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第7章 癒されない傷跡

「今さら謝ったってフィルは帰ってこないんだよ!!返せよ!フィルを返せ!」

 ミシェルの服を掴んだ私の目からは、半年経っても癒されない心の傷の深さを表すかのような、大粒の涙が溢れて出していた。


 ミシェルは目を背ける。

「フィルは……ナーストレンドで死者の体を裂くことはしません……」

「な…!何言ってんだ今さら!今頃そんなこと言ったって……!」

「嘘じゃないです……」

「じゃあなんであの時認めたんだよ!」

「僕は……認めてなどいません」


「はっ?認めただろ!忘れもしないよ!『よく知ってますね?』って…『この本読んだからですか?』って聞いただろ?」

「僕は、[ナーストレンドで狼が男の体を裂く]ということを『よく知ってますね』と言ったんです……確かにあの北欧神話の本にはそう書いてありましたから」

「それは認めたってことじゃないのかよ!」


 するとミシェルは突然顔を上げ、まっすぐ私の目を見て言った。

「ナーストレンドに住まう狼は、フィルグスだけではありません」

「え…?」

「ナーストレンドで死者の体を裂くのは……先日あなたを襲ったフェンリル一族です」


 フェンリル一族……私を追いかけてきたあの巨大狼……

 私はそれを聞いて、掴んでいたミシェルの服から手を離し、膝の上にその手を落とした。


 ミシェルは再び立ち膝のまま机の上を拭きながら、口を開いた。

「フィルグスは本来、人を守護する守護獣です。

 あなたの本にも載っていた、守護獣[フィルギャ]は女性形で、その姿を見る時守護されるものは死期が近付いていると言います。ですが[フィルグス]は男性形で、守護のみをメインとして動いています」

 私はその言葉を聞いて、少しほっとしていた。



 だがミシェルは言葉を続ける。

「ですが……今はフェンリル一族の支配下に収まっています」

「支配下!?どういうことだよ!」

「言いにくいのですが……」

 そう言って、ミシェルは拭き終わった机の上に、濡れた布巾を置いた。


「フィルは……[フェンリル一族の意図]で、あなたのそばにいたということなんです」

「な…んだって!?だってフィルは私が小さい頃からいたんだよ?そんなはず……!」


「実はフィルは、あなたが[この世界ミズガルズ]に生まれる前から、あなたの[守護]をすることが決まっていたんです」

「うそ……だろ……?」

「もちろんそれは、[フェンリル一族の意図]あってのこと」

「その意図ってなんだよ!なんのために!」


 ミシェルはしばらく言葉を詰まらせた。

「僕は……これ以上あなたの涙を見たくありません」

 そう言ったミシェルは、ベッドに座る私をふわりと抱き寄せた。


「何言ってんだ……涙って……」

 私はミシェルの腕の中で、呆然としていた。



 ミシェルは抱きしめていた腕をゆっくり離し、私の目を見た。


「ラグナロク……世界終末の日と呼ばれる日から、今もなお繰り返されるナーストレンドでの狼一族とニズホッグの争いは、ニズホッグが『嘲笑ちょうしょうする虐殺者』と呼ばれたことにあります。でも、本当の虐殺者は狼一族の長、フェンリル一族だと僕は思っています。

 フェンリル一族は自らの力を見せ付けるためだけに、まだ魂の残る死者を喰らい、色々な術を使い僕らアース神族を陥れようとしています。そして全ての世界を支配しようとしている。それは……アースガルズの創世者オーディーンのいる頃からでした」


「オーディーン……?」

「本にも載っていましたね。そうです。オーディーンはラグナロクでフェンリルに殺されました。他の者たちも……大勢いました……それを運ぶニズホッグ………どんな気持ちで運んだことか……」

「フィルは……その[狼一族]なのか……?私をずっと騙していたのか……?」


「フィルは……[探知機]だったんです」

「探知機?」

「はい。フェンリル一族からあなたの位置がすぐわかるよう、あなたのそばに常にフィルを置いておいたんです。フィルは……あなたを護っていたんじゃない。いつもあなたを見張り、今あなたがどこにいるのかを一族に伝えていたんです。犬は……耳がいいですからね」


 私はミシェルが狼のような犬を連れて音楽事務所に入っていった話を思い出した。


 やっぱり私にそれを知らせるため……?

