7話 カップ麺
アパートに戻ってすぐのこと。
居間に腰を下ろし一息ついた俺に、絵舞は唐突に言った。
「そう言えば山本さん。その袋って何?」
「ん、ああこれな。これはカップ麺だ」
「カップ麺?」
「ああ。橋の下に保管してたんだが、毛布とかと一緒に押収されそうになってな。全力で回収してきた」
答えると、何やら絵舞は四つん這いになり、とてとてと距離を詰めてきた。そして見るからに興味津々そうに、カップ麺が入った袋を覗き込んだ。
「結構色々あるね。カップ麺好きなの?」
「まあ、嫁にしたいくらいには」
「めちゃ好きじゃん!」
ケタケタと笑ったかと思えば。何やら急に真顔になり時計の方をちらっと見た。そしてスリスリとわざとらしくお腹をさすっては。
「そういえば、お昼まだだね」
「まあ、そうだな」
「もう一時だし、さすがにお腹空いたよね」
「そりゃあ一時だしな」
じ————っと。
カップ麺に熱い視線を送る絵舞。
その目はまるで、獲物を狙う水鳥のようだ。
「いいなーカップ麺。久しぶりに食べたいなー」
「んん……」
どうやらこれは、腹が減ったから一つよこせということらしい。そんな遠回しにねだらなくとも、欲しいなら欲しいで、初めから素直に言えばいいのに。
「ほら、好きなの選べよ」
「やった!」
俺が袋を広げると、絵舞はパッと表情を綻ばせ、飛びつくように袋の中を弄り始める。ガサガサと音を立てながら、しばらくカップ麺を選別し手に取ったのは。
「私これにするー」
「お、おう。なかなか見る目あるなお前」
まさかまさかの、残り一つだったカレー味のカップ麺。
予期せぬ事態に俺の心の余裕は、確かな焦りに変わる。
「ん? どうかした?」
「な、何がだ……?」
小首を傾げる絵舞を前に、俺はごくりと息を飲む。
「もしかしてこれ、選んじゃダメなやつだったかな」
「ぜ、全然そんなことはないぞぅ? 好きなの選べって言ったしなぁ?」
「そう? ならよかったんだけど」
なんて強がってみたのはいいが。
正直に言えば今すぐにでも泣きたい気分だ。
いつか食べようかと残していた唯一の大好物を、まさかこんな形で失うことになるなんて。食えないなら、我慢せずに食っとけばよかったな……。
「……じゃあ俺はこれにするかな」
仕方なく俺はシーフード味を手に取る。
本当はカレーがよかったとはいえ、それを口に出すのは野暮というもの。これから絵舞には少なからずお世話になるわけだ。せめてこれくらいはしておかないと。
「ちょっと待っててね。今お湯沸かすから」
「おう。さんきゅーな」
そう言うと絵舞は台所へ。お湯を沸かしてくれている間に、俺は美味しく食べるための前準備をして、お湯の到着を待つ。
「はい、山本さん。火傷しないようにね」
「お、おう」
あっという間にお湯を沸かし戻ってきた絵舞の手には、やかん……ではなく、見慣れない白くて小さいポットのような、謎の機械が。
「なんだよこれ」
「何って、電気ケトルだけど」
「電気ケトル?」
なんだよその脱毛できそうな名前の機械は。
最近はやかんじゃなく、これを使って湯を沸かすのが主流なのか?
「ん、なんだこれ、全然お湯出ねぇぞ」
「あ、それ。上のボタン押さないと出ないよ」
「あ、そう……っすか」
もたついていると、絵舞は横から冷静にボタンを押した。若干の恥ずかしさを覚えながら再度傾けると、今度は勢いよくカップ目掛けてお湯が放出された。
線の位置までお湯が入ったところで、付属のシールで蓋をする。
そして3分待つわけだが。2分ほど経ったところで、俺よりも後にお湯を入れたはずの絵舞は、めりめりっと蓋を剥がし、熱々の麺を食べ始めていた。
「ん、うまっ」
必然のごとく溢れるその至福の声。
箸で持ち上げた麺がごわごわなのからして。
どうやら絵舞は、通常よりも硬めが好みらしいな。
「そろそろ3分経ったんじゃない?」
「いや、まだ30秒ある」
「細かいね」
ずるずるずるっと。
目の前で随分と美味そうに食いやがる。
これにはフライングしたい欲望に駆られたが。
表記時間通りで食べるのが至高なので、何とか堪える。
「よしっ、3分」
やがて3分きっかりで、慎重に蓋を開けた。
するとシーフードの良い香りがふわっと鼻を抜け、俺の食欲を刺激する。
「いただきます」
その香りに誘われるように箸で麺を持ち上げ。
数回息を吹きかけた後、ずるずるっと口の中へと招き入れた。
「うまっ」
思わず声が漏れてしまうほどの美味さ。
やはりカップ麺は、人類史上最高傑作と言っても過言ではない。
これほど美味い食い物が他にあるだろうか。
カレー推しだったが、こりゃシーフードも捨てたもんじゃないな。
「そういえばさ」
「……ん」
俺がカップ麺に夢中になっていると。
不意に絵舞は箸を止め、啜り途中の俺に目を向けた。
「一つ訊いてもいい?」
「どうしたよいきなり」
「前から気になってたんだけど、山本さんって歳いくつなの?」
「歳?」
「うん」
何を訊かれるかと思えば、歳だって?
