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夫が全裸で捕まった。  作者: 微睡臚列
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書き出し

夫が全裸で捕まった。


私は机に料理を並べて、二階の葵に階段下から「ご飯できたわよー!」と叫んだ。

「はーい」と返事が返ってきて葵は食事の席に着いた。私も席について掛け時計を見た。時刻は午後6時にちょうどなる所だった。

今日は夫の帰宅が遅かった。

「お父さん遅いね?」

「そうね、残業かしら?」

・・・。

「葵?彼氏とはどうなの?」

「なによ藪から棒に」

「いや、あんたの彼氏、なんか面白いじゃない」

「面白いって言うか、変」

「そこが、面白いのよ。最近なんかあった?」

「えー最近?特にないけど、まあ、何時もの如くボーとしてるね。あ!!釘に話しかけてたよ」

「ちょっとヤダー何それ?なんて話しかけたの?」

「なんか、二人で歩いてる時に、ボロッボロで錆びて曲がった釘が道端に落ちてたんだけどさ。それに、『お疲れさん』て言ってたよ」

「それはさ、あんたを笑わせるための冗談なんでしょ?」

「いや、真剣に釘にお疲れさんて行ってたよ。何か『この釘がこんなにボロボロになって、此処まで来るまでには、釘も大変な苦労があっただろうにと思ってさ・・・』だって・・・」

「なにそれ?ウケる」


『プルルルル プルルルル』


娘との会話を邪魔するように電話が鳴った。

「電話の後で続き聞くからね」

「はいはい」

電話は警察からだった。

私は電話の内容に「は?」と自然に口に出てしまった。

夫の身柄を預かって居るので迎えに来てください。という事だった。

私は軽いパニックを起こして、警察の人に矢継ぎ早に質問する。

「なにか事件とか事故とかに巻き込まれたんですか?それとも夫が何かやっちゃったんですか?夫の車があると思うんですが?」

「ええ、車はあるんですが、服が無いんです」

「はい?」

「署の方で何が起きたのか説明しますので、旦那さんの着替えを持っていらしてください」

「はあ」

私は葵に「ちょっとお父さん迎えに行ってくるわ」それだけ言って警察署に向かった。

葵は「は?どうしたの?」と聞いたがお茶を濁した。

私は、警察署の駐車場で、夫がいる警察署を見詰めて少し止まった。「何があったのだろう?」

家族に今までトラブルや大きな喧嘩などは無かった。普通で平和な家族だった。自分で言うのもなんだけど夫婦仲もよいと思う。だから警察から急に電話が来て私は不安だった。何時もの平和な日常以外の事に全く耐性が無い自分がそこに居て、最悪の事が頭の中で浮かんできていた。

『夫は、人を殺してしまったのではないか?その返り血で服がもう着れない位真っ赤に染まってしまったのでは?』や『会社の金を横領して、その金で買った服を没収されたのでは?』とか、突飛でテレビドラマの見過ぎであるとも思った。

私は意を決して警察署へ入った。不安で顔が怖くなっていたと思う。受付の人は心配そうな目で私を見ていた。

「木下 茂の妻ですが・・・」

「少々お待ちください」

暫く待つと制服の男性警官が現れた。大柄で色黒だった。見た目は怖いが『人情』と言う言葉が似合いそうな優しい目をしていた。

小さな応接室に通されて、男性警官はドスンと座った。夫はそこには居なかった。

「少し聞かせて貰ってもいいですか?」

「はい」

「お名前は?」

「ん?夫のですか?」

「いえ、奥さんのですね」

「ああ、木下 夏子です」

「年齢は?」

「42です」

「他に家族は?」

「もう二人います」

「息子さん?娘さん?」

「息子と娘が」

「家は持ち家?」

「ええ」

私の答えを警官は書類を見ながら書き込んだ。「よし」と書類が完成した事にたいして声を出して、今度は私を見た。

「旦那さんね。全裸で農道を歩いているのを私が見つけて補導しました」

「はい?」

「話聞いたら、ちゃんと所帯持ってて仕事もきちんとしてるし、話し方も整然としてるし前科も無い。本人の感じも、そう言うわいせつ目的ではない様だったので、今回は厳重注意にします。逮捕しちゃうとそれからの生活とか本人のメンタルとかに影響してきちゃうから。それに今回は被害者が居ない事もありますし」

「全裸で・・・?本当に家の夫ですか?」

「ん?木下茂さんの奥さんですよね?」

「ええ・・・すいません。家の夫なんですよね」

「はい」

「どうしてそんな事を?」

「ん~私に聞かれてもね。反省している様子で『少し疲れてて・・・』と繰り返すだけでね。もし、公衆わいせつで捕まると6か月以下の懲役もしくは30万円以下の罰金になって前科が付くと言う事を深刻に受け止めて貰って同じ事の無いようにしてください」

「はい。すいませんでした」

多分人違いだ・・・。私はこの後夫に会う訳だが、そしたら「何だ人違いかアハハハ」となる様な気がしていた。物静かな夫が全裸だなんて考えられない・・・。

次に案内された部屋にいたのは、間違いなく夫だった。夫は私が部屋に入るとうなだれていた顔を私に向けて困ったような顔で静かな溜息を吐いた。夫は持ってきていた私服を着ていた。

