≪王国における戦間期≫(仮)
サンジェルマン条約によって厳格な軍縮を定められたオーストリアのローナー社から、工場設備と残された機体や科学者を悪く言って「略奪」よく言って「保護」した。
フロリッツドルフにあるローナーヴェルケの工場からの物品の運び出しは「戦勝国の横暴」として映ったが、実際にはドイツからの賠償金と連合国への石油供給でエリュテア西インド会社の収益が購入資金として当てていたため、代表であるルートヴィヒ・ローナーの了承を得ていた。
また無関係であるにも関わらず、シメオン一世はローナー社の高級馬車とパリ万博で展示されたローナー社のポルシェ博士のハイブリット車に個人的に感銘を抱いていたので、王室からもいくらかの金銭が出ていたと言われている。(ローナーの馬車はエリュテア王室御用達でもあった)
これら回収された機材と人材は輸入一辺倒であった航空機産業の地盤となり、対オスマン戦で戦歴を積んだ《海軍航空隊》が主な顧客となった。
一方で英仏の同意なしに希土戦争への参戦を決定したことにより、戦後の外交関係はパパドプーロスの主張によれば『正常化』された。
戦費と戦争犠牲者に対する補填などにより世界的に沈鬱な空気の中で、パパドプーロスは海軍内での発言力を増大させていき、建艦計画を独占的に運営するようになった。
そうした中で、パパドプーロスへの対抗と軍縮への抵抗から、拡大主張を叫んだ海軍軍人たちは『艦隊派』と呼ばれた。
前座として、大戦における戦費は財政に大きな負担を強い、それでもなお海軍拡大を主張する海軍上層部と議会の軋轢は政治的暗殺や弾圧も避けられぬ状況となっていた。
そんな中で行われたワシントン海軍軍縮条約で、仏伊と同等の英米対比1.75と定められたために、『艦隊派』はこれを不服として行動を起こす予定であった。
しかし『条約派』の中でも国王の信認を受けていたミトリダテス・パパドプーロスはこれを察知し、『艦隊派』は国王からの信頼と議会からの敵視を受けて罷免された。
以後海軍の主流派は軍縮やむなしと主張した『条約派』となる一種の転換点であった。
特にそのトップであるパパドプーロスは戦間期の海軍技術部の育成と軍艦設計に大きく関わり、海軍大臣にして王国の独裁者として1941年まで君臨することとなる。
一方で第一次世界大戦において装甲巡洋艦戦隊を率いて英雄視されたゲオルギウス・エスカンダリアン提督が『条約派』の重鎮となり、パパドプーロスの懐刀として知られるようになった。
世界的軍縮の動きの中にあって、エリュテア王国はまず第一に前対戦で肥大化した海兵隊を縮小することとした。
まずは海兵隊の師団数を本土防衛のためのの八個師団へ削減し、余剰装備ができたことで装備更新への予算を削減し、一方で火砲の供給は海軍の顧客である艦砲製造企業が行うこととなった。
一方で植民地軍に関しては装備や弾薬は王立造兵工廠が生産を担当し、編成と部隊維持は植民地総督府が自ら行うこととした。
これによってエリュテア王国は海軍へさらに注力することができたが、これは致命的な陸軍の脆弱化という大きな犠牲を伴った。
海兵隊の装備、特に火砲は海軍艦艇の砲弾との弾薬共通化が前提で、このために海外製の優秀な火砲を導入することができず、旧式の火砲は機動力に劣った。
野戦砲は旧式のオードナンスBLC 15ポンド砲というありさまで、師団砲兵に至っては海軍砲である14cm速射砲を野戦砲仕様に改造したものが第二次世界大戦に至るまで運用された。
これらの陸軍戦力の弱体化は、シメオン4世の方針というよりは、パパドプーロスの海軍第一主義によるものが大きい。
実際、シメオン4世は海兵隊の機械化構想には前向きな意見を度々発しており、1930年以降の緩やかな機械化は彼の貢献が大きかったとされている。
とはいえ、少ない予算での運営を迫られた海兵隊は、装甲戦力による防衛戦闘に重きを置き始め、ヴィッカース6トン戦車の購入と派生型の開発に至る。
また定数が八個師団と定められてはいたものの、師団以下の部隊構成に関しての取り決めは存在しなかったために『機械化独立混成旅団』が細々と拡充されることになった。
これらの『機械化独立混成旅団』は主として海外植民地における重度の反乱独立運動が発生した際に、速やかに敵首脳部を捕縛、壊滅させることを目的とされた組織であった。
この試みは財政的に厳しく植民地人の反乱という火種を抱えている植民地総督らから支持された。




