二人の世界
初めて神様の世話をしなくてはならない、と言われたときには、なにか犬猫の名前が神様であって、それの世話をしなくてはならないのだと思った。隠し子が親にいたわけではなかったので安堵したのを覚えている。
その頃は存命だった叔父から、女はその神様を世話してはいけない、という、なにやら不穏な言葉をボソリといわれた。そして心底、あわれそうな目をされて、良かったな、羨ましいぞとまで言われた。
まもなく、社の方から一度顔を出せ、と打診があった。
史郎は、その日、誠に神妙なる境内にて起きたことを忘れはしないだろう。一般人が目を向けぬように絹の布で目隠しをされた藁葺き屋根の建屋から、なにやら目に見えぬ風が吹き込んで、その目隠しをヒラヒラと持ち上げているのだった。
神域を守る方々から、お経めいた不気味な低い言葉で、それが、耳と、臓物のいくつかを無くしていることを告げられたとき、男はよろけて膝を付いた。その目隠しの向こうに透けていたのは、まだ子供ほどの影であった。ヒラヒラとめくれる布の下には素足が見える。
陰陽師のような、変な服と、歩きにくそうな木彫りの靴を履いた関係者は目を細めて彼を見、「声をあげてはならん」といって、内門の絹を取り払った。そこには、血の気が失せるほど美しい子供がいた。その子供は無気力な目で彼を見ていた。
その子の目の前に置かれた木製の器には脈打つ臓物が乗せられていて、それがまだ腹と管で繋がっているような有り様であった。生きた人体模型を磔にしたような感じがする、それが、しかし、洞窟のように暗い目で穴が空くほどに見てくるのである。
「おまえ、わらわが見えているな?」
神様はひきつったような笑顔を顔に張り付け、史郎の頬に手を伸ばし、そんなことを言っていた。
いくつかの注意点と共に、人が一人、また一人といなくなるような限界集落に戻った時、神様が付いてきたのは言うまでもなかった。
それからあっという間に30年という月日が流れた。時おり、社の関係者を名乗る人達が代わる代わるに現れ、皆、神様の特異な姿をご覧になると目をそらして部屋へと運んだのだった。
母屋の結界に落ち着くとすぐに、まるでいままでそうすることが出来なかった反発のように、子供のような振る舞いを始めていた時、史郎が適切な距離感と当たり障りのない会話を身に付けている間に、世間では新興宗教ブームが起きていた。
毎日のように親戚一同やその知り合いが神様を訪ねたが、やがて、大きな事件が新聞を賑わすようになると、パタリとその足も止まった。
時々には叔父が来ることもあったが、ある日を境にぱったりとなくなる。死んでしまったのだった。畦道で足を滑らせガードレールに頭を打ち付けて死んだ、ということであったが、皆が気味悪がって家に寄り付かなくなった。やがて、地区の集会にも呼ばれなくなり、新聞ですら、家に届かなくなっていった。
彼は、会社の日陰で細々とした仕事をする以外、社会との繋がりもなく、世話を必要とする彼女がいる、田舎の小さな部屋が、そこにいる二人にとって世界の全てと言って差し支えないような有り様となっていったのは、もはや時間の問題であった。
ただ、一人で部屋から出ることも出来ない、その可憐なる花にそっと手を差し出すのは、あまりにも簡単なことであり、そのガラス玉のような目が、軽蔑に満ちたような視線で見てくることが彼にとっての幸せだった。
その、生意気な、身体の小さくひ弱な神様が、ただ一心に、史郎に女が付かないことを願うように確認するのが、どうしようもなく可愛らしく、彼にはただ、たまらなかったのである。