寂しくて辛い夜は
人は自分がこうなると思った事にはひどく無警戒だ。勿論、こうなるかな? と自信がない事にはそれなりに警戒をし、時には呆れるくらい不安に怯える事もある。だが、こうなるのが当然と思った時には、自身の予想が外れるだなんて全く予期しておらず、場合によってはそれが致命傷となるまで全然気付かない事だってある。
今回のマジュ師匠がそれだった。
僕が精神的にまいって、それでもなんとか独りで帰ってきて、それから自宅で心配していた両親からものすごく怒られて、そんな感じでとにかく心が限界きてベッドで寝転んでいたところに、僕の帰宅を知った出不精のマジュ師匠がわざわざこちらの自室まで乗り込んできて、そしてネチネチと、京都の女子かよってくらいに責め立てた。
なんでも、自分が出たらすぐに追いかけてくるものとばかり思ってたらしい。だから街を出てからはあまり急がず、後ろをチラチラ振り返りながら空を飛んで帰ってきたそうな。
んで、結局追いかけて来ないばかりか、丸一日経ってようやく帰ってきたのだから怒り心頭。それまで溜めてたストレスを吐き出したという訳。
せめて吐き出し方が一喝まとめてバーンっ、と出してくれてたらこちらも驚きはしつつもそれなりにスッキリするかもしれなかったけど、マジュ師匠は短気で怒りっぽいくせに、その感情の出し方がチビチビと年寄りの尿漏れみたいな感じで出すもんだから、こちらも少しずつ苛立ってきた。
本当だったら、こっちにはこっちの事情があるんだよ、って言い返したいところではあったが、実際に口から出るのは疲れ切った「すいません」だけで、どうやら自分が思ってる以上にまいってるんだなと気付いた。
怒りは胸に溜まるだけで、そこから発散させるほどの元気がなく、ただひたすらネガティヴな感情としてじとじと積もり積もっていく。だから今のこの状況は、はっきり言って最悪というに等しいものだった。
日本の社会人が一体どれだけこういう想いをしているだろうか。
そんな感じで僕が五歳児ながらも現代を生きる社会人みたいな地獄の責め苦を味わっていると、遅まきながらようやく僕が普通の精神状態でない事に気付き、若干訝し気な様子で尋ねてきた。
ついさっきまでは、こちらの謝罪に対して、「いや、欲しいのは謝罪じゃなくて説明だって言ってるわよね」とパワハラ上司あるいはめんどくさい彼女のように繰り返すだけで、いざこちらが説明しようとすると、自分がどれだけ心配したか、どれだけ迷惑を掛けられたかとじっくりねっとり話し始めて、こちらの釈明を阻んできたのだから、ホント、ようやくって感じだ。マジ長かった。
ともあれようやくこちらの言い分を聞く態勢に入ってくれたので、僕はなんとか説明を行う。でもって、あらかた(アウルアラの存在を伏せて)説明し終えたところで、マジュ師匠が唇を震わせてこう言った。
「ご…………ごめんなさい…………」
泣きながらの謝罪。
それからマジュ師匠は吐いた。
おぇえっと、ゲロを僕の部屋、しかも僕の目の前でぶちまけやがった。
「ホント、ごめん。まさかそんな事になってるとは夢にも思ってなかった……」
嘔吐しながらの謝罪。
いや、謝罪はいいから、とりあえず目の前の吐瀉物をどうにかしろと言いたかった。
マジュ師匠の吐瀉物は固形物がそこそこ残っており、今朝、昨晩の食事のどちらかに麺類が混ざっている事と、マジュ師匠があまり噛んで食べてない事が伺えた。
なんでまじまじと吐瀉物を見てるんだ僕は。
凝視してしまった事と、その臭いに、僕はもらいゲロを起こしそうになった。
「…………あまり見ないでくれる?」
マジュ師匠が生娘のように恥じらった。
正直、こんな状況で初恋相手の恥じらう姿を見たくはなかった。
ともあれそんな感じで、ゲルル街での出来事は一応理解してもらったのだが、あまりスッキリはしなかった。
◆
結婚適齢期の吐瀉物臭で満たされた僕の部屋はマジュ師匠に掃除させて、僕は家を出て、すぐ近くの孤児院に向かった。
家を出る際、母から「随分とお忙しいようで。またもお出かけですか?」と般若みたいな表情で嫌味を言われたが、僕は適当に肩をすくめるしかなかった。
ひとまず変身魔法でいつもの十五歳の姿になり、孤児院に入る。そんでネアの姿を探した。
時間は既に夕刻過ぎで、辺りは暗く、本当だったら明日にするべきかと思ったが、自室がゲロ臭いのと、辛い事を後回しにしていよいよ精神がシャレにならないくらいにまいってしまうのが嫌だったので、その日のうちに全てを片付けてしまいたかった。
