何でもない日の空騒ぎ
とても好き勝手に書き散らしました。
何でも許せる方向けです。
何でもない日、というものがある。
それはハリントン王国全土に浸透している風習で、祝日でも祭日でもないそれを指して『何でもない日』と呼び習わした最初の一人が誰だったのかは公的な記録には残っていない。けれども、この国の人間であれば『何でもない日』と言われれば即座にそれを思い浮かべる。
ハリントン王国民曰く、それは『何でもない日にこそパートナーに感謝を示して互いに贈り物を交換する日』―――――とある邸の一室でちょっとした騒動の種が芽吹いたのは、そんな何でもない日だった。
「あら、まあ」
ブランシェット・バニスターは持ち前の優雅さを一切損なわない器用さでゆっくりと首を傾げてみせる。あくまで自然に、かつ緩やかに、白百合と譬えられる美貌の主は困ったことになったわと言わんばかりに息を吐いた。白魚のような指がつまんでいるのは手触りの良い最高級の刺繍糸を束ねたものだったのだが、ブランシェットはそれを丁寧な手付きでもとあった場所にそっと戻す―――――つもりが力加減を誤りぎゅむ、と強めに押し込んでいた。
彼女が膝上に載せているのは見れば見る程に美しい凝った装飾を施した箱で、中にはきっちりと同じように纏められた色とりどりの刺繍糸の束が過不足もなくおさまっている。まるで虹の七色を更に細かく色分けしてグラデーションになるよう並べたそれらは圧巻の一言に尽きたけれど、ブランシェットといえば贈り物として届けられた品を見下ろして溜息とともに蓋を閉めた。
「―――――ジョナス様の趣味ではありませんね」
何かの間違いではないかしら、と念のためにもう一度だけ中を確認してみるが、入っているのはやはりカラフルな最高級の刺繍糸群。刺繍を嗜む御令嬢には垂涎のプレゼントに違いない―――――だがブランシェットは刺繍が不得手だ。ハリントン王国の第二王子であるジョナス・ハリントンの婚約者として最低限には刺せるけれどもあくまで最低限の話で適性的にはダンスとかそういう分野が得意である。白百合の君、などと呼ばれる容姿と相俟って儚げな美少女にしか見えない彼女は世間一般の幻想に反して運動神経の塊だった。ダンスや乗馬は難なくこなすが細かい作業にはあまり向かない。婚約者歴が六年になるジョナスもそれは知っている、のに、この贈り物。
ハリントン王国の恒例イベント『何でもない日』の贈り物にこれ。何でもない日にこそ相手を思い遣り感謝を示してお互いに良好な関係を維持していこうね、という祈りを込めてプレゼントを贈り合うという伝統の日に婚約者から届いたのがこれ。しかも本人の手渡しではなく従者を介した交換である。毎年必ず時間を捻出してお互い手渡ししていたのだが、今回はどうしても(ジョナス側の)都合が付かずこのような仕様と相成った。届けられた贈り物にはメッセージカードが添えられていたが、そこに走り書いてあったのは『何でもない日に ジョナス』との簡素極まる定型文のみ。直筆なのは間違いないし、王族であるがゆえに忙しいのもブランシェットとて理解はしている―――――が、それはそれ、これはこれ。
有体に言ってしまうなら、彼女はそこで、ちょっとだけキレた。
「自分で選んでくださいね、って私あれほど言ったのに!」
自室であるがゆえに淑女の仮面を盛大に剥ぎ取り壁にぶち当てて破壊する勢いで一人の恋する乙女が吠える。意に沿わぬプレゼントを贈られたとしてもそれを壁に投げ付けないだけまだ理性的ではあったものの、公爵令嬢らしからぬ声量でストレートに愚痴を吐き出して「何事ですかお嬢様!?」と周囲一帯の使用人たちをスクランブル大集合させるくらいには衝動性の怒りに駆られていた。
***
ブランシェット・バニスター公爵令嬢がハリントン王国貴族学院に一ヵ月振りにご登校―――――するなり婚約者と揉めている。
そんなセンセーショナルなニュースに食い付かない生徒はここには居ない。貴族学院、という看板に嘘偽りなどひとつもないのでそこに通うのは貴族位を持つ子供たちだけなのである。市井に蔓延る創作物のように平民の特待生など居ないし最低限の礼儀すら身に付いていない貴族の庶子などいくら金を積んだところで入学出来ない。させてもらえない。なんなら「目に余る」と見做されてしまえば在籍者とて追い出される。成績よりも素行の方に関する判定がとってもシビア、それが王国貴族学院。
ちなみにこれは余談だが、『何処の誰の庶子だろうが貴族としての礼儀と立場を弁えない限り絶対にここには立ち入らせないからな』という鋼の初志を貫徹するために学院長という責任者の立場を代々の王族が負うくらいにはガチガチのガチで徹底している―――――かつて財力にものを言わせて下町育ちの庶子の娘を入学させようとした成金男爵家の末路が未だに語り継がれているためか、玉の輿狙いのお花畑を送り込む馬鹿はなんかもう絶滅危惧種とかそういう扱い。
閑話休題。
とにもかくにも、貴族学院に通う生徒も教師も貴族のみで構成されている。派閥があればバランスがあり、利権が絡めば情勢が動く。要するに彼ら彼女らにとって、第二王子とその婚約者の公爵令嬢が揉めているというのは一大事なのだ。第二王子とはいえ王家と公爵家の縁談が無かったことになったら諸々変わる。解消になるだけならまだいいが、巷で流行りの婚約破棄なんてとんでもない事態にでもなってみろ―――――これ、最悪の場合この国がぱかんとふたつに割れるのでは?
