちとリリスさんことシスター、それと僕だけだったが、途中から男子たちが参加した。孤児院の男子は全員で六人だったが、彼らは皆、揃って虚ろな目をしていた。それは昔ネットで見た、FXで有り金全部溶かす人の顔を思い起こさせた。ぬとねの区別がつかなそうな顔だっけか。とにかくただでさえ気まずい空気が更にお通夜化してしまった。
幸いな事に(虚無化はしていたものの)脱糞やら失禁といった汚い方面には突っ走ってはいなかったようなので、更なる地獄絵図が開かれることなく、ただただ気まずい空気の中で朝食を取る事となった。
全てを食べ終え、僕はシスターに礼を言った。
「ご馳走様でした。美味しかったよ」
「お粗末様でした。よければまた食べに来てください」
僕が食器を片付けようとすると、
「ああ、いいんです。そのままにしておいてください。どうせこの後、全部まとめて片付けますんで」
僕は少し迷ったが、ここは素直にシスターの言う通りに従って、食べ終えた食器類をそのままにして、部屋を出ようとした。
すると僕の後をシスターが静かに追いかけてきた。
それを女子たちは好奇の目で見て、男子たちは鬼の形相で睨みつけ、ネアは一切光の宿ってなさそうな漆黒の瞳で眺めてきた。
部屋を出て、シスターもといリリスさんがこっそりと耳打ちをしてきた。
「よかったら今晩も、私の部屋に来てもらえないでしょうか」
夜のお誘いだった。
僕が一瞬戸惑いの反応を見せると、彼女はたちまち地獄に落とされたような絶望一色の顔になってしまったので、僕は慌てて「行きます行きます。必ず行きますから」と何度も首肯を繰り返して言った。
たちまちリリスさんはぱぁぁあっと顔を明るくし、僕に抱きついてきた。
柔らかな感触が全身を包み、僕は危うく昇天しかけてしまう。
嗚呼、死にそう……幸せ過ぎて…………。
「あっ、すいません。つい」
慌ててリリスさんが離れて、僕は命拾いしつつも少し勿体ないと感じてしまう。
「それじゃ、今晩。待ってますからね」
そう言ってウインクを残して、リリスさんいやもうシスターが、食事部屋へと戻って行ってしまう。
扉を開け、その隙間から深淵よりも真っ黒で真っ暗な表情をしたネアが覗き込んでいるように見えたが、一瞬だけしか見えなかったのでたぶん気のせいだろう。
それよりも、今晩、また僕は彼女の部屋に行く事となった。
まさかリリスさんとこんな関係になるとは思わなかった。
先程の、抱きつかれた柔らかな感触を思い出してついついにやけてしまう。
「今晩は絶対手を出すなよ」とアウルアラに言い聞かす。
「うむ。分かっとる。童も反省しとる…………じゃが、いいのか?」
「ん? なにが? 両親には怒られるだろうけど、まぁ、なんとか説得するから大丈夫だよ」
「そうではなくて、ナイルの事じゃ。付き合ってはおらんかもしれぬが、帰ってすぐさま別の女を作るのは流石に想定しておらんのじゃないか?」
冷たい恐怖が全身を包み、僕は危うく絶望しかけてしまう。
嗚呼、死にそう……怖すぎて…………。
◆
ナイルの事を思い出すと、それに続いてナイルの両親にも顔を出す必要がある事に気付いた。
「勢いで街に出てしまったからなぁ」
孤児院を出て、僕は周りに誰もいない事を確認してから呟く。
アウルアラとの会話は、心の中だけでも行えるが、やはり実際に口に出した方がやりやすい。
「確か、あの親父さんが誰かを遣いに出したんではなかったか?」
とアウルアラ。彼女の言葉に、僕はぼんやりとした記憶がよみがえってくる。
「ああそういえばそうだった。結果的に親父さんがマジュ師匠に頼む形になったんだっけか」
ラキ師匠を通じてマジュ師匠に委託みたいな感じ。
まだあれから一週間くらいしか経過してないと思うのに、それもそのうちの半分くらいはずっと寝ていたというのに、なんかもう随分遠い過去の事のように感じてしまう。
「ああ、そうそう。マシュという女じゃったか」
「マジュ師匠だよ。それだとなんか師匠というより後輩みたいな名前になっちゃうよ」
「むむ。マジュ師匠じゃな。覚えたぞ」
「つうか今更マジュ師匠の事を覚えなくても。今まで何回も会ったでしょ?」
「いいや? まだ童は一度も会っておらぬな」
「あれ? そうだっけ?」
思い出そうとするも、なんだかピンとこない。
「ちょうどタイミングが合わなくての。そのマジュとやらと会う時はいつも童は寝ておる。じゃからまだ直に会った事はない。お主のおぼろげな記憶でなんとか顔を見た程度じゃ」
「おぼろげなって…………さすがにマジュ師匠の顔ははっきり記憶してるよ」
一応、初恋の人だし。いや、これは今、関係ないか。
「ふむ……」とアウルアラが何故か考え込むようなそぶりをみせる。
「どうしたの?」
「いいや。それよりも、今回の詫びとして、お主に新たな魔法を教えようと思うのじゃが、どうじゃろう? 教えてほしいか?」
「教えてくれるなら是非。ちなみにそれはどんな魔法?」
「かなり便利な魔法じゃが、難易度はこれまでとは比べ物にならんくらいに高い。じゃから教えてもすぐには覚えきれぬじゃろうし、使いこなすとなるとそれこそ十年以上は掛かると思った方がよいぞ…………じゃから、今のうちに教えて少しずつ覚えてほしいと思うのじゃがな」
「それじゃ詫びのつもりで教える訳じゃないのか…………まぁいいか。それでその便利だけど、難易度の高い魔法って何?」