 でもあれはフィルが死んでから随分経っていた。

 フィルが死んでから私がずっと色々考えていたことを、ミシェルは知っていたのか?


「でも確かにフィルは私を護ってくれてたよ!いつでもずっと!」

 私はそう信じたかった。


「あなたがフィルに護られているように感じたのは、おそらく狼一族以外のものから護っていただけでしょう。例えば僕のようなものから……ね。いつでも傷一つない状態でフェンリル一族にあなたを引き渡せるよう」

「フェンリル一族に引き渡すって……」

「あなたの肩の痣、フィルの胸にもあるということ、気付いていましたか?」

「え……?」

 私は痣のある右肩に目をやった。



「やはり……気付いてなかったみたいですね。その痣はフィルグスの封印です」

「フィルグスの封印……?前に私の腕が白い翼になったのも、それがあるから……?」

「……そうですね……あの時は……白い翼にすることによって[色々]放出していた……とでもいいましょうか……」

 ミシェルは煮え切らない返事をする。


「[色々]って何なんだよ。もっと分かるように説明しろよ」

「痛んでいた腕を翼にしたことで、腕の痛みが消えたでしょう?あれは……[中にあるあなた]の感情を放出させたからなんです」

「[中にあるあなた]の感情……?」

「はい。そしてその封印によって、元々あった能力を抑制されています」

「元々あった能力って……?」

「咲夜、あなたの能力のほとんどは、フィルグスの封印のためにまだ表に出ていません。訓練すれば少しくらいは能力を戻すことができるかもしれませんけど……その前にその封印を僕は解くつもりです。なのでその必要もないでしょう」


「じゃあフィルは……あの時なんであんな残酷な消され方しなきゃなんなかったんだ!」



 ミシェルは一息つき、静かに答えた。

「あの時……フィルが私に飛び掛ってくることもわかっていました。正直なところ僕がそう仕向けたと言われれば否定できません。もちろんあのフィルはあなたがこの世に生まれてからずっとそばにいたわけですから、あなたもきっとフィルからなんらかの悪い影響を受けているであろうと……僕は思っていました。

 フィルから間接的に……狼一族の支配欲・憎悪・残虐性…あらゆる負の思念の影響をあなたは受けているであろうと踏んでいたんです」


「だからフィルをあんな残酷な殺し方して私に見せ付けたのか!」

 私は怒りが込み上げてきた。


「ですがあの時……」

「『あの時』がなんだってんだよ!」

「あの時……僕が見たあなたは涙を流し……ちっともけがれてなどいなかった……」


「それ……どういう意味だよ……私がずっとフィルを信じていたからか!」

 私はバカにされているように感じ、さらに怒りが込み上げる。


 だが、目の前にいたミシェルは、一瞬悲しそうな顔をした。



「あなたは……フィルがいることによって、つねにフェンリル一族に狙われる状態でした。それは事実です。もちろんそれらからあなたを護るために、僕はずっとあなたの近くにいました。そしてできることなら、あなたの目には触れず[事]を済ます予定でした。

 ですがその時期が近付くにつれ、あなたの危険が増してきて……僕はあの時あなたの前に姿を見せてしまった……そして僕はあの時フィルをあんな消し方して……今でも僕はあの時のあなたの涙を忘れられない……残酷なやり方をしてしまった………本当に……後悔しているんです」