そんな恐怖と懸念を抱えて見守る外野が約八割、これぞ好機と野心を燃やす残り二割程度の連中が一堂に会するエントランスで、第二王子のジョナス・ハリントンとその婚約者のブランシェットは静かに、真顔で対峙していた。
「第二王子殿下のエスコートは結構です」
ロイヤルなカップルが揉めている、と最初に判断された切っ掛けはブランシェットのこの発言で、それは説明するまでもなく婚約者への拒絶である。
ハリントン王国の国民であれば誰もが知っている『何でもない日』、その日を境にブランシェットは「足を挫いてしまったためにしばらく静養いたします」とバニスター邸に引き篭っていた。そして一ヵ月後の今日、「治ったので学院に復帰します」との報せを受けて待ち構えていた婚約者に対して開口一番これである。静養中の見舞いも本日の朝のお迎えも素気無く断られていたジョナスとしては学院のエントランスから彼女をエスコートしつつ休んでいた間の話を聞こう、と普通に手を差し出したのだけれど帰って来たのはお固い返答もとい分かり易過ぎるきっぱりとした拒絶のお返事。
そして彼女が「ジョナス様」ではなく「第二王子殿下」と他人行儀な呼び方をしていることに彼はきちんと気が付いた。そして秒速で悟った―――――ああ、ブランシェット、なんか怒ってる。
しかし思い当たる節がない。何かしたかな、と真顔のままゆっくり目を瞬くジョナスの反応を見たブランシェットの額に青筋が浮かんだ。白百合の君、の二つ名に相応しく丁寧にセットされた髪に隠れて誰からも見えはしなかったけれど、経験則でジョナスだけは己の婚約者の怒りっぷりを感じ取って更に混乱した。
「どうして」
と、彼は問う。感情の起伏に乏しい声には震えも怒りもなかったが、ただ純粋にどうしてだろうという疑問を示すには十分だった。ジョナスとしては『どうしてそんなに怒っているの?』と聞いただけに過ぎないのだが、トラブルの気配を察知して二人の様子を窺っていた野次馬各位には『どうしてエスコートを断るのか』という意味合いにしか聞こえない。十人に九人は話の流れでそういう解釈をするだろう。しないのはたった一人だけ―――――怒りの理由を聞かれているのだと正しく受け取ったブランシェット本人が婚約者を真っ直ぐに見据えて言う。
「私との『何でもない日』の約束をお忘れになったようですから」
それはかつて二人の間で交わされたささやかな約束だった。たとえこの先なにがあっても『何でもない日』のプレゼントだけは自分たちで選んだものを贈る―――――誕生日や記念日ですらない何でもない日に贈るものこそ絶対に人任せにしない。まだ十二歳の子供たちがそういう約束を結んだのは『誕生日プレゼントとかならともかく何でもない日の贈り物なんて別に適当でいいだろう』と雑に考えがちな大人たちを見てああはなるまいと頷き合ったからである。生まれながらに高貴な身としての教育が行き届いた二人であったが、バレなければいいやの精神を地で行くような不誠実さは受け入れ難いお年頃だった。
なお、別に公言してはいないのでこの取り決めを知っている人間は当人たち以外には存在しない。ふたりきりで、ふたりだけの、本当に小さな約束だった。小さいけれども六年間ずっと破られなかったものでもある。彼らはお互いをひとつ知り、何が好きで何が嫌いかをその身で覚えるその度に、プレゼントには何が良いかと悩んで選んだ一品を律儀にも贈り合い続けてきた。
そういった過去の約束から、ブランシェットは今回のプレゼントもとい『箱一杯に詰め込まれた刺繍糸』などジョナスが選ぶわけがない、との判定を下したわけなのだけども。
「………約束?」
たっぷりと数秒考えて、ジョナスはいよいよ首を傾げる。それは『約束が何のことだかさっぱり分からなくて困っている』としか見えなかったが本人的には『今回も自分でプレゼント選んだけど何か問題とかあった?』という意味合いでしかない。他の誰にも分からなくてもブランシェットにはそれが分かった。どれだけジョナスの言葉が足りず彼が単語や短文でしか会話を成立させなかろうが、彼女はそのあたりを間違えない。
さて、繰り返しになるがブランシェット・バニスターは刺繍というものが苦手である。
