≪王国前記≫(仮)
ジブラルタル海峡の西側に存在する諸島国家。
主島はエリュテイア島で、首都はヘスペリデス。現在の王室はヘラクレイオス朝。
エリュテイア島は樺太島ほどの大きさの島であり、小さな島を含めたアトラス諸島群を形成している。
おそらく最初に植民したのはフェニキア人であり、その後にもギリシャ人が居住していた痕跡がある。
古代ローマ時代からその存在を知られており、ローマ分裂後は「ヘラクレスの柱の先にある大地」として「エリュテイア」と呼ばれていた。
小規模の植民などの記録が当時から存在するが、原住民との対立や蛮族の襲撃によってこれらの計画はすべて断念され記録のみが残った。
555年には東ローマ帝国が西ゴートの内乱に乗じてエリュテイアを占領し、西ゴート王国に対する軍事基地として島の整備を開始したとされている。
しかしながら東ローマ帝国はユスティアヌス1世の治世を終え、広大な国土を維持するだけの武力も財力もなく、西ゴート王国にイベリア半島から駆逐された。
その際、エリュテイアに残っていた東ローマ軍などが取り残されたとされているが、ウマイヤ朝の侵攻によって西ゴート王国が崩壊すると、今度はゴート人もこの島に逃げ延びてきた。
強大なウマイヤ朝を前にして島民は東ローマ人の軍人、【ネストル・ヘラクレイオス】が「カトリックと正教の区別なく良きローマの如く寛大に手を取り敵と対峙する」【ヘスペリデスの盟約】をゴート人と結ぶ。
また【ネストル・ヘラクレイオス】は合意の上で(人口比率としてギリシャ人が過半数を超えていた)自らをエリュテイア王として「エリュテイア王国」の建国を宣言、ゴート人は「オレンジ騎士団(黄金の林檎とも)」を結成。
王は正教、騎士団はカトリックという二重構造は、アラブ勢力を前にして運命共同体となった「エリュテイア人」の中で、一種の自然な融合と変化によって【エリュテイア正教】の原型となった。
(ネストル1世とヘラクレイオス朝、エリュテイア王国)
ウマイヤ朝が倒れ、後ウマイヤ朝となると、エリュテイア王国のオレンジ騎士団はレコンキスタに参加した。
しかし、カスティーリャ王国などキリスト教勢力の内部分裂や内紛が多くなると、その火種はエリュテイアにまで及び騎士団の一部がカトリック教国家建国のために反乱を起こした。
この【内戦】はレコンキスタに従軍していたオレンジ騎士団の本隊に伝わると、騎士団長であったフェリクス・アレハンドロが反乱騎士と同調した暴徒を鎮圧し【ヘスペリデスの盟約】を再誓約したとされる。
(近年の研究ではアレハンドロは帰還すると反乱騎士や貴族たちを虐殺し、家財を略奪し、恐怖によって騎士団の威信を見せ付けたとされる説が有力である)
大航海時代のエリュテイアは友好的なポルトガルとの熾烈な冒険合戦を行っていた。
この競争においては時には自殺的な航海者も出現し、海外植民地形成に寄与することもあったが、多くは二度と戻らなかった。
エリュテイアが力を注いだのは主に大西洋沿岸であり、アジア圏にその植民地が現れるのは19世紀後半になってからである。
これらの中継拠点の一つとしてセントヘレナ島にも要塞と港が建築されている。
また到着した年代は不明だが、西オーストラリア沿岸にエリュテイアの航海者のものとされる集落の痕跡が発見されている。
新大陸航海においてはセント・トーマス島、セント・クロイ島、セント・ジョン島に基地を建設、そこからABC諸島に拠点を築き、マラカイボ周辺を探索した。
マラカイボ周辺はアンデス山脈の一部であるメリダ山脈を線として、植民地となったが、ボリバルによる独立運動の煽りを受けて後にエリュテイアは要塞化していたパラグアナ半島を残して南米本土植民地を失った。
