2話 パンツ
「ヤダ」
「はっ」
俺の覚悟を全て白紙にするような一言が、背後から飛んで来る。振り返ればそこには腕を組み、威厳のある顔で俺を睨む絵舞が。
「そもそも私は独りが好きなぼっち族だし。友達作れとか余計なお世話だし。ここに来てるのだって、山本さんと話すのが楽しいから来てるんだし」
「いや……だからそれは」
「将来のためー、とか、価値あるにんげーん、とか、そんな難しいこと関係ないじゃん。私が好きでこうしてるのに、随分と勝手なこと言ってくれちゃうよね!」
絵舞はフンとそっぽを向いた。
そしてフグのように頬を膨らませる。
「てか山本さんも、私と一緒に居る時まあまあ楽しんでるくせに」
「た、楽しんでる⁉︎ 俺が⁉︎」
「そうだよ! だって最近の山本さん、話してる時ずっと笑顔だもん!」
自覚がなかった部分を突かれ、俺は返す言葉もなく押し黙る。
そりゃ絵舞との時間は、俺にとっても悪くないものだったが、むしろ充実していたが……だからってそれを表に出していたつもりはないし、ましてや笑顔だなんて。
「それは本当に俺なのか……?」
「何言ってるの。山本さんに決まってるじゃん」
呆れたように絵舞は言うが、笑顔なんてガキの頃以来縁のないものだとばかり思っていた。まさか落ちぶれたこの状況で、まだ俺に笑う気力が残っていたとは。
「それにね、私も山本さんと同じようなものだよ」
「同じ? 俺とお前が?」
「うん。私さ、一人暮らししてるって言ったじゃん? 実は高校に進学するのをきっかけに実家を出たきり、家族とは一回も会ってないんだよね」
真剣に、だが僅かに微笑みながら絵舞は続ける。
「今の私には家族もいないし、友達もいない。だから私も今住んでるアパートがなかったら、ホームレスみたいなものなんだよ。山本さんの側に頼れる人がいなかったみたいに、私だってこの一年ずっと独りぼっちだったんだから」
自分の側に誰もいない、家族と離れ離れで暮らしている。それは確かに心細いことだが、だからと言ってホームレスの俺とこの子が同じとは思えない。
「でも、お前には帰れる家があるだろ」
「家なんて形だけだよ。帰ってもそこには何もないんだから」
「何もないなんてこと……」
否定したがっていた俺の口は、まるで電池が切れたかのように固まった。絵舞が吐いたその一言に、隠そうにも隠し切れない既視感を感じてしまったから。
「お前も独りが寂しいとか思ったりするのか」
「まあ人並みにはね。私の場合はもう慣れちゃったけどね」
家に帰っても何もない、誰もいない。
その虚しさは俺も嫌という程経験したからわかる。
玄関を開けば一面に広がる、おかえりのない真っ暗な世界。まるで自分以外の全てが消え失せたかのようなあの虚無感は、人としての何かを容赦無く蝕もうとする。
『家に帰ってもそこには何もないんだから』
普通ではまず覚えることのない、絵舞が迷いなく吐いたその言葉からは、まるで吐息のような冷たさを感じた。
家族と離れて暮らしていることといい。
自分には友達がいないと公言したことといい。
もしかするとこの子はあの頃の俺のように、救いを求めているのかもしれない。だとするならこのまま絵舞を家に帰すことが、本当にこの子の為になるのだろうか。
「だから山本さんの言うことは訊きませーん」
一度決めたはずの覚悟が揺らいでいる最中、真剣に頭を悩ませている俺とは裏腹に、絵舞はそっぽを向きながらそう言った。
そりゃ俺だって出来ることならこの子の望むようにしてあげたいし、許されるのならまたこうして話をしたいが。だからと言って執拗にこの関係を続けるのも……。
「そうだ!」
中々結論を出せずにいると、何やら絵舞は『パチン!』と軽快に手を鳴らし、不貞腐れていたはずの表情を綻ばせた。
「いいこと思いついた!」
「いいこと?」
「そう! 私たちのこれからについて!」
いきなり何事かと思えば。
俺たちの今後についてだって?
「言っとくが、俺は何を言われようが——」
「いっそのこと二人で住んじゃえばいいんだよ!」
「……は?」
今何かとんでもないことが聞こえた気がするが。
「二人で住むって、誰と誰が」
「それは私と山本さんに決まってるじゃん!」
にひひと笑う絵舞を前に、俺は開いた口が塞がらなかった。
* * *
「すまん、服まで借りちまって」
「いいよいいよ! サイズとか大丈夫?」
「ああ、丈はちょっと短いけどな」
結局俺は絵舞の提案を断りきれず。
「とりあえず夕飯だけでも食べに来なよ!」という悪魔の囁きにまんまと釣られる形で、絵舞の家にお邪魔することになってしまった。
招かれたとはいえ、独り暮らしの女子高生の家に上り込むというのは、法的に見てもかなりギリギリのラインであることは、間違いないわけで。
初めこそ少しお邪魔したらすぐに帰るつもりでいたのだが、どこまでも親切な絵舞に言われるがまま、俺は温かいお風呂を頂戴することに。
するとその間に脱いだ服を洗濯してくれたらしく、浴室から出れば綺麗に畳まれた着替えが用意されていた。
「それよりお風呂どうだった?」
「そうだな。独り暮らしの割には随分と立派だなと思った」
「そうじゃなくて! ちゃんとリラックスできた?」
食い気味に訊いてくる絵舞に対し、俺は「お陰様でな」と大きく頷く。ホームレスの俺にここまで親切になれるなんて、この子の優しさは底なしなのか?