しかし王族の婚約者ともなれば出来ません、では許されない。せめて「嗜む程度ですわ」とか宣えるレベルでなければならない。だから努力に努力を重ねて数年間の練習の果てにようやく合格点を勝ち取ったのだ。ご指導ご鞭撻くださった王妃様も良く投げ出さずにまさかの年単位で付き合い続けてくれたと思う―――うっかり針で指を突き刺す不器用あるあるで文字通り―――血の滲む努力を続けた結果『バニスター公爵令嬢の趣味は刺繍』との誤解が広まったのは悲劇を通り越して喜劇じゃないかと本人は思っているけれど。
なにはともあれ、ジョナス・ハリントンはこれらの事実を知っていた。だから一度としてそういったものを彼から贈られたことはない。貴族令嬢への贈り物として定番化している刺繍関連の商品など糸であれ針であれ何であれジョナスが選ぶ筈がないのだ。現にこれまではそうだった。約束した『何でもない日』だけでなく誕生日も記念日も自分で選んだプレゼントを贈ってくれていたのに――――――なのに今回の『何でもない日』に受け取ったのは刺繍糸。そして横着をして他人に選ばせたプレゼントを従者経由で寄越して来たとしても「忙しくて時間が無かったごめん」と正直に白状してくれたならまあしょうがないな、で許そうと思っていたのにしかし相手から返って来たのは『今回も自分で選んだんだけどアレなんかマズかった?』みたいな反応。
「………なに?」
たっぷりと真顔で考えてもジョナスには分からなかったらしい。ちなみにこの「なに?」は『約束ってそれ何のこと?』の略ではなく『僕が自分で選んだあのプレゼントの何が君をそこまで怒らせたの?』という文言の省略に他ならないのだがそんなこと周りの野次馬は知る筈ないし分かるわけない。だが、婚約者歴六年にもなるブランシェットだけは違った。
ブランシェット・バニスターはジョナス・ハリントンのことをきちんと異性として愛している。惚れた相手のためでもなければ苦手な刺繍を血塗れになるまで頑張ったりはしなかった―――――正直あの地獄の刺繍特訓がトラウマ過ぎて刺繍糸をプレゼントされたことに過剰反応してしまったが、ジョナスの反応を見る限りなにかが致命的にズレている気がしてならない。勘違いの気配。これはもしかしなくても私の勘違いかはやとちり―――――その可能性に行き着くなり、彼女は真顔を保ったままで少しだけ声の温度を上げた。
「第二王子殿下にひとつだけお伺いしてもよろしいでしょうか」
「構わない」
「では失礼して―――――私が刺繍を施した品をお望みになりますか?」
「ならない」
刺繍を得意とする(と思われている)婚約者からのプレゼントを不要と断ずる王子。此処の遣り取りだけを切り取ったら完全に決別のワンシーンである。うわあ、と何処かから絶望的な声が聞こえた気がしたがブランシェットにはどうでも良かった。ほぼ即答で「ならない」と断定したジョナスの『だって刺繍は苦手でしょう? わざわざ君の苦手なことをさせる気にはならないよ』という真意を汲み取ったからである。すごいな。
想い慕っているがゆえの反動であのプレゼントを受け取った直後は盛大にキレ散らかしてしまったものの、これはボタンの掛け違い的な何かがあるなと判断して彼女はにっこりと微笑んだ。すみません、との気持ちを込めて、ブランシェットはいつも通りの愛情を湛えて言う。
「左様ですか。ようございました」
彼女にしてみればそれは刺繍を苦手とすることやあの日の小さな約束をジョナス様が忘れているわけではなくて良かった、との本心を口にしたに過ぎないのだが周りはそうとは思わなかった。だって『あなた頼まれても刺繍などする気になれないのでこちらとしても断ってくれて良かったです』的な嫌味にしか聞こえないんだもの。やはり破綻は確定か、とざわざわし始める野次馬たちだがどうか安心して欲しい。早まるな、それこそ酷い誤解だ。なにしろ当のジョナス本人にだけはちゃんと意味が通じている―――――何と言っても安心安定、相思相愛の仲なので。
「そうか。では―――――」
