お別れ
母に外泊許可を貰ったのでナイルの家に戻るかと思ったが、そのまま街中を歩き回る事にした。
一応、最後という訳ではないが、それでも今日を過ぎると暫くナイルと会えないことを考えると、どうしても断り切れなかったのだ。
そうして僕達は適当に、あてもなく街中を彷徨い続けた。
目的地がない散策は個人的にとても退屈だし、それが誰かと一緒となると苦痛さえ感じるものだが、何故だかナイルとはそういうネガティブな感情は抱かなかった。
意外と相性がいいのかもしれない。
話題を探そうともせずに、自然と話題が浮かんでくる。
そのまま僕とナイルは様々な店を見て回り、気付けば空が茜色に染まり始めていた。
「そろそろ帰ろっか」
「そうしよっか。あ、でも、晩御飯の材料とか買わなくていい?」
「大丈夫。家にまだたくさんあるから」
ならいいかと、そのままナイルの家に帰る。
家に到着すると、ナイルがお風呂を沸かす準備と、晩御飯の準備を行った。
僕も手伝おうとするが、ナイルの家事は意外と手際よく行われ、この世界の家事行為に不慣れな僕ではあまり手伝えなかった。
「はぁい、お待たせ」
出来上がったのは、ホワイトシチューだった。
とろりとした白濁の半液体の中に色とりどりの野菜が浮かんでいる。
スプーンですくい口に運ぶと、クリーミーな舌触りの中にミルクの風味と野菜の甘味、それからピリリとした胡椒の味が合わさって、とても美味しかった。
お昼に食べたプレーンオムレツも美味しかったが、正直に言ってそれとは比べ物にならないくらい美味しい。
ナイルは味付けが上手なようだ。
これならドヤ顔をしても許される。
ナイルの赤い舌の上でどろりとした白濁色の半液体が溶けている素敵な光景見ながら、食事と片付けを済ませ、今度はお風呂に入る。
入浴は当然のように二人同時だった。
「五歳なんだから、一緒に入るのは当たり前でしょ?」
「別にいいけど、今度は無闇におちんちんを触らないでね」
「それじゃあ、何の為にお風呂に入るというのよ」
「身体を綺麗にする為だよ」
「おちんちんも身体の一部なのよ?」
「だからなんだよ」
僕はナイルをクッションのようにしながらお湯に浸かり、ゆっくり温まる。
身体を洗うのはおちんちんを触り過ぎない事を条件に、ナイルに任せる事となった。
恥ずかしいし、できれば自分で洗いたかったのだが、他人に身体を洗われるというのは存外気持ちの良いモノで、これならまたナイルに任せたいなぁと、不本意ながら思ってしまった。
まぁ、ナイルは遠くに行くから無理なんだけど。
身体を洗った後は、再びゆっくり身体を温め、それからお風呂を出る。
濡れた身体をナイルにしっかり拭いてもらって、またしてもナイルのおさがり(今回はパジャマ)を着せてもらう。
「それじゃあ、そろそろ寝ましょうか」
どこか遊びに誘うかのようにナイルが言う。
テレビやインターネットなどないこの世界は、入浴、食事を終えた後はすぐに就寝に入る事が多く、大人であれば晩酌などで夜の時間を過ごす人もいるのだが、アルコールの取れない子供は大抵すぐ寝てしまう。
元の世界でも育ちの良い子供はすぐに寝るよう躾けられてたかもしれないし、こちらの世界では育ちの悪い子供は夜にこそ動き出すよう生きてるかもしれないけれど。
僕はナイルに連れられ、彼女の部屋に移動する。
お風呂もそうだが、寝るのも一緒。当然の如く。
細いシングルベッドだが、子供の僕なら一緒に寝ても充分スペースに余裕がある。
ベッドに入ると、全身がナイルの匂いで包まれた。
今日はずっとナイルの傍にいて、酸素よりもナイルの甘い匂いの方を多く吸ってたぐらいだったけど、ベッドの匂いは今日一番に濃密で強烈で、脳が溶けそうになる程の強い香りだった。
そこに更に、ナイル本人が僕を抱きしめてくる。
「今日はありがとね、アルカ」
「え、あ、うん。こちらこそありがとナイル。一緒にいて楽しかった」
「あはは、なんかこれだと、今生の別れみたい。半年に一回くらい帰って来るつもりなのに」
「だとしてもかなり長い間、会えなくなるから寂しいよ」
