ジャントルの倫理
アルカ・フェインは死んでいる。
誰の目にも明らかだ。
にも関わらず、敵のジャントルという男は手を休めない。
馬乗りになって一心不乱にアルカ・メインの死体を殴り続けている。
その行為に意味があるかは分からない。
だが、誰もそれを止めようとはしない。
圧倒的な力と絶望的な狂気を併せ持つ老人の行為を止められる者は、ここには誰一人いなかった。
唯一、娘のナイルが泣き叫びながら、凶行を止めようと必死にもがいていたが、アルカの師匠であるラキという女性に羽交い絞めにされている。
今の自分では娘を止められないので助かるが、彼女の表情はよく分からない。
弟子を殺された事に憤ってるのか、弟子を殺されているのに止められない自身を歯がゆく思ってるのか。
やや憤ってるように見えるが、ほとんど無に近い表情だ。
「や、やめろぉっ!」
と私は叫んだ。
叫んだつもりだった。
あまりに必死に泣き叫ぶ娘に釣られて、目の前の残虐な行為を責めて声だけでも止めようとしたが、恐怖のあまり声すら出てこなかった。
おそらくキラレキもそうだろう。
彼も自分と同じく口を大きく開けていたが、声らしい声は出ていない。
叫ぼうと思ってるが、恐怖のあまり声が出せないのだ。
どうにか助けを求めようと、私は辺りを見渡した。
だが、特に助けになりそうなものは見当たらない。
当たり前だ。こんな廃工場にそんな都合の良い物がある訳がない。あったら最初から目に入っている。
にもかかわらず私はひたすら無い物を探している。
何故か。
その行為の意味に私は気付き、自覚している。
それは、目の前の残虐な行為から目を逸らしたいからだ。
怖くて怖くてたまらない光景から目を逸らしているだけだ。
だから、それに気付いたのだが、どうもこの辺りに人の姿どころか、動物などの姿も見当たらない。
先程まで窓から鳥の飛ぶ姿が散見されていたのだが、それがいつの間にか消えている。
まっさらな青空だけが窓の外に映っている。
少しだけ、かなり遠くに点くらいの鳥の姿が見えたが、それも何故か方向転換を行い、そこから離れて行った。
まるで本能が危険を避けるかのように。
己の命を脅かす危険なものがこの辺りにあるかのように。
これは私の考えすぎであるかのようにも思ったが、どうにもそれが正解としか感じられなかった。
なにせその危険の中心がすぐ目の前にあるのだから。
怖くて、怖くて、声も出せないほど怖いものがすぐ傍にあるのだから。
◆
「あれ?」
アルカの母、レイサ・フェインは突然、コップにヒビが入るのを見て、声を上げた。
まだそのガラスコップは新しかった筈だ。
それなのにコップは突然、ヒビが入った。
嫌な予感がした。
レイサ・フェインが己の第六感に戸惑っていると、今度は娘のナミヤが突然泣き出した。
現在一歳の娘が突然泣き出すのは珍しくない。
まだほとんど赤ん坊と変わらない、歩き始めで行動範囲の拡がった娘が、何かに驚いて泣き出す事はよくある事だ。
レイサは慌てて娘の方に駆け寄った。
娘の傍には娘の危険となる物は置かないようにしているが、娘の行動は時としてこちらの予想を大きく超える事があるから、決して安心はできない。
だからできるだけ目を離さないようしているが、それでも家事をしている最中は、どうしても目が離れてしまう。
何も怪我をしていなければいいのだけど、と思いながら娘を見るが、娘は特に怪我らしい怪我はしていなかった。
それどころか彼女が泣き出す原因となったモノさえ見当たらなかった。
何もないところで座って、わんわん泣いている。
おそらくは、つかまり立ちで立って、歩いて、思わぬ拍子に転んでしまったのだろう。
状況的にそうとしか思えない。
「どうしたの? 痛いところはない?」
レイサは娘のナミヤを抱えて、泣き止むようあやし始めたが、娘の癇癪のような大泣きはなかなかやみそうにない。
大丈夫だろうか、と不安に思った瞬間、レイサの視界になにか黒い物がよぎった。
その方向を見ると、窓の外に黒いカラスが集まっているのが見えた。
尋常ではない数。
レイサは思わず一歩後ずさった。
彼女がカラスの存在に気付くと同時に、大量のカラスは一斉に鳴き始めた。
まるでこちらを責め立てるかのような叫び。