『とりあえずいろいろ話しながら歩かない?』と気を取り直して愛しの婚約者をエスコートすべく再び差し伸べられたジョナスの手を、ブランシェットがにこやかにとる―――――それだけで、ちょっとした騒動は何事も無く幕を引く筈だったのだけど。
「まあああ! ジョナス様に対してなんッと無礼な! いくら婚約者とは言えども王族にその不遜な態度は如何なものかと思いますわ、バニスター公爵令嬢!」
野次馬の輪からチャンス到来とばかりに飛び出して来た彼女、その名をキャサリン・ワトソンという。バニスター公爵家を目の敵にしているワトソン侯爵家のご息女で、憎きバニスターの女を蹴落とし王子の妻の座を射止めるなら今だとの野心が明らかな登場だった。あまりのタイミングの露骨さにブランシェットは白けたものの、取るに足らないお邪魔虫に愛しの婚約者への突撃を許すほど彼女は甘くも優しくもない。そしてそれはジョナスも同様だった。
「ジョナスと呼ぶな。許していない。控えろ、ワトソン家の娘。僕とブランシェットの間に割って入るとはそれこそ不遜だ」
当て馬なんぞはお呼びでない、と第二王子に睨まれたキャサリンは取り付く島のなさに血の気を失くし、慌ててその場で停止して申し訳ございませんと頭を下げたがもう既に遅い。だいぶ遅い。ジョナスの切り捨て対応がむしろ早過ぎる、とも言う。ちなみに周りの野次馬たちは「第二王子殿下ってあんなにたくさん喋ることあるんだ!?」と妙な方向にびっくりしていたがこれは普段からジョナスの口数が極端に少ないせいである。
愛しの君ことブランシェットにはどんなに短くても通じるからって言葉が足りない系第二王子、それがジョナス・ハリントン―――――婚約者との不仲説が度々流れる原因の九割がこの男の言葉選びのせいだが婚約解消には至っていないので何の問題もない判定。勘違いする方が悪いを貫くスタイルがストロング。仮に彼が王太子だったらこんな開き直った自由さは到底許されなかっただろうが、優秀な兄上がいて良かったとは本人の談だ。改める気ゼロ。
しかしそんなマイペース王子でも流石に羽虫に耳元を飛び回られれば鬱陶しい。遠くで喚くだけならともかく実害を及ぼす範囲に湧いたら即刻潰すとの信条で、彼はワトソン家の娘―――王族の名を気軽に呼ぶような最低限の礼儀も弁えていない者など侯爵令嬢とは呼べまい―――から片付けようと口を開きかけたところでやっぱりやめた。
「いけませんわ、ジョナス様。そのような怖いお顔をなさってはそちらの方が怯えてしまいます。きっとワトソン家のご令嬢はまだ基礎教育を学んでいる最中なのでしょう、貴族家の出身であれば十歳時点で誰もが学ぶ『婚約者でもない限りたとえ本人の許可があっても公の場で王族を名前で呼ぶことは許されない』という常識をご存じないのですもの。おそらく彼女は早熟なだけで本当はまだ十歳にも満たないに違いありません。いつの間にかこの学院に迷い込んでしまわれたのね、怖かったでしょう? お可哀想に………ここはあなたにはまだ早くてよ。どなたか、彼女をご家族のところまで連れて行って差し上げて?」
ブランシェット・バニスターこと白百合の君と讃えられる第二王子の婚約者に嫋やかな口調で容赦なく『あなたみたいな常識知らずにこの学院に通う資格があって?』と糾弾されたワトソン家のご令嬢は結論だけを言えばその日のうちに急遽、自主的に、学院を辞した。知っている者はよく知っているが貴族学院はそういったトラブルに大変敏感なのである。過去にとんでもないやらかしがあったとかなかったとか囁かれているが真偽の程は定かではない。学院の責任者が掲げているスローガンが『サーチ・アンド・デストロイ』とか囁かれたりもしているけれどもこちらについても定かではない。
「ところで愛しのブランシェット。僕は君の婚約者だろうか」
「そうですよ、愛しのジョナス様。私はあなたの婚約者です」
そしてジョナスとブランシェットは衆人環視の中で平然と寄り添って仲睦まじく会話している。何人たりとも入り込めない甘い空気がそこにはあった。ジョナスは終始真顔だったが彼の場合は表情筋が仕事を放棄しているだけだ。表情筋だけでなく運動神経の類も労働を忘れがちなのだがブランシェットと踊るときだけは気合いと根性で頑張っている。