私は、隣にいる警察官に見られている事が恥ずかしくてその場では「行きましょ」としか言わなかった。

「どうしたの?」

私は車に乗り込んですぐに聞いた。

「うん・・・」

「うんじゃなくて、なんであんな事したの?」

私は責める様な口調になっていた。

「すまない」

「そうじゃなくて、どうして?」

その後返事が返って来なかった。夫は助手席から只外をぼんやり見つめていた。

夫が少し落ち着いてからまた話を聞く事にしよう・・・。私も怒る気は無かったが興奮しているから・・・。

「ただいま」

葵がリビングの扉から顔を出して玄関の方を覗き込んだ。

「おかえり、どうしたの?」

「うん・・・」

私はもう一度お茶を濁す。

夫は、すたすた家の中に入って行き、お風呂に入った。私は夫の背中を見詰めて鼻で溜息を吐いた。

葵は夫が風呂場へ向かうのを目で追って夫を窺うように「おかえりー」と小さく言った。

私は荷物を置いて電話が掛かって来る前の食事の席について、少し不機嫌そうにご飯を食べ始めた。

葵が詰め寄る様に私に聞く。

「ねえ?何があったの?」

『話すのはタイミングを見てからの方がいいか』とも思ったが、どうせ話さなければいけない・・・。

「お父さん、農道で裸で歩いているのを警察に見つかって捕まったって」

「え!!?どういうこと?」

「それが話してくれないのよ」

「お父さんて・・・露出狂だったの?」

私は、ダイレクトな葵の疑問がツボに入って笑ってしまった。

「ちがうでしょ?」

「いやだって、そうでしょう。裸で外歩くって言ったらもう露出狂でしょ?」

「そうだけど、あんな真面目な人がそんな事しないわよ」

「いやしたんだって」

「そうだけど・・・」

心のどこかではまだ夫のした事が現実として受け入れられていなかった。


翌朝、私は夫の車がある場所に送った。夫の会社の近くの高速道路のパーキングで、昨日着ていた服は車の中にあるそうだ。

車で送っている時にも私は「どうしてあんなことしたの?」と聞いた。今度は優しい口調で・・・。

「すまない。疲れていて・・・」

と夫は言った。確かにそう言う夫の声は疲れていた。

一体どういう事が原因でそんなにも疲れたのかを聞くのはまた後にしよう。夫を不憫に思って私はその道中優しく振舞った。

しかし、一つだけ確認しなければいけない事がある。

「露出狂じゃないわよね?」

「すまい心配かけて、それだけは絶対ないから・・・」

「そう、良かった」

私は安心して何度も頷きながら微笑んだ。

夫は車を乗り換えて仕事に向かった。

私は夫を心配そうに見送ってから帰宅した。

『そうよね、違うわよね』と夫が露出狂を完全否定した事に安堵していて殆ど解決した様に思えた。その時は『ではなぜ?』と思う事は無かった。

『夫が疲れているのなら、その原因を聞いて解決してあげれば良いのだ』ともう解決策は見当たっていて家に帰る頃にはいつもの日常に私の気持ちは戻っていた。

私はいつも通り家事をこなした。掃除をして洗濯をして風呂を沸かして料理をした。私は家事を楽しみながらするタイプだ。家の中がきれいだと気持ちいし、服やタオルが清潔に揃っている事で満足だし、程よい疲れと達成感を得られる。家族がそれを使っている所を見ると陰ながら誇らしくなって嬉しい。細かく考えながらやるのはやりがいがあって、普通に働いているのと同じだと思う。そうして、仕事や学校から帰って来た夫や娘と戯れたり、たまに近所の人と話に花が咲いたり。そう言う平和な日常で私の時間はいっぱいだ。満足しているし死ぬまでこのままが良いと思っているし死ぬまでこのままだろうとも思っている。

きっと富や名声を求める人はそれ相応の苦しみや悲しみが有る道が用意されているのだと思う。しかし私はそう言うモノを求めず今目の前にある物に喜びを感じそれが私の最上級の欲しいモノで、すでに私はそれを手に入れたのだ。だから富や名声を求める人に訪れる苦しみや悲しみは私には訪れないと思っている。『修業した結果辿り着く境地みたい』と私は一人油揚げの中に納豆を入れながら笑った。厚めの油揚げを一度オーブントースターで焼き色を付けて半分に切って中に納豆を入れるだけの簡単な料理だが夫はこれが大好物だ。


料理の支度をしている時に葵が帰ってきていつもの軽快な声の調子で「ただいまー」と聞こえて私はそれに「おかえりー」と答える。いつも通りの日常だ。

私は料理を机に並べて、二階の自分の部屋にいる葵に「ご飯できたわよー」と階段下から声をかけた。返事が来て、私と葵は食事の席に着いた。私は掛け時計を見る。時刻は午後5時半だった。そこでいつもの日常とは少し違う感情が私の中に浮かんできた。夫がまだ帰宅していない事に不安を感じたのだった。

「お父さん残業かな?」

「あれなんじゃないの?」

「ん?」

「また、全裸で散歩してるんじゃない」

「やだ。やめてよ」


「ただいまー」


夫が帰って来た。私はほっと息を吐いて胸を撫で下ろした。


「おかえり」

「ただいま」

いつもの「おかえり」と「ただいま」がある事に私は微笑んだ。笑った私を夫は不思議そうに見て、夫も少し笑った。

夫は直ぐに風呂に入った。

「お父さん今日はちゃんと帰って来たね」

「『今日は』て、毎日全裸で歩いてるみたいじゃない」

私と葵は笑った。

私と葵が先に食事を始めていて、首にタオルを掛けたパジャマ姿の夫が後から食事の席に着いた。

「今日の仕事はどうだったの?」

「ああ、まあ」

「最近は、忙しいの?」

「んん、そうだね」

「そう」

「大丈夫?疲れた?」

「そうだな・・・まあ、疲れたな」

「そう、後でマッサージでもしてあげるわよ」

「んん、ありがとう」

夫はどちらかと言うと寡黙な人だ。私はどちらかと言うとおしゃべりな方で夫が-なら私は+で丁度良く合っていると思う。夫に不満はない。聞き上手だし、『ありがとう』や『ごめん』も素直に言える人だ。強いて言いうのなら『好きだ』とか『愛している』とかをもっと言葉に出して欲しいがそうい事については「恥ずかしくて頻繁には言えない」と夫は言っていた。