アウルアラはおもむろにピースをして、
「二つある」と言った。
「へぇ、二つも」僕は自分の胸が高鳴るのを感じていた。「それで、その二つの魔法は何?」
アウルアラは言った。
「分身とワープじゃ」
◆
便利魔法はさておき、僕は帰宅よりも先に、ついさっき思い出したナイルの両親に戻ってきた事を一応報告しに行った。
「どうも。ご心配おかけしました。アルカです。実は昨日帰ってきまして…………」
「…………」
応対してくれたのはおっとり系のナイル母だったが、いつもとは様子が異なり、困惑と不機嫌が入り混じったような表情をしている。
「ナイルさんには無事会えまして、その……」
「別の女の臭いがするわね」
おもむろにナイル母が言った。
「えっ?」
「気のせいかしら? アルカ君から別の女の臭いがするんだけど………?」
「え、ああいや、その……」
僕が戸惑っていると、
「うーん。でも、反応は昔のままみたい……なんというか、アルカ君の別人格が他の女と寝たみたいな感じね」
ズバリ正解である。
ナイル母は只者ではないとは思ってはいたけど、まさかここまでズバリ正解を言い当てるとは思ってもみなかった。
どんだけ勘が鋭いのやら。
僕が戦慄の想いで肩を震わせていると、ナイル母は先程の態度からいつものおっとりした雰囲気に切り替えて、
「まぁいいわぁ。とりあえずアルカ君が無事でよかったわぁ。でも、話に聞いてたよりも随分と帰りが遅かったみたいだけど、なにかあったのぉ?」
「…………えっと、実は」
黙っておくのもなんなので、僕は港町ナルテの出来事からゲルル街での事をざっくり説明する。
どうやら僕がネアを奴隷として買ってる事は予めナイルから聞いていたようなので、ハラリがネアの父だったという辺りの話はあっさり受け入れられるものの、ゲルル街での不幸についてはナイル母にしては珍しく顔をしかめて、辛そうな反応を示した。
全てを聞き終え、ナイル母は、
「…………大変だったのね」といつもとは異なる口調で言った。
「ええ。ですので帰って来るのが少し遅くなってしまい、ご心配をお掛けした事を詫びようと……」
「別にそんな事はいいわよぉ」とナイル母は口調を元に戻す。「子供がそんな事、気にしないのぉ」
とりあえず事情は解ってもらえたようなので一安心。
「主人は今、お仕事中だから、帰ったら私から伝えておくから安心してねぇ」
「助かります」
「それで、ナイルちゃんとはきちんとお話はできたのぉ?」
「はい。ちゃんとお話して、お別れする事ができました」
「…………そっかぁ。よかったわねぇ」
ナイル母が微笑み、僕は報告が終わったと理解する。
「それでは、この辺で失礼します」
「えぇ。それじゃあねぇ」
一礼し、僕は魔法で空を飛び、この場を後にする。
飛び立つ瞬間、ナイル母が少し寂しそうな顔をしたように見えた気がした。
◆
今度こそ帰宅した。
父は既に出勤しており、母が帰宅した僕をフレーメン反応した猫みたいな表情で出迎えた。
「…………」
「え? なにその反応?」
「……………………いや、別になんでもないわ」
明らかになんかある反応だった。
「もしかしたらナイル母同様、お主の貞操になんか勘付いとるのかもしれんのぅ」
他人事のようにアウルアラが言った。元はと言えばお前のせいなんだけどな。
「元はお主が同衾を求めたからじゃろう」
口の減らない奴だな、と僕は内心にて嘆息する。
しかし今更アウルアラを責めたって何の解決にもならないので放っておく。
「朝ご飯は?」
「食べてきた。でも昨晩お風呂に入ってないから、今から入る」
「沸いてないわよ」
「ならシャワーだけで済ます」
「お湯が勿体ないわよ」
「自分の魔法でどうにかするから問題ないでしょ」
「口の減らない子供ね」と母が嘆息交じりに呟く。
しかし今更僕を責めたって何の解決にもならないと分かっているのか、放置する母。
「…………血の繋がりを感じるのぅ」とアウルアラ。
前世の記憶は関係ないのだろうか。
個人的には血の繋がりよりも一緒に過ごしてきた時間の方が理由としては大きい気がする。
しかしその説を採用すると僕は母よりもマジュ師匠の方に似てきてしまうのだが。
僕がお風呂場に向かおうとすると、妹のナミヤが頼りない足取りでこちらに近付いてきた。
「お、どうしたナミヤ?」
ナミヤは変身した僕の顔を見上げて、不思議そうな表情をする。
変身した僕を、兄である僕と認識できているのだろうか。
子供ならではの勘が、異なる外見でも同一人物と認識させるのかも、と思った矢先にナミヤが泣きながら母の方へと逃げて行った。
「……………………」
気付かないのは仕方ないが、それでも少し悲しくなる。
「案外、元の姿でも逃げたりしてのぉ」
アウルアラの軽口に、僕はもう二度と彼女と口を聞かないと決心する。
「す、すまぬ。許しておくれ…………」
仕方ないので許しておく。
◆
風呂に入り、身体をスッキリさせたところで僕は今晩また外泊する旨を母に伝える。返事は、
「駄目」
だった。
当然と言えば当然である。
しかしながら、ここであっさり引き下がる訳にもいかない。リリスさんが待っているのだ。
「この通り」と土下座を慣行するも、母は全く退かない。
「ならば仕方ない」と僕は覚悟を決める。
「どうするつもり?」
「家出する」
「はぁ?」