騎士団はこの後、【ナバス・デ・トロサの戦い】などに参加し正式に「エリュテイア王国」と「エリュテイア侯爵」が認められたが、一方で第4次十字軍によって東ローマ帝国が本来味方である十字軍によって略奪されると、生き残りの為にヘラクレイオス朝は正教色の強い王室を改革し、カトリック色を帯びた宗教様式とし、周辺諸国との軋轢をなんとか最小限に止めようと努力していた。
しかしながら国内の混乱は避けられずに反乱と王位簒奪を企てる王家を詐称する者達の出現により、王国は【動乱期】と呼ばれる長い停滞と荒廃に興じることになった。
1578年にポルトガル王国とエリュテイア王国がサード朝スルタンと戦った【アルカセル・キビールの戦い】においてポルトガル王セバスティアンとエリュテイア王アルケイデス一世が揃って敗死する。
セバスティアンとアルケイデスは共に未婚であった上、二カ国の貴族も多数が捕虜となり財政が崩壊した。
その後、スペイン王がヘスペリデスを占拠した反乱者を処刑し、ポルトガル王ならびにエリュテイア王を兼ねる同君連合が発足され、ヘラクレイオス朝の親類による「エリュテア伯」が辛うじて存続することとなる。
このスペイン領時代にギリシャ文字文化はラテン文字に同化され、かろうじてエリュテア貴族とエリュテア侯爵がかつてのギリシャ文字を扱うことをステータスとした。
スペイン王国の軍備拡張に伴い、島の港は整備され造船施設が建造され、また民需工廠の一部を国営として大規模な軍需工廠が建設され、稼動を開始した。
これらの発展を支えた、同島出身の豪商ロマノス・エストレジャが戦費出費の功でスペイン貴族に列せられている。
1588年、アルマダの海戦によってスペイン艦隊が壊滅すると、エストレジャはエリュテア伯アルカディウスの摂政ゼノンと結託し、「エリュテア王国」の再独立を宣言。(エリュテア独立戦争)
1589年に実行されたイギリスのポルトガル及びアゾレス諸島遠征においては、イギリス艦隊の寄港地となり、海図や軍需物資などを提供、アゾレス諸島占領に貢献したとされる。
1609年にはスペインとの12年停戦協定が結ばれ、ネーデルラント連邦共和国ならびにイギリスとの結びつきを強めていった。
エストレジャはエストレジャ朝ロマノス1世として暫定即位した(当時アルカディウスは8歳)。
ロマノス1世はオラニエ公マウリッツの影響を強く受け、訓練された陸軍を整備した。
また、独立戦争に参加した海軍軍人アウグスト・リマ・フェルナンデスが提督に就任し、諸島防衛の為に海軍が組織された。
(エストレジャ朝による再独立とエリュテア独立)
三十年戦争においては国内のカトリック・プロテスタントの対立を煽る動きがあったが、摂政に就任したエリュテア侯爵アルカディウスが【ヘスペリデスの盟約】を持ち出し活動を鎮圧。国内不和を最低限に止める。
スペインとの戦争においては遠隔地にあったアゾレス諸島が再占領され、この報復として小規模艦隊がテネリフェ島に上陸し大損害を受け占領に失敗。アウグスト・リマ・フェルナンデス提督が戦死。
艦隊司令官であるフェルナンデス提督の戦死に伴い、かつての騎士団の系統である貴族達を中心に陸軍の発言力が強まっていく。
ヴェストファーレン条約において、《アゾレス諸島の返還》が行われ、エリュテア王国に一時の平穏が訪れた。
ロマノス1世は条約締結の4ヵ月後に死去し、遺言により王位をヘラクレイオス朝に返還、アルカディウス1世が即位する。(復権ヘラクレイオス朝)
ロマノス1世の息子は《エストレジャ専制公》として公爵に選ばれ、エストレジャ家は後のエリュテイア植民地総督を歴任する大貴族家となる。(エストレジャ家の副王化)
この時代から主としてエリュテアの友好国はイギリスとなる。(とはいえ、それは実質的にイギリスの政変に振り回されるということでもあった)
イギリスへの借款によりスペイン時代の施設が近代化され、国内二大造船所となる民間の《ビスカイノ造船所》と国営の《ヘスペリデス王立造兵廠》が整備された。
