ガーゴイル
十八層まで来たところで、僕はダンジョンの手ごたえのなさに退屈し始めていた。
師匠のところでそれなりに魔法の訓練をしてきた僕にとって、ダンジョンの初級者レベルの層は、全然物足りないモノだった。
最初こそは初めてであるが故に、ダンジョンそのものに興奮し、楽しんでいられたものの、出てくる魔物がどれもこれも一撃で倒せる強さだと、飽きが出てくるのも仕方ないと思う。
元来、ダンジョンというのはそういうモノかもしれない。
せめて己のレベルがステータス画面で確認できれば、そういう作業感も楽しめたかもしれないが、ここは異世界でありながら、僕にとっては現実で、そういうステータス画面は存在しない。そういうステータス画面が存在する異世界もあるかもしれないが、ここにはない。
だから今はただ弱い敵を屠って進むだけの作業となっている。
これなら出てくる敵を無視してそのまま突っ切ってしまえばよかったかと若干後悔し始めているところだ。
────が、それは急に現れた。
なんの前振りも伏線もなく、唐突に。
劇的な演出とかもないから、僕は特に何も考えずに、そいつに魔法を放った。
そいつは空を飛ぶ、人型の魔物だった。
ひとまずは、ガーゴイルとでも呼んでおこうか。
禿頭のおでこに角が生え、全身は緑色の皮膚に覆われている。
第一印象は、緑色の全身タイツを着ただけの若者だった。
羽が生えてるし、空も飛んでるので、当然ながら本当にコスプレしただけの若者である事はない。
だから僕は迷わずにファイヤーボールをそいつに放ち────避けられた。
「…………おぉっ?」
驚きが一瞬。手ごたえのある魔物に出くわせたと喜びが一瞬。
だけど、その感情はガーゴイルが恐るべき速度でこちらに飛んできた事ですぐに消え失せ、恐怖で塗り潰される。
こちらに飛んでくる速度があまりにも速い。
想定外の速度だ。
鋭い爪を持った手が伸び、こちらに頬を掠る。
「うわっ!」
驚きのあまり、僕は態勢を崩し、その場に転ぶ。
なんとか初撃は躱せたものの、態勢的に次撃は躱せそうにない。
僕は咄嗟にファイヤーボールを放った。
が、駄目。
至近距離でありながら、あっさりと躱された。
ガーゴイルの反応速度はこちらを遥かに凌駕している。
攻撃力防御力は未だ不明だが、速度はこちらが対応できるレベルではない事は明らかだ。
「うわぁああああっ!」
ファイヤーボールの連発。
ガーゴイルは後ろに飛び、僕の攻撃をすいすいと躱していく。
距離こそ開けられたものの、それでもガーゴイルにまだ一撃も当てられていない。
このままではまずい。
殺される。
どうしたらいいか分からない。
ここにきて、実戦経験の少なさが浮き彫りとなる。
ダンジョン十八層まできて、戦闘がどれも作業と呼ぶくらいに簡単に済まされた事が悔やまれる。
経験が足りない。
圧倒的に足りない。
ある意味ではこれが初めての戦闘と言える。
初陣である。
「うわぁあああああああああっ!」
僕は泣きながら、逃げ出した。
恐怖のあまり、顔は涙でぐちゃぐちゃで、失禁もしている。
少しでも冷静になれれば、飛行魔法で飛んで逃げられるのだが、今の混乱する頭では飛行魔法は使えない。いや、あのガーゴイルの速さでは、たとえ飛行魔法を使えたとしても、逃げられるかは不明だ。
ヤバい。
背後からガーゴイルの爪が襲い掛かる。
背中を向けた状態で避けられる筈もなく、僕はその爪を喰らう。
痛いっ。
ガーゴイルの爪が僕の背中を切り裂いた。
右肩辺りから縦に三本の爪痕。
鋭い熱。
大量に血が出てるのが見なくても判る。
僕は無様に地面を転がりながら、なんとか態勢を立て直そうとする。
が、できない。
ギリギリでガーゴイルの方を向くと、相手は既に攻撃を放った後だった。
僕の血で赤く濡れた鋭い爪が、今度は僕の顔に襲い掛かる。
死んだ、と思った。
もう動けないので、避けようがない。
僕は咄嗟に目を瞑り、ただ目の前の暴力から目を逸らすしかなかった。
が、その暴力が、これ以上僕に襲い掛かる事はなかった。
「…………あれ?」
僕が気付いたのは、ガーゴイルが腕を斬られた痛みで悲鳴を上げてからだった。
目を開けると、そこにはラキさんがいた。
剣を抜いて、僕の前に立ち、ガーゴイルと相対していた。
ガーゴイルは片腕を斬られて、もがいている。
その隙をラキさんは逃すことなく攻撃し、ガーゴイルをバラバラのみじん切りにする。
それはまさに一瞬の早業だった。
まばたきした後にはもう、ガーゴイルの身体が何十個もの肉片に変わっていた。
キィンと剣を鞘に収める音が鳴る。
「…………」
僕は呆然とラキさんを見る。