食事が終わって私は食器をかたづけながらテレビを見る夫の背中を眺めていた。葵は自分の部屋へ行ってリビングには夫が一人ポツンといた。

気のせいか?夫の背中はいつもより小さくて萎んでいる風船の様な気力の無さを感じた。

私は皿洗いを急いで終わらせて、夫の所に行った。

「ほら、横になって」

「おお」

「マッサージしてあげるから」

「んん、頼むわ」

夫の体は、石の様にカチコチだった。

「何これ?こってるにも程があるでしょ?」

「ああ」

家族の為に頑張って働いて来た証。自分が出来る量よりも多くの事をして無理をした証だ。私は夫に『いつもありがとう』と籠めて「お疲れさん」と労った。夫は「んん、ありがとう」と言った。


「あ~気持ちい。そこ、そこそこ。そこを指でぐーとやってくんない?」

「ここ?」

「お~そこ」

「ねえ?」

「ん?」

「なんで?あんなことしたの?」

「ん~俺にもわかんないだ・・・」

「わかんないの?」

「ん~ごめん」

「何か理由があるでしょ?」

「ん~仕事が・・・最近、納期がきついのが多かったから、正直もう辞めようかな~て思ってて・・・」

「え?仕事辞めるの?」

「いや、やめないけどさ」

『けどさ』は、夫の口癖だ。その後に何かまだ言いたい事がある様に聞こえるが、特には無いらしい。

「けどさ?」

「あ、いや、辞めないよ。辞めたいって気持ちになっただけ」

「そう・・・それで裸になったの?」

「ん~・・・そうだね。解放感?」

「ふーん・・・で解放感はあった?」

「ん~少しね」

「え!?癖になったりしないよね?」

夫は笑った。

「ならないよ」

「そう、なら良い」

「心配かけてごめん。今日で仕事は一段落ついたから」

「そう・・・もしも、苦しかったり辛かったりしたら仕事辞めたり裸になったりする前に私に相談してね」

「ん・・・うん、分かった・・・」

夫は、ストレスを溜め込んで、他人に相談しないで一人でどんどん落ち込んでいくタイプで、自分が持っているモノを後先考えずに急に放り投げてしまう癖があった。私や家族や周りの人には事後報告で済ませる。今持っている重荷を下ろす事以外何も見えなくなってそれに全力を尽くしてしまうのだ。

夫と付き合っている時、夫は仕事を3つ変えた。事後報告で言う言訳はいつも「大きな事故を起こして誰かを殺すか自分が死ぬか、そうなってしまうのが怖い・・・体が怠いし苦しい・・・」と言う。

深刻な問題の様に聞こえるが、それは仕事をする人すべてにある悪い面の可能性で決して夫が大きな事故を起こす確率が大きい訳ではない。

仕事や家庭や自分へのストレスが夫の中ではち切れそうなくらいパンパンになってそのストレスを『外に出す』と言う行為が夫にとって、自分が持っている全てのモノを手放すという行動その物になってしまっているのだ。

付き合っていた頃夫が仕事を辞めたタイミングで「別れて欲しい」と何度も言われた。その時の私はまだ夫の事を理解していなくて、只、大号泣で「嫌だ嫌だ」言っていた。

その時の夫の私への弁解は「俺といると不幸で惨めな人生になるからお前を幸せにする自信が無い」だった。

今思うとこれももっともらしい理由だ。只私と言う重荷を肩から降ろしたいという気持ちしかない。自分で言うのもなんだけど私はけして重荷だけでは無くて夫にプラスの存在でもある筈なのに・・・。結果的に自暴自棄になって大切なモノまで失ってしまう。

それは夫と一緒にいる間に私が理解した夫の持病の様な物だ。長い間夫の隣にいるが、ようやくそれに気づいただけで、どうやったらそれが解決するか?という事はいまだに見つけられてはいない。だが、シンプルに考えるのなら、夫のストレスが爆発してしまう前にストレスを発散させてあげれば良い。ストレスの原因やどのぐらいストレスが溜まっているか把握するには相談してもらうしかない。なので私が出来る事は、素直に相談してもらって夫のストレス発散に力を貸す事だ。だから私はいつも「何かあったら相談してから決めてね」と言っている。

この20年間で少しは相談するようになったが、相談しても結局夫の爆発を止める事は出来なかった。きっとまだ本心で私に相談してはいないのだろう・・・。それか、私が上手くストレスを発散させてあげられないのだろう。

今回の件は、きっと夫のストレスが爆発してしまったのだろう・・・。

私は夫の背中を押しながら聞こえない様にため息を吐いた。

私が警察署の帰り道になぜ怒り口調だったのか自分の中で理解した。夫を助けられなかった自分の不甲斐無さと改めて夫のその持病がまどろっこしくて嫌なモノだと理解したからだ。


「もう大丈夫?」

いつもの爆発の仕方とは違ったので私はもう一度確認した。

「ん?ああ、大丈夫」

「そう」

今までの例で行くと夫の爆発が治まった後は、真面目で謙虚な夫に戻る。仕事にも就いて順調な生活が始まる。だから夫のストレスがこれで全部発散されていればいいなと私は願いながら夫の体をくまなく揉みほぐした。