それに合わせて、ナミヤの泣き声が一層強くなった。
怖がるのも無理はない。
レイサ自身、この異様な状況に声を上げて泣きそうになった。
夫と息子は大丈夫だろうか、と家族の不安が胸をよぎった。
夫は臆病な性格だから、それほど危険に近寄らないだろうと思ったが、つい最近、ゴルドフの死体を見つけた件があるから油断できない。
しかしそれ以上に息子のアルカ。
アルカは年の割にはだいぶ賢いが、どうにも危険を顧みず動く節があるので、夫よりも不安だった。
ついこの間も勝手にダンジョンに潜って、手足がなくなり、顔も半分なくなるという惨状を晒した。
「アルカ……何も変なことに巻き込まれてなければいいけど……」とレイサは呟いた。
大量のカラスが鳴く中で、ふと聞き覚えのない男の声が聞こえた気がした。
◆
ジャントルは己の狂気を認めていた。
他人から見れば狂気の沙汰に居るであろうと理解し、受け入れていた。
己が狂気を認めていなければ、それこそ彼は本当の意味で狂っていただろう。
狂気を受け入れ、狂気を認め、狂気に身を委ねる事。
それは彼にとって唯一の安寧であり、決して手放せない精神安定だった。
故に彼は己が最も優れていた才に縋り、血で血を洗い、ただひたすら破壊を求めた。
悲劇を追い、殺戮に溺れ、恐怖を生み出した。
人間の骨が砕ける感触の心地よさは何物にも代えがたく、人間の悲鳴や慟哭は彼にとって心安らげる子守唄のようなものだった。
いつ、このような人間になったかは定かではない。
最初からだったかもしれないし、そうでないかもしれない。
ただ、それを考えるのは無意味だと彼は思っている。
彼は幼少期に母に捨てられ、そこから独りで生きてきた。
仲間だと思う連中もいた筈だが、それらは全て彼を裏切り、彼を見捨てた。
その連中を責める気は毛頭ない。
彼だって仲間だと慕う者を裏切り、見捨てた回数は数えきれない程にある。
力のない幼少期は生きる事で精一杯だったのだ。
他人を救う余裕など欠片もなかった。
彼が己の才に気付いたのは身体が成長し始めた十三の頃だった。
大人に多少力で抵抗できるようになって、その力をどのように奮えば相手を効率的に破壊できるか、理屈を抜きに感覚のみで理解できた。
才に気付くと同時に彼の身体はどんどん成長していった。
それは効率的に食料を獲得できるようになっただけだが、彼には自分が他人の血で成長しているように感じられた。
他人を殺せば殺す程、自分は強く成長していくものだと錯覚していた。
故に彼は殺し続けた。
ある意味では、その経験こそが彼を殺人者として成長していく餌となったともいえるので、彼の考え方も間違ってないのかもしれない。
身体がある程度成長しきったところで、彼は冒険者として動くようになった。
犯罪者として動くリスクと、冒険者として死ぬリスク。
それらの天秤を量り、冒険者の方がリスクが少ないと判断し、彼は冒険者となった。
実力はあったので仲間はすぐにできたが、すぐに別れた。
自分の実力に釣り合う仲間は意外といなかったからだ。
暫くして同年代より、少し年上の、周囲からは有望株とされている連中と出会い、そのメンツと仲間になった。
話はそれほど合わなかったが、それでも自分を仲間として見てくれている彼等に、ジャントルは居心地の良さを感じていた。
だが、それとは別に、物足りなさも感じていた。
このままでは決して満たされない心の飢え。
それが何なのかは、ジャントルは気付いていた。
仲間ができてから二年経過し、ジャントルはまた独りに戻った。
犯罪者として動くリスクと、冒険者として心が死ぬリスク。
それらの天秤を量り、犯罪者の方を取っただけだった。
心の飢えはジャントル本人には決して無視できない大事な要素だったのだ。
自分を敵でもなく、仲間として扱ってくれる彼等には多大なる感謝もあったが、それでも己の中から沸き上がる欲望には逆らえず、気付けばジャントルは仲間の血肉の中で佇んでいた。
彼らの骨の砕ける感触。彼等の悲鳴。絶望に染まる表情。
それらはジャントルの心に深く刻まれていた。
決して揺るがぬ、愉悦の記憶として。
ジャントルは再び犯罪者として生きて行く事にした。
とはいえ、偶に冒険者として動くときもあった。
