第4章 ほんの少しの後悔で。
『守護はもう必要ないと言ってるんだ!帰ってくれ!』
そう言ってしまったことに、私は少し後悔していた。巨大狼から必死で逃げていた私を助けてくれたのは、まぎれもなくミシェルだった。
あんなものが私を襲ってくる。私は本当に一人で生きていけるのか……
再び恐怖と不安がよぎる。
『まぁいいでしょう。いいタイミングだったかもしれません。あなたの元へ[いずれ来るであろうもの]からあの子は護りきれないでしょうから』
以前ミシェルは言っていた。
[いずれ来るであろうもの]って…さっきのだろうか?
確かにあの大きさでは、きっとフィルは殺られていただろう。
護られていなければ、おそらく私も……
いや、私はもう一人で強く生きていくと決めたんだ……
恐怖心を打ち消し、しばらく坂道を歩いた。
その後、公園が見えなくなる所まで来た頃だった。上空でバサリと音がしたと思ったら、私の目の前に、静かに男が降り立つ。ミシェルだ。その背中には大きな黒い翼。
それでも私はまだ迷っていた。
この目の前の男を信じるべきか信じざるべきか……
「僕はあなたの1番上の兄貴になりましたよ?[フツーの兄貴]ですからご心配なさらないで」
突然目の前で真顔になるミシェルに、私は目が点になった。
「バ…バッカじゃねぇの!そういう問題じゃねぇって言ってんだろ!?だいたいどこがフツーなんだよ!どこが!で、なんで[一番上の兄貴]なんだよ!私の兄貴は一人だ!」
以前雄吾の姉さんが見た[兄貴]のことを思い出した。
ミシェルは真顔のまま話し続ける。
「おかしいですか?かなり[フツー]にしてるつもりなんですけど」
ミシェルは自分の体を上から下まで見た。気付けば背中の大きな翼が消えている。
「あのさ!今はフツーには見えるかもしれんが!でもさ!そういうことじゃなくて!」
「ならオッケーじゃないですか。さ、行きましょうか」
ミシェルは素早くそう言い放ち、くるりと向きを変え、道を歩き始めた。
私はミシェルのその態度に苛立った。
「あほか!どこ行くってんだよ!」
するとミシェルは突然立ち止まる。そしてくるりと振り返った。
「な…なんなんだよ!」
怯む私を見て、ミシェルは淡いグレーの目を輝かせ、にっこりと微笑んだ。
「おうちに帰るんですよ。[僕たちのお・う・ち]へ」
何か企んでいるかのように微笑むミシェル。
「はっ!?何言ってんの!?[僕たちのおうち]って!」
「さぁ行きましょう」
ミシェルがにこにこしながらそう言って、私の肩に手をまわす。すると、私の右腕から大量の白い羽根が飛び散った。
「うわっ!」
ミシェルが私の肩に触れている間、白い羽根がどんどん出てきて、宙を舞う。
「これっ!どうにかしろって!」
「あぁ、すみません」
ミシェルは驚いた風でもなく、軽く謝って手を離した。そして、白い羽根は一瞬にして消えた。
「もう!なんだってんだよ!まったく!」
私はミシェルを横目で見ながら遠ざかるように歩き始めた。
するとミシェルは私の腕ぐいっと引っ張り、自らの体に私を引き寄せた。私の腕からはまたしても白い羽根が溢れ出している。
「なっ…なにすんだっ…!」
私が慌てて見上げると、そこには柔らかく微笑むミシェルの顔がすぐそばにあった。
月明かりに照らされたその顔は、色白な肌、程良い厚みの唇、鼻筋が通っていて、その両サイドには透き通るような淡いグレーの大きな瞳。そこにかかるのは緩やかな弧を描く黒髪。
私はしばらくその人間離れした美しさの顔に見とれてしまっていた。
