キス
「アルカさん……」
潤んだ瞳でシスターがすり寄って来る。
なす術もないまま僕は目の前までシスターが近づくのを許してしまう。
密着した距離。
豊満な胸が押し当てられ、柔らかな感触が全身を包み込んでいく。
顔も近い。
甘い吐息が顔に掛かる距離で、シスターが身体を震わせながら目を閉じる。
僕はようやくシスターの意図を理解し、手を伸ばす。
そして────、
「ご主人様ぁああっ!」
元気のいい声と同時に僕は目的の行為を成し遂げ、シスターから離れる。
シスターも我に返ったかのように目を大きく広げて、声の主を見る。
元気のいい声の主はネアだった。
先程別れたばかりだったが、こちらを追いかけてきたようだ。
というか、僕の後を付けてきて、こっそり見ていたようだった。
一応これでも、修羅場をそれなりに潜った冒険者だから、それぐらいの気配はすぐに察せるのよ。
たまに全く気付かない時もあるけど。
「ご、ごめんなさい……わ、私は何を…………」
赤面し、何故か息も絶え絶えな様子のシスターに、僕は笑って伝える。
「大丈夫ですよ。もう取りましたから」
シスターは軽く首を傾げると同時に、ネアが、
「ご主人様。二人で何をしてたの?」
上目遣いで尋ねてくる。
「べ、別になななな何もしてないわよ、ネアちゃん」
その問いに何故だかシスターが妙に慌てた様子で返事する。
「うん。普通にお喋りしてただけだよ」
僕もそれに続く。
実際、その通りだからだ。
ただまぁ、シスターがあまりに美人で、妙に蠱惑的だったから、ちょっと変な気分になってしまったけど。
肝心のシスター自身にはそういうつもりはないからなぁ。
目をこちらに瞑ってすり寄ってきたのも、髪に虫がついてたから、怯えてしまっただけで。
でも、こんな小さな虫一匹で口をやや尖らせ、身体を震わせてしまうのは、かなり可愛いと思ったり。
クラシックな女の子らしさっていうか。
多種多様な女の子の魅力を見出す現代において、こんな古典的な可愛らしさを何の計算もなく天然でやってのけるのは流石だと思う。
シスターが美人だから許せるってのもあるだろうけども。
閑話休題。
赤面し、慌てふためくシスターがいそいそとこの場を離れようとする。
なんとなくやましい事のある人の動きにも見えるが、あんな清廉潔白、赤子の次に純真無垢なシスターがやましい事なんてある訳がないので、おそらくは僕の目と心が穢れてるせいか、あるいは小さな虫一匹のせいで僕にすり寄ってしまったのが恥ずかしかったか、のどちらかだろうと推測される。
んで、間接的にシスターが離れてしまった原因にもなる、素直で可愛らしいネアが、僕の傍に寄ってきた。
ネアは小さいので寄ってきたところで、頭がこちらの腰までしか届かない。
そんな小さなネアが僕の袖をくいくい引っ張って来る。
「うん? なに?」
僕はネアと視線を合わせる為に膝を付く。
ネアと視線の高さが同じになったところで、ネアがおもむろに僕にキスをする。
「んむっ?」
予想外の行為。
ネアがしがみ付く様に僕にキスをしている。
唇をただ強く押し当てられてるだけだが、それでもネアの唇の柔らかさが伝わってくる。
「むちゅぅぅううううっ」
ただひたすら押し当てられ、暫くして唇が放される。
「あらら……」
困惑する僕に、ネアが真面目な顔で目を合わせてくる。
完全に合ったのを確認してから、そっと僕の後ろの方に視線をやる。
気配的にシスターがまだそこに居るのが判ったが、それでもつい振り向いてみると、シスターは呆然とした面持ちで僕とネアを見ていた。
「あははははは……」
僕が苦笑いをしてみせると、ネアがやや不満そうに唇を尖らせ、僕にしがみつく。
放さないというような意思表示。
なんとなく、シスターから僕を取られないようにしている風に見えてしまう。
「…………」
そんなネアをシスターが微笑ましそうな笑顔ではなく、今まで見た事のないタイプの真顔で見つめている。
「んっ」
とネアは言い、しがみ付く力が強くなる。
…………えっと、これは。
おそらくだが、僕とシスターが仲良くしているのを見て、ネアが嫉妬してしまったようだ。
いくらシスターの人当たりが良いとはいえ、僕とそういう関係に見えてしまうのは、やはり子供の観察眼といったところか。
嫉妬心含めて、可愛いものである。
僕は、世のお父さんが娘に溺愛する気持ちを理解しながら、ネアの頭を優しく撫でる。