フランス革命戦争とナポレオン戦争はエリュテイア王国にとって転換期となる出来事であった。
エリュテアはカナリア諸島攻略をもくろみイギリス艦隊と共同して大損害を受けつつもテネリフェ島を占領した。
また植民地確保目的でフランス領セネガルへの攻撃、占領が行われた。
アミアンの和約ではカナリア諸島・セネガルの領土権を認められ、スペイン独立戦争にも介入、ナポレオン戦争ではトラファルガー海戦による勝利によってナポレオンの魔の手から逃れることに成功した。
しかしベネズエラの独立によってマラカイボ植民地が失われ、また植民地においての反乱も起きたことから、エストレジャ公は植民地運営を現地の人的育成によって成熟させる方針転換を行った。
エリュテイアは基本的に帝政ローマの奴隷法を改訂し、奴隷禁止がなされるまでそれを用いていたため、解放奴隷が「準市民権」を持ち、中には高い教養を備えた人物も存在していた。
エストレジャ専制公はこうした人材を集め、出身地と地域ごとに類別し近代化された現地統治機構の建築を始めている。
とはいえ、現地における運営と富の収奪の状況は他帝国とあまり大差はなく、特に重商主義を重視した政策から締め上げは厳しいものがあった。
また、イギリスに対する借款の返済に追われたエリュテア王国は植民地へのプランテーション建設に走ることになり、労働力としての奴隷流入も大幅に増加した。
こうした政策は植民地経営の営利化には寄与せず、他国との競争に一足遅れる形になった。
それでもエリュテア王国の貿易収支はほとんどが地中海貿易であり、植民地での資本は主だったものではなく、もっぱら原材料生産が主眼だった。
本来商人であったロマノス1世はこうした貿易や生産業に対して多くの覚書を残しており、エストレジャ専制公は主にこの覚書によって植民地経営と貿易輸出のバランスを取ろうとしていたという。
(これらのローマ的同化政策はのちのエリュテア植民地戦争と海軍独裁の終焉に繋がっていくこととなる)
(中略)
1884年、王国は植民地経営改革の失敗から始まる金融危機に見舞われ、軍事費の割当において陸軍の要望は全面的に却下された。
これに反発した軍内派閥《現代軍》が保守的軍幹部たちを中心に組織される。
1886年8月21日20時30分、《現代軍》による陸軍クーデター計画《スケディオンⅧ》が発生。
クーデター軍が王宮近衛部隊に同調を求めるが拒否し交戦状態に入り、クーデター軍が駆けつけた警官にも発砲したことから警察もこれと交戦。
通報を受け沿岸砲、海軍陸戦隊が厳戒態勢へ移行し、装甲艦「ディケファロス・アエトス」が出港。
首都ヘスペリデスにおいて海軍陸戦隊及び警官隊と、クーデター軍との市街戦を開始。王宮近衛部隊壊滅、国王はすでに逃亡に成功しており、装甲艦「ディケファロス・アエトス」が国王を保護。
海軍本部前にて駆逐艦「メディア」及び「デュロモイ」の陸戦隊がクーデター軍と交戦し、死傷者を出しながらも警官隊の増援もありこれを防衛することに成功。
海路を完全に掌握し、国王と海軍本部の防衛に成功した海軍と警察は艦砲射撃を開始。
クーデター軍は翌朝の9時までには全面的に降伏し、クーデター計画《スケディオンⅧ》は失敗に終わった。
これにより捕虜となったクーデター軍の中でも指導的立場にあった将校などは全員が軍法裁判にかけられ銃殺刑が執行された。
戦場となった王宮から逃げ出した国王ネストル四世は《現代軍》の殲滅を命じ、クーデター後には退役将軍二名、陸軍将校三二名を実刑判決を言い渡し、後に処刑した。
陸軍はクーデターに直接的に関わっていた上、保身にはかり事件後の調査においても証拠隠滅や容疑者の隠蔽を図ったため、再編過程で海軍主導の陸戦隊としての新設が決定された。
