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現代もの短編

春風スウィング

作者: 森陰 五十鈴

「お前、歌うまいな!」


 土曜日の正午すぎ。特別講義の帰り道。斜面に白詰草の敷き詰められた河川敷を一人歩いていると、背後から突然声を掛けられた。佐保の心臓は大きく跳ねた。理由は、大声だった事が一つ。暖かな陽気につい口ずさんでいた歌を聴かれていたことも一つ。そして――その声に心当たりがあったことが、一つ。

 逃げ出したい気持ちに駆られるのをなんとか押さえつけ、恐る恐る振り返ると、そこには思った通りの姿。跳ねた髪と、据わったような悪印象な目付きと、着崩した学ラン。第二ボタンまで開いた下には、大きな英字のロゴ入りTシャツ。

 佐保より頭半分高いところから見下ろすその人は、小瀧裕幸(ひろゆき)。この春同じ高校二年生になった、違うクラスの男の子だ。


「それ、あれだろ? タイトル忘れたけど、ジャズ! 詳しいのか?」


 第一印象でまず悪い評価を受けるだろう人相を崩し、ハスキーな声を張り上げながら、裕幸は佐保に詰め寄る。その目がキラキラと輝いているものだから、()()()をすることはないのだが、異性どころか同性にも馴れない佐保はやはり気圧されてしまい、一歩後ろに下がってしまった。


「え、ええ。まあ……齧った程度ですが」

「マジか! うわースッゲェ予想外!」


 なんとか返事をするが、目の前の彼は緊張した佐保の様子に気付くことなく、子どものようにはしゃいでいる。胸の前で拳を握ってガッツポーズのような格好で自らの興奮を表現したあと、両手を佐保の両肩に置いた。


「なあなあ、お前、バンドに興味ねぇ!?」

「…………え?」


 密着と言えるレベルでの接近と、突然の展開に頭を真っ白にさせた佐保に、裕幸は男女の適切な距離を大きく踏み越えて、さらに詰め寄った。


「俺たちと一緒に歌わないかって言ってるんだよ!」

「え? ええっ?」



  ♭ ♭ ♭



 牧野佐保が、小瀧裕幸を知ったのは、実は結構早い時期。高校一年の五月のことだった。新生活一月も経てば、同じ日常を過ごす同級生(なかま)のこともよく分かってくる。男子は気の合う仲間を見つけ、女子はグループができてくる。

 佐保は、その中で溢れてしまった人間の一人だった。

 三編みお下げ姿に黒縁眼鏡。引っ込み思案で内向的。趣味は読書、それも古典文学。テレビは仕方なく付いてるニュースしか見ないし、兄弟がいないこともあってかゲームには触れたこともない。

 自分から話しかけることは滅多になく、キラキラしたものや楽しいことに縁がないものだから、クラスメイトと話題も合わず、そのまま孤立してしまった。

 同じ中学の友達は、みんな別の高校に行ってしまった。

 内向的な性格の所為で、部活動も選ばなかった。

 虐められてはいない。無視されることもない。ただ、当たり障りのない態度で接せられるだけ。同じ年齢の赤の他人。それが、高校における牧野佐保のポジション。

 自分にも悪い部分はあることを自覚してはいたので仕方ないとは思いつつ、でもやはり寂しいものは寂しかった。空き時間で本をたくさん読めるじゃないか、と自分を必死でごまかそうとしたが、胸にぽっかり穴が空いてしまったような気分をいつも抱えていた。


 そんなときに見かけたのが、当時隣のクラスだった、裕幸だ。


 確か、四限目終了後のお昼休みのことだった。移動教室から戻る途中の廊下で、外のベンチに腰掛ける彼を見つけたのだ。小さなコンビニのビニール袋をぶら提げ、男の子の食事とは思えない、小さなパン一つだけを食べていた彼は、たった一人でぼんやりとしていた。表面上はなんでもないような顔をしていたが、そこになにやら鬱屈としたものも感じて、つい見入ってしまった。

 彼は、目付きと言動の悪さの所為で、不良と見なされ嫌厭されていた。きっと教室の居心地が悪くて、こんなところにいるのだろう、と思った。

 そうすると、なんだか親近感が沸いてきたのだ。自分と同じ――勝手にそう感じた。


 それから、ことあるごとに彼を視線で追った。さりげなくいじめ現場に割って入って止めさせたり、落とし物をしたクラスメイトの探し物を手伝ってあげたりするところを見て、不良どころか実は優しい人であることも知った。