【生まれる前からずっと……私はフィルに騙されてた……ずっと私を護ってくれてたフィル……私の守護をしてくれていたと思っていたのは、私の勘違いだった……】


 どれを信じて、どれが真実なのかわからなくなっていた私は、目の前のミシェルでさえ疑う対象となった。



「じゃあ……オマエは何……?また別の何かの[探知機]なんじゃないの?」

「何を……!」

 動揺したミシェルの淡いグレーの瞳が、徐々に濃いブルーに変わる。


「あんなに簡単にフィルを殺せるわけだし、オマエだって誰かの差し金なんだろ?」

「そうじゃない!僕は……!」

「だいたいさ、ニズホッグって死者の血をすするんだろ?オマエ……ホントはニズホッグでさ……、すすってるんじゃないのか?血を……」

「咲夜!」

「いいんだよ、別に……今さらもう何も気にしないよ……。好きにすりゃいいだろ?」


 私は次から次へと口から出る言葉を止めることもできないまま、ベッドで大の字に寝そべった。


「ほら!煮るなり焼くなり喰らうなり、好きにしろよ!ほらっ!」


 返事をしないミシェルは、立ち膝のままうつむき、肩が震えているようだった。

 ベッドに置かれた両手は、固く握りしめられていた。




 しばらくしてミシェルは無言で部屋を出て行った。





───その晩、夢を見た。


 そこは白い世界だった。氷の世界。全てが白く冷たく静かに輝いていた。

その中央には大きな大きな木があった。世界樹と呼ばれる木だろうか。大きな太い幹、てっぺんは空よりも遥か上の方にあるんじゃないかと思えるほど。その大きな木から伸びる枝の先はどこまでも遠く、空一面を覆うほどたくさんの緑の葉を付けていた。その隙間から差し込む光がまた、その氷の世界をキラキラと輝かせた。


 木の根元には泉が湧き出ていた。泉は空に生える緑の葉を映し出し、白い氷の世界の光を反射し、そこに住まうものたちを癒していた。

 その泉に伸びる世界樹の根元の1本には、白く透き通るたくさんの白い蛇がいた。まるで大木の根に生命の泉の水を与えているかのようだった。


 その澄んだ泉の中を覗くと、1体の大きな白い蛇がいた。おそらく顔だけでも私の背より大きいだろう巨大な蛇。

 その大蛇は泉からゆっくりと出てきた。水面から出ると同時に、長い体の色を白から黒へと変えた。額から背中へ、背中から尻尾へ、徐々に漆黒の毛が湧き出るように伸びてくる。

 気付けば四足出ていた。その背中からは黒い羽根に覆われた大きな翼が伸び、優雅に羽ばたいて空へ向かう。

 黒い有翼龍だ。見れば大木の緑の葉が鱗に反射し、キラキラとダークグリーンに輝く。


 これがニズホッグ………



 そして場面は変わる。


 整えられた暗い室内。高級感のある家具やベッドが並ぶ。そこには十歳にも満たないほどの一人の少年がいた。重い足枷を付けて。

 ウェーブのかかった黒髪を、襟足で小さく結んでいるその少年は、届かない位置にある窓を見上げる。頑丈に張られた鉄格子。外からはたくさんの笑い声や、祭りの音が聞こえてくる。

 少年は険しい顔をした。


 すると誰かが激しくドアをノックする。

「おい!急いで準備しろ!東の門が危ない!」


 部屋に入ってきた大男は、2メートルは軽く超えているだろう。茶色の軍服の襟章には赤い石が光る。

 大男は少年の足枷の鍵を開ける。少年はそれを冷たく見下ろす。


「何ぼーっと突っ立ってんだ!早く準備しろと言ってるだろう!」

 少年の足枷を外し、立ち上がった大男は少年を殴り飛ばす。その勢いで少年は近くにあった家具に打ち付けられる。

 少年は血が垂れた口を袖で拭く。そして顔を上げ、大男を睨んだ。


「何だその目は!」

 大男は少年の胸倉を掴み、高く持ち上げる。


「いいんですか?そんなことして」

 少年は大男を見下ろし、冷たく言い放つ。体からはダークグリーンの光が僅かに放出される。

「ちっ!めんどくせぇ小僧だな!」

 そう言って大男は少年を床に叩き落す。

「[対狼一族専属特殊兵器]だかなんだか知らねぇけど、お前だけ特別扱いされていい気になってんじゃねぇぞ!!」

 大男は逃げるように部屋を出て行った。


「フン…特別扱いって……[特別]違いだろ」

 少年は小さく呟き、鉄格子の張られた小さな窓を見上げる。そこには白い満月が浮かぶ。



 それから少年は、ドア近くの壁に何着も掛けられた黒い軍服のうちの一着を羽織り、部屋を出る。そして鉄格子で囲まれた廊下を颯爽さっそうと歩く。

 真っ黒な軍服の詰襟にはシルバーの襟章。その中央にはダークグリーンの丸い石が光っている。軍服の腰から下は切り替えしになっており、黒に近いダークグリーンの布地が膝辺りまで広がる。