「よしよし。ネアは可愛いなぁ」
僕に撫でられると、ネアが懐いた猫みたいな反応をみせる。
「みゅぅぅ」
何故かそこでシスターの眉間に皺が寄った。
「ネアちゃん? アルカさんが困るからそのくらいにしておきなさい」
とシスターが言う。
口調がやや冷たく感じられるのは、たぶん僕の気のせいだろう。
「別に困ってませんよ」と僕が言うと、ネアが嬉しそうに笑った。
よしよし、と再度ネアの小さな頭を撫でると、シスターの整った顔がまた更に険しくなる。
…………何故だか、妙に寒気がするのは気のせいだろうか。
◆
以上、回想終了。
そんな訳でネアにキスされた事を思い出していたのだが、ちょっとこのタイミングで言うべきじゃなかったと後悔している。
確かにこの家に来た時からずっと地獄のような空気だったが、今はそれすらも生温いほどのヤベェ空気になってしまっている。
地獄を超えた地獄。
これこそが最悪だと思ってたら、また更に上があったみたいな、そんな感じ。
バトル漫画じゃないんだから、そういう戦闘力のインフレみたいな事をこんなところでやらないでほしい。
別にいいじゃん。
僕が誰とキスしたって。
夕飯に招待されたお家でそういう事を馬鹿正直に話す僕も確かに非はあるかもしれないけど、でも怒る必要はなくない?
僕とナイルが付き合ってる訳でもあるまいし。
────なんて、そんな事を言える訳もなく、僕はブチギレ父娘の圧倒的怒気にただただ怯えるしかない。
唯一、のほほんとしているナイル母も流石にこの空気じゃいつもの「あらあらぁ」も「アアラララァアアァア」となってしまっている。
「ちょっとどういう事、それ」
疑問符なしにナイルが問い詰めてくる。
「あ、えっと、その……」
別にやましい事はしてない筈だけど、彼女の圧力の前には怯える事しかできない。
もういっそ、紳士達でさえかかえたプレッシャーに、時折開き直ったりもしちゃおうかとさえ思ってしまう。
「まぁまぁ」とここで、何故かナイル父が穏やかな笑みで怒り心頭な娘を抑えて、この場を取り持とうとしてきた。
ほんの一瞬前までフォークでこちらの眼球をほじくりださんとしていた男が、何故こうも一瞬で態度を改めたのか疑問に思うが、彼の意図はすぐに理解した。
「やはりこんなクズ男にお前は合わないよ。今すぐ別れなさい」
娘と別れる可能性を見出したからこそ、こんなにも穏やかな態度になったのだ。
だが、一緒にダンジョンに潜るだけ仲間に、そういう貞操観念を求めるのは正直如何なモノか。
結婚相手じゃあるまいし。
この父娘はどうも冒険者仲間と夫婦の区別がついてない気がする。
僕がどのように反応すればいいか迷っていると、
「ぷぎゃっ」
ナイルが僕の顔面に裏拳を入れつつ、父に向かって力強く宣言した。
「嫌よ! 絶対、別れないから!」「んぎゃ」
ちなみに最後の声は、僕がナイルの裏拳で椅子ごと倒れた際の声だ。
フローリングの床に背中から倒れて、頭を強く打ってしまった。
痛い……。
「パパがアルカをどう思おうと、あたしはこいつと一緒にいるから!」
そう言ってナイルが床に倒れている僕の腕を引っ張り、リビングから…………いや、家から出て行く。
僕もそれに無理やり連れられ、ナイル家を出てしまう。
ナイル父が慌ててそれを止めようとするが、娘の運動力と意志の強さの前に阻まれ、僕とナイルが出て行くのを止められなかった。
◆
街の夜道を幼児の手荷物のように引き摺られていく僕の身体。
道は、舗装こそされてるが、元の世界と比べて荒く、引き摺られる度に肌がざりざりと削られる。
街灯もあるが、元の世界と比べて薄暗く、光量も不安定だ。
「…………ねぇ、そろそろ手を放してくんない?」
引き摺られ過ぎてズボンが破けてしまった僕が言う。
「なんで……」
「ん?」
「なんであんたはそんなに平然としていられるのよ…………!」
鬼気迫る表情で問い詰められて、僕は返答に窮する。
正直、ナイルが怒ってる理由すらよく分かってないのに、そんな事を言われてもなんと返答すればいいか分からない。
「僕はどうすればいいの?」
なので逆に訊ねてみる。
「ナイルの求めてるモノが何かよく分からないから、僕はどうすればいいか分かんないよ」
「…………普通にしてくれればいいのよ」
とナイルが言う。
「普通ってなに?」
「…………バカッ!」
殴られた。
…………何故?