 休み時間の度に廊下や窓の外にその姿を探し、見つけると少しだけ浮かれる、なんてことを繰り返し続けた一学期。


 彼が急に変わったのは、夏休み明けのことだった。物憂げな表情が、急に生き生きと輝きはじめた。隣には気弱そうな線の細い男の子が一人。端から見れば〝不良とパシリ〟の組み合わせだが、きちんと友人であるらしく、裕幸もその男の子も楽しそうに話をする姿を見るようになった。

 どうしたのだろう、と思ってさりげなく後を追ってみると、どうやら音楽を始めたらしい。放課後、そのお友だちと一緒に行った部活棟で、トランペットを持っているのを見つけた。

 聴こえてきたのは、ジャズのハーモニー。

 繊細で巧みな電子ピアノと、大胆で情熱的なアルトサックスと、地に響いて安定感のあるコントラバスのセッションに被さる、朗々としたトランペットのメロディ。

 彼の心境の変化を表したようなその音がなんだか羨ましく、これまでに見たことのない姿に嫉妬し、溌剌とした様子に憧れて。


 気付けばCDショップに足を向けていた。良く分からなかったので、ジャケットと帯とタイトルを見て適当に何枚かを持ち帰り、聴いてみた。

 珍しくはないけれど、クラシックやポップスに比べれば、真剣に聴く機会のない、その独特なリズムに酔いしれて。

 なんとなく裕幸の気分を共有した気になって。

 それから、無邪気な表情を見せるようになった彼を密かに目で追う日々が続いて。


 ――そこで、終わると思っていたはずなのに。



  ♯ ♯ ♯



 月曜に練習あるから来てくれよ、と熱心にせがむ裕幸に、気後れを感じていた佐保は、結局最後に折れてしまった。なんといっても憧れの相手。本気で誘ってくれていると判れば、断れるはずもないのである。


 しかし、その月曜日。麗らかな日差しの下で校内の部活棟の建つ区域に入った佐保は、ある事実に気がついて立ち竦み、汗を掻くこととなった。

 裕幸の演奏仲間は、男ばかりなのである。

 その中に飛び込むのだ。やましい話であるはずはないと分かっていても、異性と接する機会のない佐保には難しいを通り越し、恐怖すら覚える所業である。

 安易に約束した後悔が、怒濤のように押し寄せた。

 帰ろうか、とも思い。でもなにも連絡せずに約束を反古にするのも躊躇われ、微風に汗を冷やして蒼白な顔で身動き取れなくなっていたところを助けてくれたのは――あろうことか、裕幸の友人だった。

 三上(あきら)という名の彼は、緊張で舌の回らない佐保から根気よく事情を聞き出すと、部室前まで同行してくれた後、あまりに無神経だった裕幸を叱り飛ばした。


「悪ぃ! その……悪気はなかったんだ。ただ、ほら、俺らボーカル居なかったからよぉ、興味あるならちょうどいいかなーって……」


 必死に言い訳する裕幸を、ベリーショートに泣き黒子がセクシーなサックス担当の石崎(ゆう)は呆れた様子で、なにか企んでいそうな笑みを浮かべる狐面のコントラバス担当の原絢斗(けんと)が面白そうに眺めている。因みに、この二人は先輩だ。二人が着ているジャージの色は、一つ上の学年のものである。


「ちょうどいいかなー、じゃないでしょう!? 牧野さんの都合も考えないで、無理やり誘っておきながら、そのままほったらかしだなんて! 牧野さん、すごく困っていたんだよ!?」


 説教していた彰は、まだ腹の虫が収まらないらしく、裕幸を叱りつけていた。気弱そうな見た目だったが、それに反して結構芯がしっかりしているのかもしれない。自分と似たタイプだと思っていたので、少し羨ましかった。