「また殺しに行くんだよ」

「恐ろしいねぇ。早く争いなんて終わらせてほしいもんだよ」

「あの子が産まれてこなきゃ、きっとこの世界も争いは消えただろうに」


「あの子の母親は、[ゴデ・オ・オンデ]を口にしたんだろ?それで突然変異に……」

「そうだよ、あのニズホッグの血で出来た氷の宝石だよ」

「お爺様もよく承諾したねぇ……司法神なのに」

「ばかだね承諾してないから隔離されてるんだろ?お爺様も末恐ろしいと」


「それにしても[対狼一族専属特殊兵器]なんて、この世界に必要あったのかねぇ」

「わしらもいつ殺られるかわからないよ?」


 鉄格子の向こうには、腰の曲がった老人たちが、こそこそと話をしている。

 少年はそんな会話も気に留めず、廊下の先にある大きな扉まで行くと、手も触れず扉を開けた。



 そこにはたくさんの武装された男たちが、血だらけになって倒れていた。


「ニズホッグを呼べ。このままでは魂まで消滅するぞ」

 少年がそう言うと、傷だらけだがまだ動ける兵士たちが、びくびくしながら倒れた兵士を脇へ運ぶ。


 ところが別の兵士が、少年の前にひざまずく。

「だっ……駄目です!ニズホッグを……呼べません!」

「なんだと?」

「ナーストレンドでフェンリル一族に止められているようです!」

「やっぱり……また魔狼か……」


 そう言って、少年はバサリという音と共に、黒い羽根の翼を背中に現す。

 跪いていた兵士は逃げるように立ち上がり、恐る恐る確認を取る。

「どっ…どうなさいますか!?」

「先にナーストレンドに向かう」

「はっ」


 その後、少年が向かったナーストレンドでは、ニズホッグとフェンリル一族との死闘が繰り広げられていた。黒い雲が空を埋め尽くし、黒い土と岩ばかりの地面には、うごめく死者たち。その死者を喰らうたくさんの狼。


「結界を張る!その間にお前は死者を拾いに行け!」

 少年がニズホッグに向かい叫ぶと、ニズホッグは強い風を巻き上げ、空へ向かう。

 それと同時に少年は右手を高く伸ばし、宙に円を描き呪文を唱える。



「おのれ……また現れたか……!」

 しゃがれた声を出すのはフェンリル一族のうちの1体。

 黒く大きな体、赤い目はギラギラと光り、少年を鋭く睨む。


 少年はフェンリルの顔を見上げて叫ぶ。

「ここは退いてもらう!」

「邪魔ばかりしおって……」

「邪魔をしているのはお前たちだ!ニズホッグが死者を運ぶ命を受けていることを知っているであろう!?」

「その死者をを喰らうのが我らの定め。邪魔立てはさせぬ!」


「転生の余地のある魂を喰らうのは、お前たちの言う[真]か!」

「我らはその[真]を集める』

「お前たちの行いは、[嘲笑する虐殺者]そのものであるぞ!」

「そう、ニズホッグもその手伝いをしておるのだ。喜べ」

「それが争いを引き起こしているということがわからぬのか!」


「おのれの血、ニズホッグの血が虐殺意欲を湧かせるであろう?おのれも我らの仲間」

「僕はお前たちとは違う!そしてニズホッグもだ!」


 少年は濃いブルーの目を光らせ、強い風を巻き上げる。

 そしてダークグリーンの光を放ち、その姿をニズホッグへ変えようとしていた。



 するとどこからか聞こえる声。


【なぜ僕は生まれてきたのだろう……なんのために……

  なぜ母様はゴデ・オ・オンデを口にしたのか…

   僕は……僕は……特別な能力も何もいらない!

  誰か……………どうかこの僕を消して……………!!】


 ダークグリーンの光の中、空に手を伸ばす少年の頬には、一滴の涙が伝う────



 夢から目覚めた私の頬に、涙が伝っていた。



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