知らない寝言


夫が全裸で捕まってから1週間が経っていた。夫はあれから特におかしな事をする様子は無かった。

私は毎日、夕方の夫が帰宅する時間になると少し不安になっていたが、それも時間が経てばすぐに忘れてしまうだろう。

今日は近所の人と話に花が咲いてしまい家事が大幅に遅れてしまった。私は夜の11時にようやく家事を終え風呂に入って洗面台の鏡を見ながらオールインワンのお肌ケアクリームを優しくしかし念入りに塗り込んでいた。『あ~皺がまた増えたわね』残念な顔をして皺を鏡で見ていた時に突然人の叫び声の様な音がした。

「うあー!!」

私に緊張感が走る。もったいないので洗面台の電気だけ点けていてその他の家の中は真っ暗だった。「なに?泥棒かしら?」私は小さく声に出した。電気を点けながらその声の方へ進んでいく。

「おおー」

声は夫の寝ている部屋からだった。

恐る恐る扉を開けて何の声か確認する・・・。

「なーんだ」

私は呆れてため息を吐いた。夫の寝言だった。

魘されているという訳ではなさそうだった。応援している何かのチームが優勝した時の様にガッツポーズで叫んでいた。私は夫の肩を叩いて「ちょっとあなた?近所迷惑だからやめてよ」と揺すった。

「おお・・・すまないナッツー・・・」

夫は寝言のまま私に返事した。私はくすくす笑ってしまった。「ナッツー」て私の事かしら?

私はおかしな事をふと思いついた。『起きている夫が悩みを打ち明けてくれないのなら寝ている夫に聞けばいい』そう思った。寝言に話しかけるのは良くないと何処かで聞いた事があったが私はやってみた。

「ねえ?あなた?仕事はどう?」

「ん~」

「会話なんてできないか」

私はそう呟いて可笑しな考えに自分を笑った。

「南方に五歩、北方に七歩、東に二歩、西に三歩私はそこにいる。君の為にそこを動かない。暑くて朦朧としようと寒くて凍えようと美味の果実がたわわに実ろうとそれに手を出さない。いくら真っすぐ続く放浪の荒野の道に魅力を感じても私はいかない。君の為に私はここにいる」

夫は朗読するようにそう言った。

私は首をかしげて「一体どんな夢を見ているのよ」と小声で突っ込みを入れる。

もう一度夫の口が動いた。

「人の所為にしてしまった・・・」

夫は悲しそうな顔をした。

私は聞き返す。

「何を?」

「単純に私の見間違えだった。私がミスをしたのはお前の所為だ。情けなくて惨めだ」

「そんな事誰だってあるわ」

「いや、良くない事と分かっていた。なのに私はしてしまった」

「いつも頑張ってるのだから、周りの人は『疲れてるのかな?』ぐらいにしか思わないわよ。全然気にしなくていい」

「そうじゃないんだ。私の歯車が一つ無いんだ。何処にあるか知らないか?」

「歯車?」

「ああそう・・・私が私であるための大切な歯車なんだ。今もどこかを転がってる。まだ取り返しのつかない所には落っこちていない。それが無いと私は只生きているだけの人になってしまう」

「あなたの歯車はどんなものなの?」

「私の魂だ」

いちおう会話みたいになったけど・・・9割がた夢が混ざっていて呆れるくらい意味が解らなかった。もしくは何かの暗号みたいなものなのかしら?でも起きている夫からは聞き出せ無かった事が分かった。おそらく仕事で誰かに罪をなすりつける様な事をしてしまって、それを今でも後悔しているみたい。実際在ったかは分からないけど・・・。

私は夫に同情するように「お休み」と言って洗面台に戻った。

「何かしら歯車って?」


翌朝夫が「いってきます」と言う時に『ナッツー』が頭に浮かんできて笑ってしまった。微笑む私を見て夫も同じく微笑んだ。「いってらっしゃい」

葵が「おはよう」と眠そうに寝ぐせの頭を掻いて起きて来た。

「なんか?笑ってない?いい事でもあったの?」

「何でもないわよ」

「そう言えば?昨日の夜に誰か?叫んでなかった?」

「ああ、寝言でシッゲーが叫んでたのよ」

葵は鼻で笑った。

「シッゲーって誰?お父さん?」

「良いから早く支度してご飯食べなさい」

「はーい」


葵を見送ったあと私は朝ごはんの食器を洗った。洗い物が一段落していつもは次の家事をするのだが、私は流し台に両手をついて、夫の事について少し考えた。

『もし、昨日の寝言が本当なら、夫は、同僚にあたってしまった事をストレスとして抱えている事になる』どうやったらそのストレスを解消してあげられるだろうか?

夫の性格だ。きっとその同僚とは喧嘩とかそこまではいかないだろう。常に謙虚で一生懸命頑張る夫が一回だけ人の所為にするという情けない事をしたって、その同僚はきっと悪くは思って無いと思う。『茂さん疲れてるんだな・・・』とそう思ってるはず。だから夫が一人で考え込んでいるだけの状況が出来上がってしまってそれがストレスを放っている。

私は、顎に手を当てて、昼過ぎに放送されているサスペンスの女刑事の真似をして推理をした。

我ながら筋の通った推理だと思ってその線で捜査を進める事にした。

計画はもうすでにできていた。

いつかの家事の合間の休憩でフランスの哲学者の言葉を紹介するワイドショーのコーナーがあった。そこで『後悔とは、それが失敗した事に対してではなく、中途半端になってしまった事に対して強く懐くものだ』と言う名言を私は頷きながら聴いていて、夫のストレス発散に何か役立つのでは?と思って記憶に残っていた。

その名言を参考に計画を立てた。

名付けて『愛妻弁当忘れたわよー計画』である!!