 それに対して、叱られた方はパイプ椅子に座ったまましゅんとしょげる。開いた脚の間に両手を突き、肩と頭を落とすと、悪かった、と佐保に頭を下げた。


「もう少しきちんと話をすればよかった。不安にさせてごめんな」

「あ……いいえ、その、もう過ぎたことですし……」


 確かに不安は大きく怖くもあったが、裕幸に誘われたこと自体は嬉しかったのだ。そこまで反省されると、佐保のほうが申し訳なくなってしまう。


「ええと……それで、どうしようか」


 きちんと反省した様子の裕幸に、彰は落ち着いたらしく、ふう、と一息吐いて佐保のほうを見て、困惑顔を浮かべた。佐保の扱いについてのことだろう、と見当をつけた。彰にして見れば、無理やり来させられた人間だ。嫌だったら帰らせてあげたいといったところだろう。しかし、「終わったから帰って良いよ」というのもあまりに冷淡な台詞で、言えずにいるのだ。

 かといって、佐保も「それではお邪魔しました」と帰るのも難しい。なにをしに来たのかと思ってしまうし――本当のことをいうと、興味があるのだ、この四人のジャズバンドに。せめて聴いて帰りたいな、と思うのは、厚かましいのだろうか。

 因みに、歌うことについては考えていなかった。ここに来るまでが精一杯で、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。

 だから、絢斗の発言には、至極驚かされた。


「俺、せっかくだから聴いてみたいなー」


 うーん、と頭を悩ませる彰の横で、椅子の背に両腕を預けながら、細い瞳でじっと佐保のことを見る。笑みに反してその眼差しは強く、佐保は蛇に睨まれた蛙のように、たちまち身動き取れなくなってしまった。


「素人ながらに、ヒロが聴いて良いなと思ったんだろ? しかも惚れ込んじゃったわけだ。興味ある」


 〝惚れ込んじゃった〟のところで、佐保は頬を赤らめた。そういう意味で〝惚れた〟わけではないだろうが、なんだか恥ずかしくなってくる。

 そんな佐保の反応を見て、絢斗はますますにやついた。どうやら敢えてその言葉を選んだらしい。ますます頬が紅潮した。


「そうだよ、もうここに来ちまったんだからさ、一回くらい歌ってくれよ! 無理に仲間に入れとかは言わないから」

「こらっ!」


 便乗して催促する裕幸を、またも彰が短く叱る。最後の一人、優は懲りないねぇ、と二人を笑って、穏やかな顔でこちらを見た。


「どうするの?」


 優しい問いかけに、言葉に詰まる。

 正直に言えば、注目されて歌うなんて恥ずかしい。絶対にできる気がしない。

 でも、もしここで歌ったなら、もしかすると自分も裕幸と同じようになれるかもしれないな、と思ったら、嫌だという言葉も出てこなかった。


 夏休み明け。急に輝きだした、裕幸の表情。太陽のようなその笑顔に、佐保はとても心惹かれた。乱暴なところはあるけれど、素敵な人なんだな、と思い、憧憬を抱いて――


 ――同時に、嫉妬した。

 自分が欲しかったものを、いつの間にか手に入れていたから。

 シンパシーを感じていたはずなのに、気付いたら一人置いていかれてしまったから。


 身勝手な感情だということは判っている。それでも、置き去りにされた印象が拭えなくて、あまりに悲しく、悔しくなってしまったのだ。


 ジャズを口実に裕幸に近づこうと思わなかったのは、臆病の所為だけではない。冷たく暗い場所に残された悲しさと、身勝手に相手を妬む自らの卑屈さから目を逸らしたかったから、彼を見守るだけで充分だ、と自らを納得させたのだ。


 でも、今、自分から手放した好機(チャンス)が、親切にも向こうからやって来てくれた。

 もし、これに手を伸ばして、佐保も裕幸と同じものを手に入れられるなら。

 裕幸と同じ場所に立てるのなら。


「………………歌います」


 今ここで、差し伸ばされた手を跳ね退けたなら、自分はきっと一生このままだ。明るいところに立てなくなる。

 両手を握りしめ、俯き加減のまま。けれど心を必死に奮い立たせて、必死に声を張り上げた。


「恥ずかしくて、緊張して、はじめは小さくなってしまうかもしれませんけど! きちんと歌いますから、少し辛抱してくださるのであれば……っ!」

「決まりだな」


 ぱしん、と絢斗が掌を叩く。よっしゃあ、と裕幸が両手を上げた。

 ふ、と佐保の気が緩む。言ってやった。謎の達成感。

 だけど、当然ここで終わりではなかった。


「そんじゃ彰、伴奏よろしく。なに歌ってたんだっけ?」

「えーっと……なんだっけ? 横文字の長いやつ」


 忘れてしまったと頭を掻く裕幸に、小声でぼそりと助けを出すと、裕幸以外が「ああ、あれね」と頷いた。

 弾ける? 弾けますよ。そんなやり取りが佐保の目の前で交わされて。いざそのときが来ると頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい、本当に歌うのか、とわたわたしているうちに、彰の弾くシンセサイザーの隣に立たされて。


