僕に優しくない世界
彼は、満月が美しい夜、僕に電話を掛けた直後に夜景へと身を躍らせた。
それはまるで、眩しい人工の光に吸い寄せられる蛾のようだと思った。けれど、滑稽である癖に何処か刹那的だと見るものに思わせるその光景を人間の身で表現するのは、少々無理がある。だから彼は瞬間的に美しさを表現出来ても、芸術作品として完成させる事が出来なかったのだろう。
「残念でならないね」
彼の最後の芸術作品をこの目で拝めない事がどんなに悔しいか、彼は分かっていて実行に移したのだろうか。
だとしたら、彼は最後まで人を揶揄うスタイルを貫き通した、根っからの表現者だ。
「御手洗さん、固まっていますが」
背後から声が掛かって、僕は慌てて筆をカンバスから離した。危ない危ない、色むらが出来てしまうところだった。
後ろを振り返ると、そこにはうら若い女性が立っていた。
例えるなら青葉の如く、春風の如く。草木が芽吹く季節に産まれたらしい彼女は、まるで春を司る神に祝福されこの世に生まれ出でた様に、その容姿や性格すらも温かな雰囲気を漂わせている。
桐島蝶子、僕の彼女だ。……と言っても最近付き合ったばかりなので、「画家の卵なんて」といつ愛想をつかされないか、毎日冷や冷やしている。彼女持ちであると胸を張れない僕は、蝶子さんが言う通りの心配性なのだろう。
「いらっしゃい。インターホンを鳴らすなりドアを叩くなりしてくれればいいのに」
苦笑いを交えて言うと、彼女は僅かに口元を崩し、苦笑を浮かべた。
そんな些細な仕草すら、絵にしたくなる程に美しい。
「散々鳴らしましたし、五月蝿い程に叩きました。集中してる時は音に全く気付かないんですよ、御手洗さんは」
……そうなのか? 自分で気が付かないぐらい、定着してしまった癖なのだろうか。でも、気づいたら背後に人が立っていた、とか本当に吃驚するからご遠慮願いたい。
「筆が止まっていたという事は、創作活動に没頭していたという訳では無いですよね。考え事ですか?」
蝶子さんの澄んだ瞳が、僕の瞳とぶつかる。思わず視線を逸らしてしまった。
彼女の視線を受け止めると途端に心臓が暴れ出してしまうので、予防策だ。
視線を逸らす代わり、右手に持った絵筆を再びカンバスに向ける。深い深い闇を描き始める。
「……谷野の事を、考えていた」
そう告げると、彼女は「やっぱり」という顔で僕の手元から顔へと視線を移す。
蝶子さんは谷野と面識があった。といっても、つい最近出逢ったばかりで、ほぼ初対面に近い間柄だったが。
「谷野さんは、才能に溢れた方です。飛び降りるべきでは無かったと……私はそう思います。御手洗さんと違ってろくに面識が無い私がこんなこと言うのは、酷いことなのかもしれませんが……」
蝶子さんは、辛い表情をしていた。心の傷を分かち合おうとしてくれているのかもしれない。
こういう風に優しさを表せる彼女の事を、僕は愛おしく思っていた。それなのに、生来の捻くれ者の口は勝手に言葉を並べ立てる。
「きっと谷野は、自分の肉体や魂、未来すらも作品の材料にして、最高の芸術を作り上げようとしたんだ。だから、悲しむなんてもってのほかだ。『彼の生涯を注ぎ込んだ作品をお目に掛かれなくて残念だ』と、悔やんでやるべきなんだ」
彼女はまた僅かに口元を歪めた。逃避のような僕の思考が、愚かに思えるのだろう。確かに、自分の事ながら少し、馬鹿だと思う。
「だから僕は悔やんでいる。谷野が最後に遺した作品が、刹那的なものでは無く形に残るものだったとしたら。その作品を、幾ら出しても買ってやれたのに。思い出を其処に宿らせる事が出来たのに、って」
溜息がカンバスの表面を撫ぜる。
ボロアパートに住んでいる身分で「幾ら出しても構わない」なんて少しも格好が付かないかもしれないが、この部屋にある物を質屋に売り付ければ多少の金は捻り出せる筈だし、例え一人で暮らしていく事が出来なくなって実家に泣き付く羽目になっても、僕は後悔しないつもりだ。そのぐらい本気だった。
その覚悟は、最初から必要の無いものだったが。
「多分谷野さんも、同じ立場だったら御手洗さんと同じことを思ったでしょうね」
素敵な関係です、と小声で蝶子さんは呟いた。
口の端は僅かに上がっていたが、目だけが何処か寂しげに揺れていた。
「ああ、恐らくそうだろうな。そして僕も、谷野と同じく最後の作品はカンバスなんかで表現しないだろう。人間という生き物は何よりも複雑怪奇で、だからこそ魅力的なんだからな」
それを聞いた蝶子さんは嫌そうに眉と口をぎゅっと歪める。
反応の予想はしてたが、まさか表情まで想像と寸分違わないとは思わなかった。一応画家の卵として日々創作活動に没頭しているだけあって、想像力は鍛えられているのだろうか?
それとも単に、彼女の事をよく見ているせいか?