そしてミシェルは私の耳元にその顔を近付け、優しく言う。
《大丈夫、心配しないで》
私は身動き一つできなかった。
その時、いきなりミシェルは私を軽く抱き上げた。
「やっ…やめろ!離せ!」
やっと我に返った私がなんとか抵抗しようにも、ミシェルが私を抱えて離さない。
そこで私の目に映ったものは、ミシェルの背中にある大きな黒い翼。ダークグリーンに光っている。そこに舞う私の白い羽根は、雪のように見えた。
私はその翼が、先ほど助けてくれた[ニズ]と重なった。
【あの時[ニズ]が現れなかったら、私はどうなっていただろう……】
気付けば私はしっかりとミシェルにつかまっていた。
ミシェルが翼を軽く羽ばたかせると、私たちは屋根よりも高い位置まで行って停止した。そして私たちの周りには、渦を巻きながら冷たい風が吹く。その風に乗って、私の腕から吹き出る白い羽根が舞い踊る。
その中から私はいつも見ている景色を見下ろしていた。
すると、その渦の中から見える周りの景色が一瞬で変わった。
「なっ…!どうなってんだ!」
驚く私に気付いていないかのように、平静なミシェル。
その後風が収まると同時に、私たちはふわりと地面に着地した。ミシェルが私を静かに降ろすと、舞い踊る白い羽根は静かに消えていった。
私たちが着地したのは、一人暮らしをしている私の家の前だった。
二階建て、黒い屋根、黒い玄関、ベージュの外壁。昨日まで放置気味だった庭は、なぜか綺麗に整理されており、今までなかったはずの車も1台置いてある。ダークグリーンの車だ。
表札には[海藤(kaidou)]と書いてある。間違いなく私の家らしい。
「今からここが[僕たちのおうち]ですよ。間違えないで下さいね」
そう言ったミシェルは、にこにこしていた。
「おいちょっと待てよ!突然[僕たちのおうち]とかって言われても!ここ、私のうちだからっ!まさか付きっ切りで守護するつもりか!」
「えぇ。そう決めたんで」
「はぁ〜?勝手に決めんなよ!」
「手続きは完了しています。ご安心下さい」
「はっ?何の手続き?」
「僕がここに住むための手続きです」
「ちょっと待て!ちょっと待て!冗談じゃないよ!なんでここに住むんだ!帰れって言ってんだろ!」
「はい、ちゃんと帰りますから心配しないで」
「心配とかじゃねぇよ!手続きってどう…」
「手続きなんて、ちょちょいのちょいですよ」
「あっ!」
この時雄吾の姉さんが見た[兄貴]は、間違いなくミシェルだったと確信した。
【まさか!まさか!ここへ来ることになったのも、フィルが導いたんじゃなくてコイツじゃないよな?】
ミシェルはにこにこと笑ったままだ。
私は顔面蒼白になった。
「意味わかんねぇよ!ぜんっぜんわかんねぇって!」
「あ、僕たち腹違いの兄と妹ですから。よろしく」
「っはぁ〜〜〜〜〜〜っ?まじで〜?」
ミシェルは笑顔のまま[僕たちのおうち]の門を開け、さっさと玄関へと入っていった。
私はというと、当然門から入ることも出来ず、しばらく門の前で頭の整理をした。
【そういやさっき『開放されるまで』って言ってなかったか?開放ってなんの?】
改めて自分の右腕を見た。どこからどう見てもフツーの腕。多分……。
【羽根、生えてたよなっ?なんなんだよ『中にあるあなた』ってさぁ!】
徐々に冷静になると同時に、少しずつ状況を思い出してきた。