とにかくスッキリしたかったのだ。
たまたま通りすがった少しだけ見覚えのある生意気そうなクソガキにネアの居場所を聞いて、言われた場所、孤児院のゴミ捨て場、庭の裏側、焼却場に向かった。が、そこには誰の姿もなかった。
おや? と呆けていると、すぐ隣の壁もとい建物の二階の窓が開き、そこから何かが突然投げ込まれた。
ゴミだった。
吐瀉物を彷彿させる生ゴミだ。
バケツいっぱいの生ゴミを頭からかぶせられて、何もかもが嫌になった状態で立ち尽くしていると、物音を聞いて駆け付けたシスターがゴミだらけになった僕を見て、驚きの表情で尋ねてきた。
「ど、どうしたんですか、そんなところで。ゴ、ゴミだらけになって」
「ああいや、たった今、頭からゴミをぶっかけられて」
二階からゴミ箱をひっくり返してゴミをぶっかけてきたのは、以前、僕の事を敵意剥き出しで睨んできたクソガキだった。
ついさっき、ネアがここに居ると伝えたクソガキでもある。
「…………ああ、そんな…………やっぱりあのコが…………」
どうやらシスターにもそのクソガキの心当たりがあるのか、
「す、すいません。私から強く言い聞かせておきますので。ですから、その、あのコの事を決して怒らないで…………うん?」
言葉の途中でシスターが首を傾げた。
なにか、こちらの様子に違和感を抱いたようだ。
「どうしました? なにやら元気がないようですが……」
「ああえっと、その…………そうですね。正直、元気がありません。かなりまいってます」
「…………話を聞きましょうか? 一応、私、シスターなので話を聞くのも仕事のひとつですし」
「懺悔の告白ですか…………まぁ、そうですね。直接ではなく間接的にですが、シスターにも関係してこない訳でもないので、説明しときますか」
ネアが落ち込んだら、その保護者的な立ち場のシスターにも影響が及ぶので、僕はゲルル街での出来事を説明した。いや、その前のナイルとの別れからも説明しといた。
勿論、アウルアラの存在は省いて。
◆
二度目の説明は一度目に比べてすんなりとできた。おそらくはシスターが聞き上手なのもあるだろう。懺悔室で鍛えられたのか。丁度いいタイミングで相槌だったり、聞き返しだったり、頭の中がイベント時の渋谷みたいにごちゃごちゃしていたにも関わらず、自分でも上手に話せたと思う。
全てを聞き終えてシスターは目を潤ませてこう言った。
「そうでしたか。とてもお辛い目に……」
長い睫毛がふるふる震えているのをみると、むしろシスターの方が辛い目に遭ったのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
シスターは言った。
「ですが、ネアちゃんにその事を言うのはできればお控えになられた方がよいかと……」
「え?」思わぬシスターからの意見だったが、言われて気付いた。
「ネアちゃんはまだ幼いので、ご両親のご不幸を受け入れられるとは限りませんので……」
「ああ、言われてみればその通りですね。配慮に欠けてました。すいません。いえ、ありがとうございます」
僕はシスターに礼を言った。
「先に貴女に会えてよかった。先にあのコに会ってたら、僕は彼女を悲しませてたに違いない。助かりました」
我ながら何という体たらく。これでは、番いの不貞をバラしたアウルアラを責められない。
「いえ。ですが、アルカさんには秘密を抱え込む負担を強いてしまってますので、私としては申し訳なく」
「そんな事ありません」と僕はシスターの自責を否定する。「ここでネアを傷つけてた方が辛い事になったと思いますから」
「そう言われるとこちらも助かります」
そう言ってシスターはこちらの手を取り、優しく微笑んだ。それは比喩表現なしに、まさしく聖母の微笑そのものだった。
「おぉ神よ……」
故に思わず涙した。シスターの優しさに感動したのもあるし、あまりの神々しさで目が眩んだせいもある。ここまで抱えてきた負の感情だけで色々限界だったのに、シスターへの感情が膨れ上がって僕の中の処理能力が限界を超えた。正直、ここら辺の感情を言語化するのは野暮なので、できればあまり深く考えずに、僕が感動した事だけを受け取ってほしい。
僕が涙した事で、シスターが慌てふためいた。
「あぁっ、だ、大丈夫ですか? そ、その私がなにか粗相を……っ」