そう考えると、彼女の事を誰よりも知っているように思えて優越感がじわじわと侵食してきた。
無意識ににやけていたようで、蝶子さんは目線を鋭くする。こういう時の彼女はやたらおっかない事を僕は知っていた。だからこそ、頭が上がらない。
最も無理難題を押し付けて彼氏を困らせるような我侭は決して言わないから、尻に敷かれている訳ではない。……と思う。
「なにニヤニヤしてるんですか御手洗さん。ネクロフィリアだったんですか? それとも変態ですか?」
「彼氏を睨み付けてネクロフィリアだとか変態だとか言うなよ。傷つくなあ」
腕を組んで溜息と共に溢したら、蔑むような視線が返ってきた。何故だ、理解出来ない。女性の思考回路は人体の構造の次に不可解だ。
「とにかく、彼女の目の前で自殺の話はしないで下さい! 彼女以外の人にもですからね。というか、そんな話題を持ってくるのは自殺志願者くらいですよ」
「今時の自殺志願者はネットで死にたいとぼやいているんだよ?」
別に間違った事は言っていない筈なのに、また睨まれた。
「話の腰を折らないで下さいってば!」
「……はい」
僕が悪かったのだろうと中途半端に納得して、彼女に向けていた集中力をカンバスへ移す。今日はなんだか筆が乗らない。集中力が散漫なのは蝶子さんのせいだと、八つ当たりで責任転嫁しておく。
「……とにかく。私が心配している事が一ミリも伝わっていないみたいなので、口で言います」
ぶっきらぼうな口調と不機嫌な表情で、彼女は続けた。
「私は御手洗さんがある日突然首を括るか高所から飛び降りるかで死んじゃうんじゃないかって心配をしています。その心配は高確率で当たっていると予想しています。私は芸術家と人は別の存在だとは思っていません。人はお遊びで死のうとは思わない筈です。それが仕事でも同じでしょう。だから谷野さんの死は芸――……」
蝶子さんは慌てて口をつぐんだ。
まずい事を言ってしまった、という表情をしていた。
「続けて」
そう言った自身の声は平坦で、自分のものじゃない声が喉から漏れたように思えた。
蝶子さんの目線は泳ぎ、くぐもったうめき声と「でも……」という困惑した呟きがか細く響く。
僕はもう一度同じ事を言った。
「続けて」
彼女は、おそるおそるといった様子で続きを口にした。
「……だから、谷野さんの死は、芸術作品なんかじゃなくて……単なる、苦しみから逃れる為の……逃避、なんですよ。御手洗さん」
――とうひ?
「逃避なんです。彼は、中々自分の名が売れない事に嘆いて……理想と現実のギャップに苦しんで、身を投げ出してしまったんです。そして」
彷徨っていた瞳は、今はっきりと鮮明に映し出していた。
酷く情けない顔をしているであろう、僕を。
「御手洗さん。貴方も、事実を認められなくて逃避しているんです。あれは自殺なんかじゃなく、『作品』だったと」
「いい加減認めて下さい」と、その眼が語っていた。
目は口ほどに物を言う、ね。なるほど。
……なるほど。
「僕がそれを認めたからって何になる? 良いだろう、理由ぐらい捏造したってさ。語る奴はとっくに死んでいるんだから、文句なんて誰も言わないだろ?」
「いいえ、御手洗さん」
彼女の静かな瞳が僕に固定されている。
ビー玉めいた、内も外も全て見透かす瞳。
「貴方は肝心なところに気付いていないから、そんな事が言えるんです」
人のものとは思えないぐらいの。
人形のような。
「周りをよく見渡して下さい、御手洗さん」
周り?
視線を左右と彷徨わせて、辺りを見渡す。
アパートの狭い一室に無理に設けた、油絵の具や筆などの画材とイーゼルを押し込んだだけの、質素なアトリエ。
見慣れた小さくボロいアトリエは、どう見てもボロいままで僕の周りを取り囲んでいる。
「此処は何の部屋ですか?」
「何を言い出すかと思えば。僕の住処でありアトリエだろう、此処は。どうしたというんだ一体?」
しかし蝶子さんの瞳はビー玉のままで見透かす。
僕の問いに答えることなく、『何か』を透かして僕に見せる。
「どこに生活用品が置かれているんですか? どこにお風呂場やトイレがあるんですか? どこにベランダがあるんですか?」
蝶子さんに言われるがまま、再び辺りを見渡す。
すると――……。
「…………なんだ、此処は…………」
いつの間にか取り囲む景色は、変わっていた。
清潔感のある白い壁。白いベッド。その横には小さな椅子。収納棚に、テレビ。それだけしか無い部屋だった。
蝶子さんは無表情のまま、先ほどと同じ言葉を溢す。
「ここは何の部屋ですか?」
僕の住居には存在しない筈の部屋。
およそ生活感の無い部屋。
馴染みの無い、けれども『見知っている筈の』部屋。
「この部屋は、本当に、貴方が住んでいたアパートのものなのでしょうか? 分かりますか、御手洗さん」
アパートのものよりも高い天井。
でかいベッド。
これは個人が所有する部屋じゃない。
僕の部屋じゃ、ない。
……病室だ。
病院の、病室だ。
「……何で僕……病院なんかに……?」
「貴方が今まで現実から逃げていたからですよ。周りは貴方がおかしくなったと、ここに連れて来たのです」
カンバスだと思っていたものは、画用紙になり。
握り締めた絵筆は、黒のクレヨンになる。
「お帰りなさい。やっと元の時間が戻って、よかった」
だけど彼女だけは、蝶子さんだけは、いつもの見知った温かい笑顔でいてくれた。
彼女だけは。
僕を、待っていてくれたんだ。
「――……ただいま。蝶子さん」
彼女は笑顔を残したまま、風船のように弾けた。
END.
結構前に書いたもので、『泡沫』という言葉のイメージを膨らませて書いた作品です。
受け取り手によって変化する物語にしたかったので、終わりはあえて曖昧にしています。