【あ!あいつ!やっぱ人間じゃないのに…私の兄貴だって?なんなのアレ?ニズって言ってたけど、ニズホッグルならナーストレンドにいるんじゃないのか?消えたあの巨大狼は…フィルと同じ死者の国ナーストレンドへ行ったのか…?フェンリルの末裔って言ってたけど、フェンリルとは違うのか…?】
思考回路はどんどん回転を増す。
【それにしてもアイツ……マジで一緒に住むつもりなのか?進学する高校が急に変更になったのも、ここへ引っ越すことになったのも、アイツが仕向けたとしたら…なんのためになんだ】
その後私は、自分があまりに興奮していることに気付く。
「って、こんなことずっと考えてても仕方ないか…。ちょっと落ち着こう…」
しばらく深呼吸を繰り返してみた。そして自分の家族のことを急に思い出した。
【あぁ…どうしたらいいんだろう……母さん……父さん………】
【父さん…?】
「あぁあぁぁっ!落ち着いてる場合じゃないって!オトコと同居って!父さんになんて言えばいいんだよ〜っ!しかも見知らぬオトコォ〜〜ッ!絶対追い出さないと!ヤバイって絶対!」
半ば発狂するかのような声で思わず私は叫んだ。
すると玄関からミシェルがひょっこり顔を出した。
「そんなとこでブツブツ考えてないで〜早く家に入らないとまた狼来るかも〜」
「えぇっ!」
「なんてね」
全てを見透かすようなグレーの目を細め、イタズラっぽくミシェルは笑う。そして、門の前にいる私に何かを投げてきた。私は慌ててキャッチした。
それは、フェンリルの末裔に追いかけられる直前、コンビニで買った缶コーヒーと同じものだった。どうやら私が投げ捨てたやつっぽい。その証拠に横が不自然に凹んでいる。
「それ、砂糖多すぎですね。太りますよ?」
玄関口からミシェルは淡々と言った。
「じゃかあしいわっ!」
私はその缶コーヒーを玄関の方へ勢いよく投げつけた。
ミシェルはそれを上手く受け取る。
「僕が今からブラックでコーヒー作っときますね。[子供]じゃないんだから、飲めないなんて言いませんよね?」
そう言ってにっこり笑ったミシェルは、玄関をパタリと閉めた。
私はというと、[守護はいらない]と言ったことを後悔するどころか、その後悔自体に後悔していたのだった……
【アイツ!!絶対追い出してやるっ!】
***
トントントントントン……リズミカルな音。これはキッチンから?
何か切ってるのかな…
あぁ〜…いい匂い〜…これは…お味噌汁の匂いだ〜。
そうか、さっきはネギを切ってたのかな、あぁ〜早く食べたいなぁ〜…
目覚ましが鳴ってもいつも起きられない私は、寝ぼけていて夢の中なのかどうかまだわからない。
「お味噌汁…食べた…い……」
今すぐ食べたいと思った。
すると、返事が返ってきた。
「い…ですよ。ちょっ…待って下さ…ね」
途切れ途切れに聞こえる。
ベッドで横向きに寝ていた私は、その声をヘンにも思わず、ごろんと寝返りを打ち大の字になる。そして、再び夢の中へ…
トントントントントン……今度は誰かが階段を上る音?誰だろう?
ガチャリと部屋のドアが開く音が聞こえる。
「咲…、味見…てみます…?」
さっきより味噌汁の匂いがする…いい匂い……
私は咄嗟に返事する。
「食べ…た…い……」
しばらくして、くちびるに柔らかい感触。そこから注ぎ込まれる温かいもの……
私はそのままごくりと飲んだ。
いい味…
………ってこれ! 味噌汁のつゆ?
私はあまりにもリアルな味に、驚いて目を開けた。
するとそこには信じられない光景が……。
「おはよう咲夜。味噌汁のお味はどうですか?」
そう言ったのは、私のすぐ目の前…鼻と鼻が触れるほどの距離の……
……オトコ〜〜〜〜ッ!
