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≪王国資料≫(仮)

 ・エリュテア国旗


 スペイン・ポルトガル・エリュテア連合王国となるまでは、赤と黄に十字架が彩られたビザンチン風の国旗だった。

 しかし、その後に再独立したあとは下面を青(海と祖国への忠誠を意味する)、上面を白(空の雲と信仰を意味する)。

 中央には「エリュテア侯爵」の紋章であり、東ローマ帝国の紋章でもある「双頭の鷲」とエリュテア侯爵家のモットー「PER ASPRERA AD ASTRA(艱難を経て星へ)」が描かれている

 1902年には国旗改定が行われ、双頭の鷲が王冠を頂き、十字架と剣を持った形になっている。



 ・エリュテアのキリスト教


 系統的には正教でありながらも、カトリック様式の強いエリュテア正教会と、西ゴート人系やポルトガル、スペイン人などのカトリック教会が混在していた。

 ビザンツ帝国の系統であることを自負する東ローマ人は危険を冒してもイコンを輸入し、対して西ゴート王国の民であることを自負するゴート人たちは、カトリック様式を変えなかった。

 エリュテア正教は歴史的な変化が色濃く残っていることが特徴で、カトリック様式による上塗りがされた後も、貴族や王族などは隠し部屋としてイコンの描かれた礼拝室を設けることが流行していた。


 東ローマ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスの東西融和の一環として開かれたフィレンツェ公会議では、その統合に関してもっとも前向きだった国でもあった。

 というのも、『フィリオクェ問題』はエリュテア王国におけるギリシャ人(東ローマ)とスペイン人の合同において、すでに妥協が行われており、教会もこの決議には前向きであった。

 なにより東ローマ帝国が風前の灯火となっている現状、西側カトリックとの合同がなければエリュテアも存続せず、ひいてはローマの血筋も潰えるという現実的問題があったためでもある。


 そのため、エリュテア正教会は合同教令「レテントゥル・チェリ」に合意し、ここに《エリュテア・ビザンチン典礼カトリック教会》が設立した。


 イギリスとの永久友好条約締結などに端を発する英国共存主義は、仮想敵国であるスペイン・フランスに対する敵愾心をカトリック教会が受けることもあり、カトリック派は何度か同化政策を受け弾圧された。

 そのため20世紀にもなると国民の8割は《エリュテア・ビザンチン典礼カトリック教会》の信徒であり、残りの1.8割がプロテスタント、その他がユダヤ、イスラムという分布になっていた。(これの統計には植民地の住民を含めない)

 エリュテア王国はビザンツ帝国を基として、宗教に関しては強制はしないことが多かったが、仮想敵国に対する敵愾心のあおりを受けることは多々あった。


 また、オスマン帝国やイスラム世界の研究に熱心だったネストル3世により設立された《王室旅団制度》により、異教徒のみで構成された王室が雇用する傭兵部隊が編成された。

 まずはじめに《アルメニア旅団グレゴリウス》が創設され、次に《ユダヤ旅団イェルサレム》さらには《西インド旅団》が編成され、四つ目の部隊として《ヴァラング外人連隊》が創設された。

 これらは国王が雇用する国王の所有物であり、私兵であった。軍役に従事する者には宗教税の免除や選挙権が与えられ、実力のあるものは国王の信認を受けて各分野に登用された。


 立法上では国教である《エリュテア・ビザンチン典礼カトリック教会》でなくとも、宗教税を納めることでその信仰を認めていた。

 この宗教税は税金の中でも便利な部類であったために、長く廃止されることがなく、1920年以降に多発した教会デモにより1922年にシメオン1世が宗教税の廃止を宣言する《リパラー宣言》がなされた。

 



 ・エリュテアの血


 エリュテア王国のカリブ植民地であるABC諸島とパラグアナ半島だが、そのうちキュラソー島とパラグアナ半島には大規模は製油所が存在する。

 1915年にベネズエラで油田が発見されたのをきっかけとして、エリュテア王国はロイヤル・ダッチ・シェル社と提携して、油田と石油精製所を建造し産油国となった。

 戦間期におけるエリュテアの強引な海軍拡張はこの石油によって支えられた面が大きく、産油・精製・海運拠点であるパラグアナ半島防衛のためにミトリダテス・パパドプーロスなどは、ベネズエラ本土とを結ぶメダーノス地峡を大量の爆薬で破壊してパラグアナ半島を島としてしまうという荒唐無稽な計画まで持っていたという。


 なお、こうしたカリブ植民地には第一次世界大戦後に行われたオスマン帝国との住民交換で押し付けられたユダヤ人や、強制移住の対象とされたアルメニア人などが流入し、独自の文化圏を持つに至っている。



 ・ヘラクレイオス家


 東ローマ帝国の軍人にして貴族である、ネストル・ヘラクレイオスを始祖とするエリュテアの王朝。

 直系は【アルカセル・キビールの戦い】においてエリュテイア王アルケイデス一世が戦死したことにより途絶えたが、親類による《エリュテア侯爵》が残った。

 復権後はイギリスとの王室関係を強め、また永久友好条約に異例とも言える《ヘラクレイオス家は英国領ならびにその財産に対しての継承順位は最後列とする》という改正条項が盛り込まれた。


 


 ・エリュテア海軍の海軍軍縮条約


 第一次世界大戦終結後、エリュテア王国はドイツ植民地の一部とドイツ軍の重火器などを得て、さらなる拡張を果たすことができた。

 しかしながら大戦における戦費は財政に大きな負担を強い、それでもなお海軍拡大を主張する海軍上層部と議会の軋轢は政治的暗殺や弾圧も避けられぬ状況となっていた。

 そんな中で行われたワシントン海軍軍縮条約で、仏伊と同等の英米対比1.75と定められたために、海軍の拡大主張は退けられた。


 この際に拡大主張を叫んだ海軍軍人たちは『艦隊派』と呼ばれ、以後海軍の主流派は軍縮やむなしと主張した『条約派』となる一種の転換点であった。

 『条約派』の中でも国王の信認を受けていたミトリダテス・パパドプーロスは戦間期の海軍技術部の育成と軍艦設計に大きく関わり、海軍大臣にして王国の独裁者として1941年まで君臨することとなる。

 

 なお、この軍縮条約と海軍内部の一新によりカリブ植民地小艦隊を含む『大西洋艦隊』と、欧州沿岸域とアフリカ植民地、本土防衛を担当する『本国艦隊』に艦隊司令部が再編された。

 またこれによって建造中だった巡洋戦艦『フラウィウス・ベリサリウス』の建造が中止、これを空母改装することが決定され、前ド級戦艦の全廃、旧式化した艦艇の延命が行われることになった。

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