これに反対意見を唱えた陸軍ディミトゥリス・ディアマンディス元帥が国王ネストル四世と議会によって解任されるなどされ、陸軍は名実ともに消え去り、新たに《海兵隊》として再編されることになった。
以後、議会に設けられていた陸軍席は廃され、軍部は海軍が統括することになる。
これは武器兵器などの採用においても統合がなされたということであり、《海兵隊》はこうした合理的ではない武器や兵器を押し付けられることが多くなり、さらには予算問題から装備更新が怠ることになる。
また陸軍の兵器弾薬を製造していた工場も海軍管轄となり、沿岸砲として再利用可能な重砲を除いて装備の売却、《海兵隊》用の武器購入などが行われた。
1900年2月14日、スペイン領ギニアを巡る外交問題から、体調不良で床に臥せっていたネストル四世に代わり、摂政ゲオルギウス王太子の任を受けたシメオン王太子がスペインに宣戦布告。
《アガディール沖海戦》にて、戦艦『ペラヨ』と装甲巡洋艦『エンペラドール・カルロス5世』を含む主力艦隊を撃滅し、海兵隊が艦砲射撃の援護を受けつつモロッコに上陸。
5月4日には西サハラには植民地軍が侵攻を開始し、これによって《カサブランカ条約》が締結、エリュテアはスペイン領ギニア・西サハラと、アガディールより南部のモロッコの一部を割譲した。
1900年6月20日に発生し、事態が悪化した義和団事件においては旧式化していた装甲艦「ディケファロス・アエトス」、駆逐艦「メディア」と「デュロモイ」が参加。
海兵隊は海南島を制圧し、ここを拠点として中国本土に侵攻。この義和団事件が収束化した後、フランスとの通商条約を締結するかわりに、海南島の植民地化が認められた。
派遣された艦隊の帰路で装甲艦「ディケファロス・アエトス」が座礁、大破し、自沈処分された。その名は建造中だった艦隊装甲艦に受け継がれた。
《現代軍》によるクーデターと陸軍組織の吸収は、海軍側に王権の及ぼす権威が広いことを認識させ、ネストル四世崩御後のシメオン一世の時代においては憲法改正により王権が制限されることになった。
この海軍勢力による王権の制限は、兄ゲオルギウスの事故死によって王位を引き継ぐはめになったシメオン一世が、海軍将校であったこともあいまってスムーズに進み、以後《1902年憲法》として長く採用されることになる。
一方で、陸軍と王権という議会における政敵を排除した海軍はさらに発言力を増していき、1960年代まで続く《エリュテアの海軍独裁》が成立したということでもあった。
こうして独裁体制を確立させた海軍は、日露戦争に観戦武官を日本側に送りその戦いを学んだ。
強大な陸軍力と海軍を有するロシアが、極東に一島国の本土にすら達せずに敗北したという事実は、英国のそれと合わせて海軍力こそが国家の護りであるという考えを事実として広めるには充分であった。
そして砲火力と銃弾の雨、十分に要塞化された陣地の有効性は沿岸防衛に積極的な海軍の防衛ドクトリンの根幹となった。
1908年9月には海南島植民地にて漢民族主義者の反乱が勃発し、その鎮圧に海軍が出撃。
艦隊装甲艦「ディケファロス・アエトス」が派遣され、艦砲射撃と海兵隊の《断首作戦》により反乱組織を壊滅させている。
また植民地総督エストレジャ専制公の方針で、アルメニア人やユダヤ人が多く入植させられた。
伊土戦争とバルカン戦争の勃発に際してはギリシャへの支援を行い、それに続く第二次バルカン戦争においても続けてギリシャ支援に回った。
しかしバルカン半島とアナトリアにおけるパワーバランスを第一に考えるイギリスとの歩調が合わず、ギリシャ偏重主義とも取れる行動は批難の的になった。
この頃から海軍内部ではギリシャ系国家によるビザンツ帝国の再興という「メガリ・イデア」主義が浸透しつつあり、イギリスやバルカン半島への影響力の強いオーストリア・ハンガリー帝国との外交的衝突が度々起こっている。