①夫に弁当を忘れさせて、私が会社に届けに行く。

②夫があたってしまった同僚を探して、夫の事を聞く。(きっと、よい印象しか持ってないと思う)

③同僚の夫への好印象を夫に伝える。

④夫の心の中で『あいつきっとまだ俺が責任を擦り付けた事を根に持ってる』と言う考えを『何だ?全然気にしてなったのか?なーんだ良かった』に変える。

⑤夫の同僚へのストレスが減る。

⑥夫の仕事の人間関係が良くなって、元気な夫になって私は安心する。

⑦ウィンウィン。


私はキッチンで「よし!!」と言った。でもすぐに「ん?」と疑問が浮かんできた。どうやって夫があたってしまった同僚の名前を聞き出そうかしら?それにお弁当が無い事に夫はきっと気づく・・・。あと、夫の会社にお弁当を持っていくなんて・・・恥ずかしいわ・・・。会社に行った事もないのに、弁当忘れたら、普通コンビニとかで買ってその日はやり過ごすわよね・・・。

私は一人で10分ほど「ん~でもな?、えっと~どうしよっかな~?」と呟いていた。夫の会社にお弁当を持っていく恥ずかしさを克服し覚悟を決めるのに結局3時間程掛かった。この計画の一番の難しい点は私の覚悟だった。他の問題をクリアするのは、そう難しい事では無さそう・・・。


その日の夜、夫が寝静まった後、私は夫の枕元にいた。

「木下さんなんで俺になすり付けたんですか?」

私は例の同僚のふりをした。寝言で聞き出そうとしたのだった。『そんなにうまく行かない』と思っていたが、これが呆気なくうまくいった。

「ああ、すまない。本当に申し訳ない。伊藤さん~」

「伊藤さんね。いや~寝言使えるわ~」

私は満足そうに笑みを浮かべた。


翌朝夫の弁当箱は少し軽かった。私はお米だけを詰めておかずを入れなかった。いつもより軽いが、こんな微妙な重さを夫は気づくはずはない。

「いってらっしゃーい」

私は微笑んで見送った。『その微笑みの裏にある計画を夫は知らない』ドロドロのドラマのセリフを私は心の中で言って夫の背中にニタリと笑って遊んでいた。

「さてと、何時に行こうかな?」

「どこに?」

葵が気づかぬ間に起きていた。

「あれ?お父さんもう行ったの?お弁当忘れてない?」

キッチンの隅に隠す様に置いてあるおかずの入れ物を見て葵がそう言った。

「ええ、それで良いのよ」

私はまだドラマ気分で、ドスを利かせてそう言った。

「なに?なんか・・・たくらんでる?」

「まあね」

「やだ。こわ~い。お父さんの弁当でいったい何をするつもりなの?」

「お父さんにはこれから白米だけの生活を送ってもらうわ!!アハハハ」

「うそ!!うそよ。そんな、身を粉にして働いてるお父さんになんて仕打ちなの?!!」

「いいから。早くご飯食べなさい。遅れるわよ。帰って来たら話すから」

「はーい」

葵を送り出して、10時まで家事をして10時半にお父さんのお弁当を持って車に乗り込んだ。悪い事をしているわけではないのに妙な緊張感があった。それと恥ずかしさ。私は覚悟を決めて夫の会社へと向かった。

夫の会社の駐車場に車を止めて、工場の中を恐る恐る覗いた。3人ほどの人が見える。『ラッキー』と私は心の中で言った。夫の会社の社員は皆名札を胸に付けているのだ。これなら名札を見ただけで伊藤さんを見つけられる。

目を凝らして目の前で働く3人の名札を見るが伊藤では無かった。

私は少し顔を曇らせて、『伊藤さんを探しに工場の奥まで行くのはちょっとな・・・』とちゅうちょしていた時に、4人目の社員が現れた。小太りで歳は夫と同じくらいだった。四角い鉄の棒を持ってこちらに歩いてきた。

「伊藤さんだ!!」

その人の胸の名札は『伊藤』だった。おそらく私が隠れているシャッターの横にある機械を使おうと歩いてきたのだろう。奇跡的なタイミングだった。

「すいません」

私は伊藤さんが近づいた所でひょこっと体を出して声を掛けた。

伊藤さんは行き成り出てきた私にビクッと体を動かして驚いた。

「はい、何でしょうか?」

「木下茂の妻ですが」

「ああ、木下さんの奥さん」

「夫のお弁当を届けに来まして」

「ああ、そうでしたか。今呼んできますね」

「あの?」

「はい?」

「家の夫は会社でどんな様子でしょうか?」

「え~と、木下さんはすごく真面目で優しいです。いつもお世話になってます」

夫の事を話す伊藤さんはとても嬉しそうだった。

私の予想通り、夫は決して情けなくて惨めでは無かった。自分勝手なおこないばかりする人間ではない。短い会話だけど伊藤さんの表情を見ればそれが解った。

「そうですか、ありがとうございます。今後も夫をよろしくお願いします」

「はい」

伊藤さんは爽やかな返事を返してくれた。

私は軽く頭を下げた。

後は夫に弁当を渡して、夫が帰って来たら、伊藤さんの事を話せばいい。

私は満足に微笑んだ。

家に戻ると私は上機嫌で鼻歌を歌って残っていた家事を進めた。夫のストレス発散にこんなに的確に貢献できたのは初めてではないだろうか?これを機に色んな事が上手くいく様な気がしてならなかった。