「うん。あたしも」
ナイルの抱きしめる力が強くなる。
「……一応聞くけど、僕達って付き合ってないんだよね?」
僕が尋ねると、ナイルがきょとんとした声で、
「え? このタイミングで聞くの?」
「だってこのタイミングを逃せば、半年くらい聞けない訳だし?」
「そうだけど……でも、それだとその半年の間に新しい女をつくりそうよね、あんた」
「別にナイルが僕の女になった事はない筈なんだけどね。振ったし、振られたし」
「そうだけどさぁ」
ぶぅ、とナイルが頬を膨らます。
「…………でも、そうだね。あたし達は付き合ってないよ。両思いだけど、あんたは子供だからね。大人なあたしはあんたが大人になるのを待ってるのさ」
「僕が大人になる頃は、ナイルはかなりお年だし、たぶん他の若い女と付き合うだろうな」
「こんにゃろぉぉ」
ナイルが僕の頬をむぎゅぅと潰す。
「でも、そん時はたぶんあたしも他の男を捕まえて、とっくに結婚してるかな。あんたがあたしを振った事を後悔させてやるくらい、いい女になってるから」
「そっか。それなら僕もいい男になってるし、ナイルよりもずっといい女と付き合ってるから。ナイルが僕を振った事を後悔させてやるくらい、カッコいい男になってやるから」
「へっへぇっ、それじゃ楽しみにしてるわ。あんたがカッコいい大人に成長してるの」
「僕も楽しみにしてる。ナイルが良い女になってるの」
「は? あたしは既に良い女でしょ?」
「うわ、めんどくせっ」
「あはは、こんにゃろぉぉ」
またしても頬をむぎゅぅと押し潰される。
「…………それじゃ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
「…………明日は何時ごろ家を出るの?」
「お昼前。それよりも前にパパたちが帰って来るから、アルカはその時までだね」
「そっか。分かった……おやすみ」
「おやすみ」
それ以上、僕達は話をする事もなく眠りにつく。
月明かりもない真っ暗な夜。
窓の外で梟の鳴き声がかすかに聞こえてきた。
◆
翌朝、僕が目覚めた時、ナイルは鞄に着替えを詰め込んでいた。
「あ、おはよアルカ。ごめんね。支度の音うるさかった?」
「ううん。全然うるさくないよ。それよりも、まだ旅行の準備してなかったの?」
「旅行じゃないけどね」とナイルが苦笑する。「そうね。昨日するつもりだったけど、すっかり忘れてたの。あ、朝ごはんは既に用意してるから、食べたかったらいつでも食べていいわよ」
「あ、そうなんだ。それじゃ先に食べてこようかな…………あ、そうだ。言い忘れてた。おはようナイル」
「うん。おはようアルカ」
僕は身体を起こし、朝食を食べにナイルの部屋を出る。
ひんやりした床の廊下を歩き、階段を降りて、一階のリビングに向かう。
リビング手前側のテーブルの上には確かに朝ごはんが用意されていた。
薄い皿の上に両目の目玉焼きとウィンナー。付け合わせのサラダに、オニオンスープ。それと丸いパン。
どれも冷えていたが、すぐ隣にに温め用の魔法札(使い捨て)が置いてあったので問題なかった。
これがこの世界のレンチン代わり。実はそこそこ高価だけど、今更ナイル家に遠慮をするつもりはない。ありがたく使わせてもらって、朝ごはんを温め、食べる。
全部食べ終えたところで、ちょうどナイルが二階から降りてきた。
「ちょいーっす。あ、もう全部食べちゃった?」
「うん。ごちそうさまでした」
「どういたしまして。お粗末様」
僕は食べ終えた朝食を片付け、顔を洗う。
服を着替えようとしたら、何故かまたナイルのおさがりの女児服が用意されていた。
「いや、さすがにもう着ないよ。昨日着てきた、僕の服を着るから」
「洗濯してないわよ」
「あっ…………でも、別にいいよ。それぐらい」
「残念だけど、水に浸けたままだから着れないわよ。びっちょびちょだもの」
「…………確信犯?」
「そりゃ勿論」
あまりに堂々とした返答に僕は思わずため息を吐く。