 始まった伴奏。あっさり終わった前奏に、慌てて口を開く。

 はじめは電子のピアノ音に押し負けていた声も、進むにつれて調子が出てきて、自然と大きくなっていって。

 だんだん気持ち良くなって、声だけでなく身体も解れていって。


 ぽっかりと穴が空いていたはずの胸に、風が吹き込んだ。草木を枯らす冷たい冬の風でなく、命が芽吹く暖かい春の風。風は通りすぎていくはずなのに、胸の中はなにかに満たされていくような感覚がする。

 私に春が来るのはまだもう少し先なのよ、と歌いながらも、声は新芽のように伸びていき。

 いつの間にか、佐保の口元が綻んだ。見られている緊張も消え去って、今では何処か心地良くもあって。

 ああ、なんか良いかもな、とその訳も解らず思いながら高らかに歌い上げる。


 ぱちぱちぱち、と四人からの拍手の音で、目が覚めた。大胆なことをしていなかっただろうか、と今になって恥ずかしくなって、縮こまった。


「いいね。すっごい素直な歌い方」


 感心した、という風に絢斗が頷いて、優もそれに同調した。


「うん。でも、そこが良いよね。声も綺麗だったし、音取りも完璧。裕幸の耳も確かだったね」

「でしょう! やっぱさあ、俺らン仲間に入ってもらって――」

「もう! だから無理を押し付けないって言ったでしょう!?」


 佐保の恥ずかしさも他所に、じゃれ合う四人。時折彰の叱責が混じるが、全員楽しそうに話していて、とても微笑ましかった。見ている側もなんだか楽しくなって、口元を綻ばせながら眺めていると、議論尽くしたのか、絢斗がとうとうこちらを見た。


「どうかな。もし良かったらだけど、俺たちも是非入って欲しい」


 他の三人の眼も向けられて、気後れした佐保は気持ち一歩後退した。


「ええと……」


 歌っていたときの解放感は既になくなり、再び内向的な佐保に戻っていた。緊張で、身体と声が強張ってしまう。


「あの、私、本当に齧っただけで……。それに、人と話すことにも慣れていないし、たぶん色々と上手にできないんですけど……」


 くどくどと弱気なことを並べ立て、自分でもなにを言っているのだろう、と思ってきた。それでも良いか、と確認したいだけなのだが、これではまるで遠慮したがっているようではないか。

 佐保は高いところから飛び降りるくらいの勇気を自分の中からかき集め、顔をあげて、絢斗を見つめた。


「お世話になって、良いですか?」


 にっこりと、親切な表情で絢斗が笑った。


「歓迎するよ」


 ぱあぁ、とたちまち表情を輝かせたのは、実は佐保でなく、裕幸のほうだった。


「よっし、決まりだな! 歌姫ゲットですね、先輩!」

「そうだねー。実は、オリジナルで歌詞も書いていてさ。是非それも歌って欲しいんだよねー」

「オリジナル!? 作曲だけじゃなくって、歌詞も!? うおおぉ、スゲー」

「裕幸、君はしゃぎすぎ。ちょっとうるさい」


 やいのやいの、と盛り上がる裕幸と、先輩二人。本当に楽しそうな裕幸の姿に、喜んでもらえて良かった、と佐保も笑った。

 そして、自分がそこに仲間入りするのだと思うと、ますます嬉しかった。それに、今度は彼を傍で見られるようになるなんて。なんだか胸がふわふわしている。

 まだ一人輪の外から見ている佐保に、彰は声を掛けてくれた。


「ありがとう、入ってくれて。無理させちゃいけないなとは思っていたんだけど、ボーカル捜してたのは、本当だったから嬉しいよ」


 それから、手を差しのべて一言。


「これからよろしくね。牧野さん」


 彰に続いて、よろしくー、と三人の声。


 返事は、今までで一番声が出ていたと思う。

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