今日は夫の好物である鰊の干物だ。私は魚焼きグリルの上の鰊をいつもより多くクルクルひっくり返して焼いた。

「ただいまー」

「おかえりー」

葵が帰って来た。葵は部屋に荷物を置いて着替えると、まだ食事の無い食卓に座って料理を作る私に朝の事を聞いた。

「で?朝のやつは何だったの?」

私は寝言の事や『愛妻弁当忘れたわよー計画』や伊藤さんの事を話した。

葵は笑った。

「何それ?なんかドラマみたい。ネーミングセンスがすごいね」

私も釣られて二人で笑ってしまった。

二人とも笑いのツボにはまってしまったらしく夫の帰宅時間ギリギリまでお腹が痛くなるぐらい笑った。

「ただいまー」

夫が帰って来た。葵のおかげで、今日は夫の帰宅に不安を感じる事を忘れていた。

私は、笑い交じりに「おかえり」と言う。夫は笑っている私と葵を不思議そうに見た。

「どうした?」

「ほら、今日のお弁当。お弁当を会社に届けるなんてなんかラブラブの新妻みたいって話してたのよ」

私は計画がばれないようにごまかした。

「そうか」と言って夫も楽しそうに笑った。

ご飯の後私はまた夫の背中を押していた。

「ねえ?」

「んん?」

「会社に行った時伊藤さんて人に対応してもらったんだけどさ」

「ああ」

「木下さんは真面目で優しくて、いつもお世話になってますて嬉しそうに言ってたわよ」

「・・・そうか」

小さな間をおいて夫は「そうか」と言った。その後安心するように鼻息で笑った。

やっぱりあの寝言の事は本当だったようだ。そして私の計画は無事成功したと見ていいだろう。私はその嬉しさを夫の体を揉み解す事で表現した。言葉や表情で出してしまうと計画がばれてしまうので。

「おお、今日は一段と気合入れてもんでくれるね?」

「ええ、今日も仕事頑張った。ご褒美よ」

「ありがとう。夏子と結婚して良かったよ」

「何よ急に?嬉しい事言ってくれるじゃない」

「いや・・・今ふとそう思っただけ」

「好きよ」

「ああ、うん」

「ああ、うんじゃないでしょ?」

「ああ、俺も好きだよ」

「もう、言わせた感があるじゃない」

「ああ、ごめん」


その日私は、12時近くまで起きていた。

今回の計画が成功だったかどうか夫に聞くためだ。寝言で聞こうと思っている。寝言なら私の計画がばれなくて済むし、私は夫のストレス解消ができたかどうか答え合わせができる。

私は、寝室へ行き、夫が確実に寝ている事を顔を近づけて確認した。すやすや気持ちよさそうに寝ていた。『やっぱり伊藤さんとのわだかまりが無くなったのだわ・・・こんなに気持ちよさそうにねているから』

寝言で聞かなくても夫の雰囲気でなんとなく分かったが、確証が欲しかった。今後に繋げる為に。

「ねえ?あなた?」

「んん~?」

「どう?伊藤さんと言う重荷は取れた?」

「ああ~ありがとう~ずいぶん軽くなったよ」

「そう、良かった」

「久美子~ダメだよそっちには行けないよ」

「はい?」

私の顔は寝ている夫にメンチを切っていた。今までこんなに強い怒りがあっただろうか?いや、ない。これは只の夫の寝言である事は頭の中で理解しているが、私は怒りを抑えられなかった。20年近く夫の為に生きて来たのだ。『久美子って誰よ?』

「もう全く」「私がこんなに頑張っているのに」「でたらめに生きてるあなたを何とか支えてるのに」と一人でぶつぶつ言いながら私はその日リビングのソファーで寝た。夢の中の事で夫に責任は無いし、きっとドラマとか映画とかで夫が見た人物が夢に出てきているのだろう・・・浮気なんてことはあり得ないと解ってはいるが、夫の隣で寝る気にはなれなかった。きっと一日寝れば私の中で整理されるだろうと思ってその日は只眠りについた。


翌朝、昨日程の怒りではなかったが私はイライラしていた。夫の食事の器をワザと音を立ててテーブルに置いた。夫に聞こえる様に強い鼻息で溜息を吐いた。夫は私が何に怒っているのかわからず唖然としていた。

別に現実で夫が浮気をしているわけではない。だから、この感情は、私の中で押し殺すべきものなのだ。そう言った事実がない以上、只私が妄想してわがままに怒っているだけなのだ。そうと分かっていても夫に私はきいてしまった。

「久美子って誰?」

「ん?久美子?」

「いえ、何でもないわ」

「なんだ?どうしたんだ?」

「いえ、ごめんなさい。本当に何でもないの」

「そうか・・・」


寝言に話しかけるなんて事しなければ良かった。だから、寝言に話しかけるのは良くないって言ううのかしら・・・。

夫と葵が出かけて、一人になった時に私は大きな溜息を吐いた。自分に対してだ。『これじゃ夫のストレスが増えちゃうじゃない』


「映画でも見に行こうかしら・・・」



夫の情熱



夫は映画が好きだった。的確な夫のストレス解消が見当たらなかった。私の所為で夫にストレスを掛けてしまった罪悪感を紛らわす為に不意に浮かんできたのは、夫と映画を見に行く事だった。