「いえ、違います。ちょっと色々と感情が膨れ上がってしまって…………あのすいませんが、今晩は一緒に居てもらえないでしょうか?」
ふと、僕は自分でも思ってなかった事を口にした。
夜へのお誘い。
といっても、別に変な意味ではない。単に、一緒に居てほしかっただけだ。自室がマジュ師匠のゲロ臭でヤバい事になってるし、それにナイルが居なくなってしまった事で、寂しさが募ってしまったのもある。
とにかく僕はいろいろと限界だったのだ。精神的に追い詰められた状態で、こんなに優しくされると、そりゃあ離れたくなくなるってものだ。特にこんなに綺麗で、温かな人にされると、まいってしまわない方がおかしい。
「…………………………………………っ!」
僕の要求にシスターがものすごく驚いた様子をみせた。
その反応で僕はいやらしい意味で捉えられているのだと察し、
「あぁ、そういう意味じゃありません」と咄嗟に否定。「ただ、一緒に添い寝をしてもらいたいだけなんです。ちょっと、ものすごく寂しくて……」
シスターが「あぁ……」と口にした。「そうですよね。別に構いませんよ。誰だって夜、寝てる時に人恋しくなる事がありますもの」
シスターにもそういう時があるんですか、と僕は訊きそうになったが、堪えた。今はそういうセクハラ染みた事を言う必要はない。
「では、すいません。一度家に帰って、支度を済ませてから戻ってきます」
両親にも外泊する事を説明しないとだし。
帰ってきて早々また外泊する事に怒られるかもしれないが、今はそういう注意を真摯に受け止められる程、心に余裕がない。
辛いのだ。本当に辛いのだ。
だからシスターに慰められることを僕は心から望んでいる。切望している。
我ながら本当に女々しいとは思うが、それでもシスターの優しさを求めている事はガチなので、今は両親のまともな否定を受け入れられない。なんだったら両親を無視してもシスターと一緒に寝ようとさえ思っている。
僕は一礼し、この場を後にした。
それからすぐに家に戻って、両親に外泊する事を伝えた。
すると、
「いや、なんなのよ、その恰好は……」
「あ」しまった。十五歳の姿のまま戻ってきてしまっていた。つい、うっかり。
しかしながら母は、
「まぁでも知ってたけどね。あんたが魔法で大きい姿になってるのは……」
「あ、そうなんだ」
一応、隠してはいたけど、実際、バレてるだろうなという予感はひしひしと感じていた。
だからそう言われるのもそこまで驚いてないし、むしろ安堵の想いさえある。
表面上隠してたのが、これで隠す振りもしなくていい事になる。
母よりも圧倒的に鈍そうな父さえも首肯を繰り返し、気付いていたようだった。
ならやっぱり、バレてるのも仕方なかったという訳か。
別にそれはいい。
ただ、
「変身はともかく、帰ってきて早々外泊はさすがに許せないわね……」
案の定、許可が下りなかった。
確かに五歳児の親なら普通そうするだろう。
僕はどうやって両親を口説き落とそうかと考えたが、
「────できれば今回だけは許してやってくれないかしら」
二階から降りてきたマジュ師匠から、思わぬ援護射撃がきた。
「マジュ? ウチの過程の問題に口出しするとは思わなかったわね」
マジュ師匠は苦笑を浮かべつつ、顎で僕にさっさと出ろと指示する。
「あ、ありがと……」
僕は家を出た。
「明日はちゃんと戻るから」と言い残して。
幸い、両親は僕を追いかけてこなかった。
ただ、家を出る際、会話が聞こえた。
「マジュがそう言うのなら、それだけの理由があるって事よね? 説明してもらえる?」
「えぇ。説明する。あのコが外でどれだけ辛い事を体験してきたのか。それと、あのコが何処に向かったのか」
「孤児院なのは分かってる。それとあんたがアルカの部屋で吐いた事も」
「あ、そう」
…………頑張れマジュ師匠。
僕は扉越しに耳をすますのをやめ、この場を後にした。
◆
そういう訳で僕はその晩、シスターに優しく慰めてもらった。
◆
次の日の朝、僕が目を覚ますと、シスターが横で眠っていた。
それは判る。添い寝をしてもらったから当然だ。それはいい。
だが、彼女は全裸だった。
生まれたままの姿で、僕の腕を枕にしてやすや眠っていた。
僕は自分の身体を見る。
僕も全裸だった。
互いに全裸。しかもおまけにもう一人。
「すまんかった……」
アウルアラが全裸で土下座をしていた。
「我慢できなくて…………つい……」
おい。嘘だろ?