「なっ……!…げほっ!げほっ!げほっ!…ごほっ!…ぐふっ!」
私は思わず味噌汁を噴出してしまった。
ミシェルは近づけていた顔を素早く離した。
「大丈夫ですか?」
ベッドの横に立つミシェルは、平然と真顔で言う。
「ばっ!ばかやろう!ミシェ!何してんだよっ!…げほっ」
「何って……僕の世界では皆こうして起こしますが?」
「ハァ!?ありえねぇだろ!!絶対ねぇよ!冗談にしてはキツすぎだよっ!」
私はミシェルの唇をまじまじと見つめる。
だがミシェルは真剣な顔をしている。
「信じませんか。無理もないですね」
ミシェルは残念そうに言う。
「おい…まじかよ……」
私はそのまま信じた方がいいのか一瞬考えた。
「さぁ、起きて!起きて!朝ですよ〜!遅刻しますよ〜!」
ミシェルはごまかすように言って、味噌汁の入っていたお椀を持ち立ち上がった。
目に入ったグリーンのエプロンは、ミシェルが新調したのだろうか?ミシェルはうちにあるはずのないエプロンをつけていた。
いつの間にかカーテンは開けられており、眩しい光が降り注ぐ。そこからは私の大好きな海が、暑い夏の日差しでキラキラと輝くのが見えた。
そして、乱反射した光の先の布団には、味噌汁が染み込んで………
「ちょ…ちょっと待て〜っ!この布団どうしてくれんだよ〜っ!」
私は慌ててミシェルを引き止める。
「あ、僕食事は作っても、洗濯はしませんよ?女の子の……ですからねぇ?」
ミシェルはニヤリと微笑む。
私は一気に顔が赤くなるのを感じた。
「余計な気遣いすんなっ!」
私は手元にあった枕をミシェルに投げつけた。
バタンという音と共に、ミシェルは素早く部屋を出る。
「下に朝食の準備できてますからね〜」
閉められたドアの向こうで言ったミシェルが、パタパタと階段を下りてゆく。
私は唇を押さえ、今起きた出来事をじっくり考えてみた。
口の中には味噌汁の味。確かに味噌汁は口の中に入ってきた。どうやって?
どこまでが夢で、どこまでがリアルだったのか……考えても思い出せない。
まさか…まさかねぇ…………
〈ジリジリジリジリ……!!〉
私はその音に驚き、ベッドから飛び上がる。
音の発信源は目覚まし時計。7時だ。
「やべっ!」
私は慌てて制服に着替える。
それから出かけるまでずっと、なんとなく恥ずかしくて、ミシェルが何か話しかけてきても無視していた。
そして私は今朝の目覚めのことを思い出さないように、昨日のことを考えた。
あのフェンリルの末裔と言った巨大狼、ニズホッグから変身したミシェル、以前の挑発的ではないあの笑顔、おそらくフィルが消えてからすぐにミシェルが裏工作をしていたであろうここへの転居。
[咲夜……その右腕、痛むか?ふはは!……我らに全てを渡せばその痛みも消えように]
あの巨大狼が言った言葉…狙うのは私の腕…?
とりあえずミシェルが作った和朝食も食べた。どこで覚えてきたんだか。いつもは一人でパン齧ってる私には美味しいと思えたが、あえてそれは口に出さなかった。
それより…ミシェルを追い出すことも考えたが…その前に、謎を解くことが優先かもしれないと思った。
「いってらっしゃ〜い!」
エプロンを付けたミシェルが玄関の外まで出てきて手を振る。
驚いた私はミシェルの元まで駆け寄り、小声で言った。
《あのさ!出てこなくていいから!》
《いいじゃないですか。皆こういうのやってるでしょ?》
なぜかミシェルも小声になる。
《そういう意味じゃなくて〜!私一人暮らしのはずなのに、オトコが家の中から出てきたらオカシイだろ!!しかもエプロン付けてるしッ!》
そう言って私はミシェルのエプロンをぐいっと引っ張る。
だが、ミシェルもそれを取られまいとエプロンを押さえる。
《気に入ってるんですから外しませんよ?》
《外さないなら中に入れ!》
そんなやり取りをしてる矢先に、道路から声がした。
「よぅ!」
《ほら!来ちゃったじゃん!》
全身から汗が出るようだった。
声のする方を見た私は、再び冷や汗が。
声の主はクラスメイトの雄吾だった。いきなり見つかったのが雄吾だったことに、私は相当落ち込んだ。アイツは絶対詮索してくるに違いない。
雄吾は[兄貴]を見てどんな顔をするのか。
不安になった私は、慌ててミシェルを玄関に押し込もうとしたが、ミシェルは動じない。
《ちょっと!何やってんだよ!中に入れって!》
《何言ってんですか。ご挨拶しないとね》
《バカ!挨拶なんてしなくていいんだよッ!》
慌てる私をよそに、ミシェルは強引に雄吾の方に歩み寄っていった。
私はさらに[ミシェルと出会ってしまったこと]自体を後悔した……。