「今年で29になったけど」
「おお、思ったよりも上だった」
すると絵舞は、両手の指で何かを数え始める。
「11……12……じゃあ私とは12歳差か」
「いやお前……具体的な数字出さんでくれよ」
「あ、ごめん。もしかして気にしてた?」
「別に気にしてるわけじゃないが、なんかな……」
悪気なく微笑む絵舞に、俺は嘆息し細い目を向けた。
今まではあまり意識していなかったが、やっぱり俺と絵舞では、思っていた以上に歳が離れてるんだな。12歳差とか、干支が一周回っちまってるじゃねぇか。
「いいな、お前はまだ若くて」
「全然だよ。最近たまに腰とか痛くなる時あるし」
「それで若さを測るなら、俺は間違いなくじじいだよ」
今だ老いを知らない絵舞を横目に、俺は麺を啜る。
「そういえば山本さんは、なんであんなに凄い編集ができるの?」
「凄いかどうかはわからんが、昔その手の仕事をしてたからだな」
「へぇー! それってテレビ局とか?」
「いや、ちっさい広告代理会社だ。俺はそこでCMとか作ってた」
「てことはやっぱりプロじゃん!」
よいしょする絵舞に、俺はやれやれと頬を掻いた。前にも言ったが、俺はプロと呼ばれるほど大した技術者じゃない。
俺が前に勤めていた会社は、一部地域でしか流れないローカルなCMを作るだけの、とても小さな広告代理会社だった。
それこそテレビ局なんかと比べたら、社員の数は天と地の差。それでいて常に不安定な経営の上に立たされていたせいで、社内の雰囲気は殺伐としていた。
「俺はただその仕事に就いてたってだけだ。プロを名乗れるほど優秀じゃない」
多少は編集に関しての知識や技術はあるにしろ、面と向かってプロだの何だの言われるのは、その手のエキスパートに申し訳ない気がしてならない。
ちょっと編集のできる素人。
俺に対しての評価などそれぐらいで十分だ。
「それよりお前こそ、どうしてYouTubeなんて始めたんだよ」
「んー、何でだろう。成り行き?」
「成り行きって……それで成功するんだからすげぇよな」
「私なんて全然だよ。ただ胸とかお尻出してるだけだし」
「いや、お前がそれ言っちゃうのかよ……」
天狗にならないのは良いことだが。
お前だけは自分のスタイルに自信を持たなきゃならんだろ。
「山本さんは、その会社が潰れちゃったからホームレスになったってこと?」
「まあ、他にもいくつか理由はあるが。一番でかい理由はそれだな」
「そっか。色々と大変だったんだね」
そう言うと絵舞は、箸を置いて俺のすぐ隣に。
いきなり何をされるのかと身構えれば。
「私が慰めてあげよっか」
優しく微笑み、俺の頭にポンと手を乗せた。
その際大きく空いた襟元から、薄桃色のブラ紐がチラついた。
「お、おい、いきなりなんだよ……」
「いいから、このままじっとしてて」
まるで母親が子供をあやすかのような。
そんな優しい口調で、何度も何度もこう囁いた。
「大変だったね。でももう大丈夫だよ」
ボサボサの髪越しに、絵舞の手の温もりが伝わるこの感覚。
ただ撫でられているだけのはずなのに。
どうしてだろう、妙に懐かしさを感じる一時に思えた。
「頑張ったんだね。えらいえらい」
俺は今、一体何をされてるんだ?
29にもなって女子高生に頭を撫でられるとか。
しかも、何でちょっといい気分になってんだよ。
「い、いい加減にしろ……!」
危うく現状に取り込まれそうになり、俺は慌てて絵舞から身を引いた。すると何が面白かったのか、絵舞は肩を揺らしケタケタと笑う。
「もぉー、山本さんは照れ屋さんだね」
「う、うっせ。お前こそいきなり変なことすんなよ」
「変なことなんてしてないよ。ただ頭なでなでしてあげただけじゃん」
「それがいらんお節介だって言ってんだ」
こんな小汚いおっさんのボサボサな髪を、よくもまあ躊躇なく触れるもんだ。昨夜シャワーを浴びたばかりとはいえ、女子なら触ろうとしないだろ普通。
「はぁ……何度も訊くが、どうしてお前はそこまで俺に寛容になれる」
「え、今更そんなこと訊いてどうしたの? まさかまた自信なくなっちゃった?」
「そうじゃねぇよ。純粋な興味だ」
訊けば「んー」と喉を鳴らし思案顔を浮かべる。
「山本さんと一緒にいると楽しいからかな」
「それだけかよ」
「うん、それだけ」
あまりの単純な答えに、俺は小さくため息を吐いた。
それと同時に。
「じゃあこれからもどうか優しく丁重に頼むよ」
「うん、もちろん」
絵舞の心の綺麗さ、人を見た目や立場で判断しない人間性。こんな自分を受け入れてくれる心の広さには、正直なところホッとしてしまった。
曇り一つもない絵舞の柔らかな笑顔に微笑みを返し。
俺は少し冷めてしまったシーフード味のスープを啜った。