「最近面白い映画とかあるの?」

「ん?なんだ?急に?」

「いや、別に深い意味は無いけど」

「そう。なんだろうな?最近はあんまりチェックしてないからな」

「映画・・・行く?」

「ん?おお」

「二人で」

「葵は?」

「たまには二人でもいいじゃない?」

「おお、そうか。まあいいよ」

「じゃ、今週末にどう?」

「ああ、いいよ」

家族三人で見に行ってもいいのだけど・・・。夫は、大人向けの映画が好きだった。大人向けといっても、エロい映画でなくてグロい映画でもない。まあ、そのどちらも入っている事もあるが、なんと言うか?理解が難しい?音楽だったらポップでは無くてクラシックみたいな映画が好きだった。だから、葵はきっと飽きてしまうし、葵の見たい映画に流されてしまうかもしれないから、悪いけど葵には留守番してもらう事にした。ご飯代に3千円を握らせたら「オッケー」と嬉しそうに了承してくれた。おそらく彼氏とデート行く気ね。


映画館は、街の商業エリアの中心部にあるショッピングモールの中にあった。車では30分程だった。住宅街が徐々に店に変わって行き、歩行者の数も徐々に増えた。年齢層もだんだんと若くなって、着ている服が若々しくて新鮮だった。

夫の運転する車の助手席。私は外を見て微笑んだ後その微笑みのまま真剣に運転している夫の横顔に話しかける。

「ねえ?周りの人はみんな若いわね」

「ああ」

運転中の夫はいつもより寡黙になる。夫は二つ以上の事をするのが苦手だった。

若い頃の私は、運転している夫がテキトーな返事を返すのでほっぺを膨らまして拗ねていた。

『もっと、カッコよく運転したら?』

若い頃の私の言葉が私の頭の中であの頃を再現するように不意に聞こえた。

夫の運転は今と変わらず安全過ぎるほどの安全運転だった。

『ああ』

その時も夫は、そう言うだけだった。

私は『もう少し喋ってよ』と夫に何度も言ったが夫は変わらなかった。夫が私の思い通りにならない事の腹いせに『もっとカッコよく運転したら?』と言ったのを覚えている。

それで、正しかったとあの頃の私は思っていた。

付き合っているのだから、男の人が女の人を喜ばせようとするのは当たり前の事で、それをしないのは、私に労力を使うだけの価値がないと夫が思っているのだろうと私は思った。

若い頃のとある日に夫は運転していた。私はいつも通り隣でぷんすかぷんすかしていた。夫は目的地に着くとわたしのしかめっ面を見て微笑んでこう言った。

『好きな人を乗せてるから安全運転になるんだよ』

その時の私は『だから何?かっこいい事でも言ったつもりなの?』と夫の言った言葉が大して心に響いては無かった。そんな些細な記憶は、そのまま忘れていたのだが、私は今思い出した。それでようやく夫のその言葉が報われた。私は無口な夫の横顔を見て愛おしく微笑んだ。

「私たちも若い頃に戻ったみたいね」

「ああ」


夫は上映中の映画のポスターが貼ってある壁を見詰めて顎を触りながら「ん~」と唸っていた。

「どれにするの?あなたが見たいのでいいのよ」

「ん~」

夫の目線は色々なポスターに走っている様だったが、一つのポスターに反復して目線を戻らせていた。しかし、「これにしよう」とは言わなかった。

「これはどうだ?『ホテルク ワイエット』」

そのポスターには、下に副題があって『このホテルには一つだけルールがある。誰もしゃべってはいけない!?』と書いてあった。旅行客や従業員が喋らずに旅行を楽しんだり業務をこなしたりして悪戦苦闘するコメディーだった。

その映画は夫の見たいものではないと分かった。私と一緒に楽しめる映画を夫は選んでくれたのだ。確かに『ホテル クワイエット』は面白そう・・・。だけど、今日は夫の気晴らしが目的だ。

「これは?」

私は夫が反復して見ていたポスターを指さした。題名は『私は愛をしらない』だった。

ボロボロの服を着て古びたリュックを背負って、小高い草原の丘に夕日を見詰める20代後半ぐらいの外人の青年の横顔が泣きそうな表情で物寂しく佇んでいる写真のポスターだった。恋愛映画では無いようだった。

「見てて退屈しないかな?」

「いいのよ」

「そう、じゃあそれにするよ」


「お茶の方がいい」と言う夫を「コーラとポップコーンね」と言って若い雰囲気を楽しんでいる私が売店で二人分のコーラとポップコーンを買ってきて席に着いた。

『私は愛を知らない』が始まる前の違う映画の予告編は、やはり夫の好きな類の映画だった。


 真っ暗なスクリーンに風の音が聞こえてきて、ささやくような声で主人公が「私はまだ愛を知らない」そう言って映画は始まった。

愛について小説を書く青年の話だった。

青年は小説を一度も完成させた事が無かった。

愛と言う物を明確に示して小説を締めくくる事が出来なかったのだ。中途半端に書かれた小説が部屋に積み上げられていた。

青年は愛を探す旅に出て、色々な人と出会い愛とは何かを少しずつ理解していって、ラストは草原で佇んで朝日を見詰めて、『この世界の全ては愛で出来ている』『私は愛を知らない・・・だからこそ愛を書けるのだ』

そう言って映画は終わった。

私は映画が終わって「ん~」と唸ってしまった。この映画を理解できなかった。あまりにも説明が少なすぎる。ドキュメンタリーの様な映画で『解釈は映画を見る側にまかせる』と言う感じの作り方だった。主人公が行った土地で出会った人やモノと愛の話が小分けに描かれているのだが、それは必ずしも恋愛の愛ではなかった。『原動力は無と等しい』『それ以外のあらゆるものがどうでもよくなる』『代償や見返りが無く意味や理由が無何有で始まりも終わりも結果が無く無に等しい』

『しかし、何か大きなものがある』

映画の中で主人公はそう言っていて、小分けにした話にはそれらの規則性があってそれが繋がりとなっていた。

こういう映画は、夫に聞くと解説してくれるから私は隣の夫に「どうだった?」と顔を向けた。

泣いていた。

夫は切なそうな表情をして静かに涙を流していたのだ。

「え?」

何故この映画で泣く事が出来るのか?私はその事に驚いた。

私は窺うように夫を見詰めた。夫は私の視線に気づいて「いや・・・何でもない」と手で荒く涙と鼻水を拭った。

映画館から出ると不意に夫は空を見上げて立ち止まった。私は少し心配になり『映画は失敗だったかしら?』と不安になった。

「大丈夫?」

「いい・・・映画だったな」

私は素直に良い映画だったとは思えなかったが「そうね」と返した。

その後ショッピングモール内で食事と買い物をして、私たちは帰宅した。夫は始終上の空だった。どうしたのかしら?そんなにあの映画に感動したのだろうか?