お別れの日に十歳年上の女を正座させて説教を小一時間してやりたくなったが、これは自分の服の事をすっかり忘れていた、僕にも責任がある。自業自得。
というか既に女児服を着る事に抵抗がなくなってしまっている。
昨日の時点で母にも見られて、もはや怖いものなしだ。
…………まぁ、ある意味子供らしくはあるかもしれないけど。
そんな訳で二日続けて女児服を着る。
今日のはコッテコテのドレス。猫耳みたいなリボン付き。
「うんうん。似合う似合う。女の子みたい。てか完全に女の子。抱っこしないと男の子って分かんないわ。硬さで判別しないと」
子供でも肉の硬さが違うんだっけか。
そんな話をしていたら不意に、「ただいまぁ」と玄関から声が聞こえてくる。
「あ、ママたちが帰ってきた」
ナイルが帰ってきた家族たちを出迎えに向かい、僕もそれに続く。
「おかえりなさい。昨日は気を利かせてくれて、ありがとうね」
「いえいえどういたしましてぇ。あ、あらあらぁ?」
ナイル母が僕の姿を見て、嬉しそうに微笑み、その後ろにいるナイル父は僕の格好を見て、複雑そうな目でこちらを見る。
「血は争えないな……俺も昔はママにそういう服を着せられてたよ」
「…………そうでしたか」
暗い顔の男同士で固い握手を交わす。
まさかの女装で、僕とナイル父の結束が深まってしまった。
「あれ? コズミは?」
ふと、ナイルが気付いたように尋ねる。
「うーん……あのコはちょっとね……」
困ったようなナイル母の反応。それで僕はピンと来る。
「…………あの、もしかしてですけど、それって僕が居るからですかね?」
僕の言葉にナイル母は苦笑しながら、曖昧に頷いた。
確か、ナイルの妹、コズミってコには嫌われてた気がするので、もしかしてと思ったのだ。
食事に呼ばれた時以来、顔も見てない気がするが、仕方ないだろう。
「ごめんねぇ。あのコってシスコンだから。お姉ちゃんを盗られたと思って拗ねてるのよ」
「振られてますけどね」
「アルカが振ったんでしょ」
「おーい。そろそろ玄関で話すのはやめないか?」
ナイル父の言葉で、僕達は一旦話をやめ、リビングの方に向かう事にした。
────と、ここで唐突に、ナイルの母からお願いされた。
「ねぇ、アルカ君? 悪いんだけど、キミにはそろそろお暇してもらってもいいかなぁ」
「え?」
いきなりの要求に、僕は一瞬固まる。
「アルカ君は昨日充分、ナイルと楽しんだでしょう? これからちょっと家族でお話したいから、申し訳ないんだけど、アルカ君にはここでお別れしてもらいたいんだけどぉ」
…………言われて、納得した。
考えてみれば、お別れするのは僕だけじゃない。家族全員とだ。
昨日一日、僕が独り占めしたのだから、今日は家族と過ごすべきだろう。
昼前に出る訳だし、他にも準備だってあるだろう。
いくら僕がナイルと仲間であるとはいえ、最後の家族の時間を邪魔する権利はない。
むしろこれは、僕からさっさと言い出すべきだったのだ。
「すいません。気が利かなくて。…………それじゃナイル。ここでお別れだ」
「…………うん。ごめんね。こんなところで」
ナイルも母の言葉に反対せず、ここでの別れを受け入れた。
「まぁ、半年後にまた会えるから、今生のお別れじゃないしね。もし帰ってきたら連絡ちょうだい」
「勿論よ。あんたにあたしの事を忘れさせないんだから」
ナイルがそう言って僕を抱きしめる。
僕もナイルを抱きしめ返す。
ぎゅーっ、と互いに強く抱き合い、それから笑顔でバイバイと言い合う。
そうして僕はナイル家を出る。
外に出た途端、冷たい空気が身体を締め付け、僕は思わず肩を震わせる。
「またねーっ」
後ろからナイルの声がする。
僕は振り返って手を振り、その声に応える。
そして前を向き、その場から離れる。
僕の姿が見えなくなるまで、ナイルはずっと手を振ってくれていた。
◆
こうして僕とナイルは別れた。
なんだか唐突な別れ方だったけど、これは当然の事。
僕とナイルは特別な関係じゃない。
だから、これは当然の事だった。
ナイルと別れるのも当然の事だった。