「ところでさ、絵舞」
「うん?」
「一つ聞きたいんだが」
気が乗り切らないとはいえ、ここまで親切な待遇には感謝しかない。が、俺にはどうしても確認しておかなければならないことが一つ。
「俺のパンツって、もしかしてだけど洗濯中か?」
「……あっ!」
訊いた途端、絵舞は大きく肩を弾ませ目を見開いた。
そして見るからに慌てた口調で。
「さっき服と一緒に洗濯機に入れちゃった!」
「やっぱりか……」
何ともベタなセリフに苦笑いするほかない。
いくら探しても見当たらないなと思っていたら、やはり間違えて服と一緒に洗濯してしまったらしい。そのお陰で俺は今、絶賛ノーパン状態である。
「まだ間に合うかも!」
淡い期待を溢し、絵舞は急いで洗濯機を止めに向かったが、取り出したパンツは当然ビショビショ。これでは乾くまでに相当時間が掛かりそうだ。
「ごめん……すぐ乾かすから」
「いやいいよ。むしろ俺の方がすまん」
風呂に洗濯、それに加えて着替えまで借りている身で、これ以上余計な手間をかけるわけにもいかない。パンツは後で俺が乾かすとして、問題はそれ以外にあった。
「ズボンって、どうしたらいい」
「ズボン?」
「ほら、俺って今パンツ履いてないだろ」
風呂場で念入りに洗ったとはいえ、家族でもない見知らぬおっさんの股間が、女子高生から借りた大切な部屋着に当たってしまっている状態なわけだ。
「やっぱり嫌だよな、こういうの」
履かない選択肢も一瞬脳裏を過ぎったが、流石にそういうわけにもいかず。出来るだけ前のスペースを保ちつつ、一旦は履かせていただくことにしたのだが。
やはり普通に考えてこのままではまずい。軽く悲鳴を上げられてもおかしくない状況だろう。だからこそ俺は正直に現状の危うさを自白した。
つもりだったのだが……。
「うーん、そしたら私のパンツ履く?」
「……はい?」
絵舞から出たのは悲鳴でもなければ罵倒でもなく。
一瞬耳を疑うようなとんでも発言だった。
「ちょっと待っててね。今良さそうなの見つけるから」
そう言うと絵舞は洗面所を出て居間の方へ。
こちらが困惑していることなど知る由もなく、平然と棚を漁り始めた。
そんな彼女の後ろ姿からは一切の迷いを感じない。
あれはマジで俺に合うパンツを探してる背中だ。
「ちょ、ちょっと待て絵舞」
「うん? どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないだろ。なんで平然とパンツ選んでんだよ」
「なんでって、このままだと山本さんがノーパンのままでしょ?」
「だからって、パンツまで借りるのはおかしいだろ」
慌てて止めるも、振り返った絵舞は何のことかいまいちわかっていない様子だった。うっかりパンツを洗濯したことといい、もしかするとこの子……。
「私そんなに派手なの持ってないし、大丈夫だと思うけど」
このズレた発言からしておそらくはそう。今までは全く気が付かなかったが、どうやら絵舞には少しばかり『天然』が混じっているらしい。
「ほら、これとか山本さんでも履けそうでしょ?」
言ってるそばから純白の下着を大っぴらに掲げてみせる絵舞。羞恥心のカケラも無いその奇行には、俺も呆れて頭を抱えるしかない。
「履けるはずないだろ……」
「そうかな。山本さん細いしいけると思うけど」
「そういうことじゃねぇよ……いいから早くしまってくれ」
力なく俺が言うと「良いと思ったんだけどなぁ」なんて、絵舞は残念そうにぼやいていた。この感じからして、絵舞の天然説は割とマジっぽい。
普段は明るくて、周りの気遣いも出来るしっかりした子のはずなのだが……一体どこでこんな残念な部分を覚えてしまったのやら。
純粋なのはもちろんいいことだが、どうせなら「キモい」だの「ありえない」だの、今時の若者らしく罵ってくれた方が、よっぽど安心できた気がする。
「悪いがもう少しこのままで居させてくれ」
「山本さんがそれで良いならいいけど」
とはいえ、俺にとやかく言う資格もない。
出来ることがあるとすれば、この子が天然を自覚しないように、上手いこと話を合わせてやることくらいだ。
まあこの様子なら当分気づくことはないだろうけど。
「パンツ乾かしたいから、少しの間ドライヤー借りるぞ」
「うん。そしたら今のうちに晩御飯の支度しておくね」
そう言って俺は洗面所に戻った。