それからしばらくしてである。私は、近所のおばさん3人と立ち話をしていた。

「あっ!!そうだ」

一人のおばさんが何かを思い出したように私に視線を向けた。

「木下さん家の旦那さんこのコロナで帰休?」

「え?何でですか?」

「木曜日だったかしら?平日に駅前で歩いているのを見たから」

「ん?いや、帰休の話は別に聞いてないです」

「ああっそう、じゃあ、私の見間違えかしら」

「多分そうだと思いますよ。いつも作業着来て朝出て行きますから」

「そうよね。そんな無職みたいな事をしてないわよね。ハッハハ」

「そうですよ。ほぼ週6日出勤して残業もしてます。それで月給は全然ですよ。もっと金持ちの旦那が良かったです」

はっははっはっはあはは。

おばちゃん達の笑いのツボを軽く捉えて楽しく話に花を咲かせた。おばちゃんの言った事が少し引っかかったが別に深くは気にしなかった。

その二日後の事である。

私が家事を一段落させて昼ごはんを食べようとした時に・・・。


『プルルルル プルルルル』


私の昼ご飯を邪魔するかのように電話が鳴った。

「もう、なによ?これでセールスの電話だったら承知しないからね」と小言を呟きながら、私は電話に出た。

「もしもし?」

「ああ、木下さん、田中友恵ですが・・・」

「ああ、友恵さん、久しぶり、息子さんは元気?」

田中友恵さんは葵の小中学校でのママ友で私と気が合う人で葵が中学校の時はプライベートでも会う程の仲だった。が今はあまり連絡を取らなくなっていた。

「ああ、ええ」

「どうしたの?急に?」

「今って、夏子さん一人?」

「うん、そうだけど?」

「話し・・良い?」

「ああ、別にいいわよ・・・どうしたの?」

「実はさ・・・いや、何でもないわ。そっちの娘さんは元気?」

「いやいや、気になるよ?どうしたの?」

「いやさー話そうかどうしようか悩んだんだけど・・・」

「うん」

「あっでも・・・もし私の勘違いだったら・・・ヤダしな・・・」

「もう、はっきり言って」

「海にいける一本道の峠あるでしょ?」

「うん、あの大きい道の所?」

「そうそう、あそこにイスパニアっていうホテルがあるじゃない」

「ああ・・・ラブホテル?」

「そう。そこにさー・・・旦那さんの車が入って行くの見ちゃったんだよねー」

「はい?!」

「でも私も顔見たのミラー越しだし私の見間違いかもしれない」

「浮気?てこと?!」

「いやーわかんない」

「隣に女のってたの?」

「いや、旦那さん一人でさ、でも中で待ち合わせしてるかもしれないよね」

「いつ?」

「確か・・・先週の火曜日」

「ああ、火曜日はちゃんと定時で帰ってきてるから多分違うわ」

「そうだよね。違うよね。あんな平日の昼間は、旦那さん仕事してるもんね」

平日の?昼間?少し前のおばちゃんの話とリンクした。

「そう・・・ありがとう。まあ多分違うと思うけど」

「そうよね。要らない心配させてごめんね」

「大丈夫、大丈夫」

「今度、食事でも行きましょ」

「ええ、そうね都合が合う日に行きましょ」

私は友恵さんが電話を切った事を確認してから、受話器を乱暴に戻した。

「久美子か?」

鬼の形相とは今の私のこの顔の事だろうと思った。

「平日に?!!真昼間から?!!久美子と?!!」

その三つの単語が恨めしくて仕方なった。歯を食いしばったまま呪いの言葉を呟く。

「私が平日家事を一所懸命しているのに?シッゲーは?久美子と?よろしくやってるなんて許せない。地獄に落ちるべきだわ」

今まで一度も考えた事は無かったが、あの禁断の滅びの呪文が頭に浮かんだ。

「離婚よ!!」

拳を握りしめてとりあえず何か破壊したい衝動に駆られていたが、この家は私が綺麗にしているので、皿を割ってみたり机を放り投げてみたりしても、結局私にダメージが来るだけだと理解して、只拳を握りしめて小一時間怒りに震えていた。

「ああ、あの夢の愛しい人。久美子。もっと君に早く出会えれば良かったのに私は面倒くさい嫁に縛られている。ああ。てかっ?!!」

私は自分が夫の社会的な存在維持の仮面の部分である事を理解して「ためしてガテン!!」スタイルで机に拳を打ち付けた。実際「ためしてガテン!!」が思い浮かんだので連打で机を叩くと、頭の中で「ガテン ガテン ガテン」となった。

「ふぅ」

よれよれになって椅子に座った。焦点が定まらない。

『でも、滅びの呪文を使ってしまったら、家族崩壊を招いてしまう・・・葵にはまだ良くない事だし私は離婚をしてやりたいけど、実際望んでない・・・』




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