ラキさんは少し得意げな笑顔でこちらを見つめ、
「どうだった?」と尋ねてくる。
「怖かったです」と僕は答える。
「いや、そっちじゃなくてワタシの…………っ」とラキさんは言いかけて、
「いや、いいか。それどころじゃなかったみたいだしね」
苦笑し、血まみれ、しょんべんまみれの僕の身体を抱き上げる。
「あっ、き、汚いですよ」
「大丈夫さ。ダンジョンではそれぐらいの事は当たり前だよ。それより、怪我は大丈夫かい?」
「え?」
訊かれた途端、視界がクラリと揺れた。
頭が落ち、意識も一瞬でブラックアウト。
◆
気付けば僕はベッドで眠っていた。
「…………あれ? ここは?」
身体を起こすとそこが師匠の家のベッドである事に気付く。
「起きたね」
ベッド横の椅子に腰かけたラキさんが優しい笑顔でこちらを見つめていた。
「緊張が途切れたのと、血を流し過ぎたのダブルパンチで気絶したんだよ」
とラキさんが言う。
どういう意味かさっぱり分からなかったが、すぐに僕は自分がダンジョンに潜って、魔物に襲われ、ラキさんに助けられた事を思い出す。
「あ……っ、あぁっ!」
恐怖で身が竦む。
ラキさんはそれを見越していたのか、すぐに僕を抱きしめ、
「大丈夫大丈夫。もう何も心配いらないよ」
と優しく宥めてくれた。
暫くして、ようやく落ち着きを取り戻した僕は、改めて状況を教えてもらった。
あの後、ラキさんは気絶した僕を抱えて、別行動で僕を探していた師匠のところに向かい、治療してもらった後、ダンジョンを脱出した。
そして家に戻って、ベッドに寝かせて、僕の意識が戻るのを待ってた、という訳だ。
「マジュさんの回復魔法はすごいね。結構大きい傷だったけど、もう綺麗さっぱり、傷痕も残ってないよ」
ラキさんに言われて、僕は背中を擦るが、確かに傷痕の感触はない。
つるりとしている。
「助けてくれてありがとうございます」
僕はひとまず礼を言う。
「でも、どうして僕がダンジョンに居ると、分かったんですか? 誰にも言ってない筈なのに」
「そりゃあ、マジュさんはキミの行動くらいお見通しってだけさ。しかしまさか、いきなり十八層まで潜るとは思ってもみなかったけど。しかも相手はレアモンスターだったし」
「レアモンスター?」
「層の深さにそぐわない強さを持った魔物の事だよ。あれは本来、四十層くらいで出てくる魔物だね」
「…………だから、あんなに強かったんだ」
僕は納得しつつ、
「そういえば師匠は?」
「今はキミの両親のところに行っているよ。キミがダンジョンに潜った事についての話し合いだね」
「パパたちにもバレちゃったの?」
「そりゃあ、キミが戻ってくるのが遅いし、家にも帰ってないと気付いたから、ダンジョンに探しにいったんだよ」
確かに。
言われてみれば納得。
そりゃまずは自宅の方を確認するよな。
「ごめんなさい」
僕は謝罪する。
「別にいいさ。こっちもキミが帰りにくい状況を作ってしまった責任がある。きっと両親達も叱りはするだろうけど、怒りはしないさ」
…………って事は、僕が情事に気付いた事を気付かれたって訳か。
なんか気まずいな。
「もう少ししたらマジュも帰って来るだろうし、それまでゆっくり休むといい」
「あの……ラキさん…………」
と僕はベッドから立ち上がり、
「ぼ、僕に剣を教えてくださいっ!」
そう言って頭を下げる。
ラキさんは当惑したように頭を掻き、
「…………えぇ…………いや、まさかとは思ったけど…………そのまさかだったか…………。それはワタシがカッコよかったからかい?」
「はい」と僕は肯定する。
他にも色々理由はあるけど、確かにそれも理由の一因ではある。
「やれやれ」ラキさんは頬をかきつつ、
「魔法は? マジュに魔法を教えてもらってるんだろう? そっちはやめるのかい?」
「やめません。どっちもします」
「…………うん。まぁ、そうだろうね」
ラキさんは苦笑し、
「ワタシは別に構わないよ。だが、一応マジュや両親にも許可を取る事だね。勝手にキミとワタシだけが決めていい事じゃないからね」
「分かりました」
僕は首肯する。
◆
その後、師匠が戻って来てから、僕は剣を教えてもらう許可を取ろうとしたのだが、勝手にダンジョンに潜った事をアホみたいに叱られ、結局その日は許可を貰う事ができなかった。
んで後日、話を切り出し、なんとか許可を貰う事ができた。
既にラキさんが師匠の家に住むのが決定した事もあるからだろう。
こうして僕に二人目の師匠ができた。
◆
あと、その二か月後に、母の妊娠が判明した。
僕は兄となるらしい。
まだ弟か妹のどっちかは分からないけれど。
元気に生まれてくれればそれでいいと思う。