殴られた僕は軽々吹っ飛び、上半身だけ壁を突き破る。
更に、僕を壁尻状態にしたナイルはそのまま走り去っていった。
放置される僕。
僕の上半身が突き破った壁は、やたら胸板が厚くて胸毛の濃い角刈りのおじさんが住んでる家の壁で、そのおじさんは上半身だけ壁を突き破った僕を見て、やや頬を染めつつも、驚きの反応を示した。
「あ、どうも」と上半身のみでご挨拶。
筋肉ムキムキで全身の体毛がやたら濃いおじさんは意外と優しく、壁を壊されたにも関わらず、こちらを責めることなく、むしろ壁から抜け出せない僕を助けようと家の外側まで回って行ってくれた。
家を出る時になんか舌なめずりしていたように見えたが、気のせいだろう。
「…………」
ところで突然だが、先程まで僕はナイルに引き摺られていたからズボンが破けてしまっていた。
その破れた部分はちょうどお尻の部分であり、下着まで破けてしまっていた。
端的に言ってしまえば、今の僕はお尻まる出しの状態だった。
さてここで問題。
────Q.さて、このあと僕はどうなるでしょう?
◆
────A.変身魔法を解いて子供の姿になり、壁から脱出した、でした。
そんな訳で無事になんとか脱出できた僕はおじさんに壁の修理費を払って、家に帰った。
「いやぁ、おじさんがいい人で助かったよ」
いいよいいよと笑って許してくれたおじさんに感謝してもしきれない。
ナイルについては…………今は考えるのをやめよう。
現実逃避しつつ家に帰ると、何やら家の様子が変だった。
僕が帰っても、誰も反応しない。
まだ両親が眠る時間には早すぎるから、寝てる事はないだろうが、それにしては静かすぎる。
一応リビングの電気はついてるが、そこには誰もいない。
夕飯が残っているが、量的にそれは僕の分ではなく父の分である事が判る。
という事は父はまだ帰ってない……?
だとしたら、母は一体どこに?
もしかしたら二階の寝室で、妹のナミヤを寝かしつけてるところだろうか。
それなら納得かな、と思ったところで二階から足音が聞こえてきた。
母かなと思ったら、降りてきたのは父だった。
「あれ? どうしたの? なんで二階から?」
ご飯の前にナミヤの寝顔を見に行っただけなら納得できる。
特に何もおかしくなんかない。
でもなんか違う。
表情が暗い。
ナミヤを寝かしつけようとした母から、ナミヤが起きるから入ってくんなと怒られたところだろうか。
それなら納得だ。うんうん。
「……………………」
でも、それにしては落ち込み過ぎじゃない?
一応まだ五歳児の可愛い盛りの息子が帰ってきたのだから、もう少し笑顔になってもいいんじゃないの?
なんて思ってたら、父が引き攣った笑みで、
「おかえり、ドコに行ってたんだ?」
と尋ねてきた。
なにやらおかしい。
さっきから様子が変だ。
僕が何処に行ってたか知らない反応。
それはつまり母から話を聞いてないという事。
それなのに五歳の僕が勝手に夜で歩いている事に、何の注意もしてこない態度。
…………いやまぁ、僕も結構、夜、出掛ける事もあるから、そこまで変じゃないか。
でも、普段なら軽く注意くらいはする筈だ。
それがないし、そもそもこんな引き攣った笑みを見せる時点で、何か異常事態が起きたとみるべきだ。
「何があったの?」と僕は訊ねた。
隠し事の下手くそな父は目を逸らして、
「なにもないよ」と答えた。
絶対、何かある反応である。
「お母さんは?」
「もう寝てるから起こさないであげて」
「こんなに早く寝ちゃったの?」
「そうだね。疲れてたみたい」
「本当は?」
「…………」
「なんならお母さんに直接訊ねてもいいんだよ」
僕がそう言うと、父はやがて覚悟を決めたようにして、
「この前、ウチに来た顔の怖いお兄さんを覚えてるかな?」
「あ、うん」
おそらくはフランケンことゴルドフのおっさんだろう。
「ゴルドフさんだよね。覚えてるよ。あの人がどうしたの?」
父は辛そうな顔をした後、小さな声で言った。
「…………彼が亡くなったんだ」