できる限り独りで動くようにしていたが、誰かと組むのが避けられない時は必ず殺した。
二年間付き合った仲間たちの記憶を薄れさせたくなかったからだ。
普段は、目のついた人間を殺して、そいつの財産を奪い、時には冒険者として魔物を狩って、それらで生計を立てていた。
やがてジャントルは、周囲から殺人者として疑われるようになった。
己が殺人者である事は紛れもない事実だから、それは致し方ない事だった。
その疑いの目が徐々に逃れられなくなってきた頃に、それは起きた。
フュリーラ大戦。
一般女性に憑りついたとてつもなく強力な魔物が現れ、人間を次々と虐殺しているとの事。
それの討伐として国王が、国の兵だけではなく、冒険者からも臨時の兵を募集している事。
犯罪者として疑われているジャントルには、その募集を断る権利はほとんどなかった。
仮にあったとしても、ジャントルなら断るつもりはなかったかもしれない。
討伐隊に参加し、そしてフュリーラ討伐の為に動いた。
そしてそれは、ジャントルの想像を超えた紛れもない地獄だった。
ジャントルは己の倫理、感性、人間性が既に壊れているモノだと思っていた。
だが、その討伐戦に参加した後では、それは壊れているのではなく、歪んでいるだけであったことに気付いた。
物心ついた頃から誰にも頼れない孤独な日々が、ジャントルの人間性を歪ませていただけに過ぎなかった。
その大戦の中で彼は、己の人間性などが粉々に砕け散った事を悟った。
討伐隊の連中は自分以外ほとんど死に、自身も後遺症こそないが、大きな怪我を負った。
怪我が完治するまでに一年掛かった。
完治後、彼はこれまでとはまた別の人生を歩み始めた。
金で動く傭兵のような存在。
フュリーラ大戦後はジャントルの殺しの疑惑もほぼ消えていたが、それでも彼は冒険者として動く事はなかった。
彼の中で本当に壊れてしまったものが、彼をこれまで通りの生き方を拒絶させた。
彼は血を求めていたし、仲間も求めていた。
それは間違いではなかった。
だが本当に求めていたモノは────、
それから長い年月が経過した。
とある日、ジャントルはその求めていたモノと遭遇した。
これまでにもたくさんそれとは遭遇していたが、今回のは特上だった。
今回ほどのモノは今まで遭った事がない、かつてない程の特上の餌。
見ただけで理解した。
アルカ・フェインという凄まじく強い餌。
子供ながら、恐ろしいまでに練り込まれた魔力をいとも平然と纏うその姿に、ジャントルはかつての地獄を思い出した。
思い出してみれば、魔王フュリーラとどこか似ている。
見た目はあまり似ていないのだが、纏う雰囲気とでもいうのだろうか、何かが似ている。
彼と闘う為に、ジャントルは今回の雇い主に様々な提案と条件を出した。
おかげで自分に入る金はほとんどなくなったが、それでも彼は構わなかった。
アルカと闘えればそれでいい。
この子供と闘う為に、自分はこれまで生きてきたのだ、とまで思った。
もっとも、彼はこういう感想をこれまで何度か抱いた事があるのだが。
ナイルを誘拐し、そこから周囲の流れに身を任せた。
焦る必要はない。
今いる連中ではアルカに怪我一つ負わせる事もできないので、最後は彼と自分は闘う流れになると分かっていたからだ。
故に、ジャントルはほとんど傍観していた。
幸いアルカが率先して闘う事はなく、最後に自分とアルカが闘う事となった。
闘う前に彼と話をしてみたが、どうやら彼と分かり合える可能性は皆無だと判った。
強者との闘い。
殺し合う才を磨き合えるこの瞬間こそが、彼にとって全てなのに、それをアルカは嘲笑するように否定した。
許さない。
ジャントルはアルカを殴り、怯んだ隙に馬乗りになって、彼を殴り続けた。
本物の強者と出会って、それと闘う事がどれだけ幸せな事かを、この少年はまだ理解していないのか。
他人の骨を砕くのも楽しいし、悲鳴を聞くのも楽しい。
仲間と過ごすのも楽しいし、裏切る事も楽しい。
だが、強者と殺し合うこの瞬間こそが、この世で最も楽しい事だと、目の前の少年は気付いてないのだ。
ひたすら殴り続けて、そろそろアルカにトドメを刺そうとこれまでのより一層強い力で顔を殴ると同時、少年が立ち上がり、こちらの顔面に拳を入れた。