婚約者のためなら苦手なことも努力でなんとか克服出来る、要するにお似合いの二人であった。あんまり知られていないけれども。
「………何の問題も………なかったんだよな………?」
貴族学院内を震撼させたさっきまでのあの気まずい時間は一体全体なんだったのか、ジョナスにエスコートされながら足取りも軽く去っていくブランシェットの後ろ姿を見送る生徒のひとりが呟く。たぶんそう、と同意を示して頷くその場に集った面々は、釈然としない気持ちながらも概ね平和に解散した。
***
「で、なに」
真顔のジョナスが淡々とした声で問う。突き放したような口調に聞こえるがブランシェットには分かる、これは『それで何をどうしてブランシェットはあんなに僕に怒っていたの?』というおっかなびっくりの確認だ。誤魔化そうにも誤魔化せないので彼女は素直に答えを述べた。
「その、『何でもない日』にいただいた、ジョナス様からの贈り物の―――――」
「ああ。箱」
「え」
箱? と声に出してみて、あ、と即座に理解する。ブランシェットに届けられたのは確かに刺繍糸の束の詰め合わせだが、それを収納していた『箱』は確かに好みのデザインだった。しっかりとした革張りで、小さな宝石を要所にあしらい細やかな金の装飾も見事な職人技が光る逸品。やたらめったら豪華なあれは贈り物の『糸』をおさめるための化粧箱だと思っていたが―――――ジョナス様、プレゼントって、もしかしてもしかしなくてもあの『箱』そのものだったりします?
「気に入らなかった?」
「いえ、ではなく………あの………中身は」
「………中身?」
なんのこと? と聞き返して来るジョナスの眉間に皺が寄る。そうしてたっぷり数秒考えて、彼はようやく合点がいったのか「ああ」と淡白に頷いた。
「君への贈り物に選んだあの箱、そういえば最初に開けた時は糸の束が入ってたかも。ブランシェットには要らないものだから中身を全部出してから買い付けて包装を頼んだ筈だけど………?」
流石に諸々端折らなかったジョナスにそこまで聞かされて、ようやく彼女は己の認識の誤りというか原因に気付く。
まず第一に大前提だが、王族は城下で買い物をしない。商品の方をお抱えの商人に持って来させて城で買う。手っ取り早くオチを言うならジョナスは王城に招いた商人からブランシェットが好きそうな装飾の『箱』だけを買ったつもりだったが、厳密に言えばその箱は『刺繡糸セットの容れ物』だったのだ。単品ではなくセット販売。最初から『糸』と『箱』でひとつの商品。だからこそジョナスが中身を放り出そうが商人の手により詰め直された上で贈り物としてラッピングされた、ただそれだけの、何でもない話―――――ブランシェットは顔を覆った。
私、完全に、空回り。
「ブランシェット?」
「ああああああああ」
恥ずかしい。とても恥ずかしい。婚約者が横着をしたと疑いかつての約束を忘れたと荒れ狂い我を忘れて自室でうっかり足を捻って全治一ヵ月の診断を受け学院を休むまでしたのに―――――糸じゃなくて箱の方でしたのね!? 『何でもない日』の贈り物!!!
「え、そんなに嫌だった? 箱」
「いいえ、いいえ、ジョナス様。とても素敵な箱でしたわ。入っていた糸に惑わされた私がすべて悪いのです。どうかお許しくださいまし」
「許す以前に、怒ってないよ。だから謝る必要もない。『糸』をプレゼントされたと思ったら君が怒るのは当然だもの。僕の確認不足だったね。ごめんね、そっちは捨てておいて」
「なりませんわ、ジョナス様。事情が分かった今となっては捨てることなど出来ません。もとよりあなたからの贈り物を捨てる選択肢などないのです―――――約一ヵ月の特訓の成果をお見せしますわ」
「え、ごめん」
ふんす、と意気込むブランシェットに即投げられるジョナスの謝罪。それは『悪いけど特訓したところで大して上達もしてなさそうな君の刺繍なんか要らないよ』という意味にも取れる一言だったが、彼女には『苦手な刺繍を約一ヵ月も特訓するレベルで箱の中身に思い悩んでたの? ごめんね』と正しく謝罪として伝わっていたから何の問題もなかったりする。
第二王子と公爵令嬢の関係は今日も良好だった。
読んでくれたあなた様、まことにありがとうございました!