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第3章 再会は氷降る風の中で

 兄貴ではない[兄貴]の存在を知った日から数日後の日曜日。

 夕方とは言えまだ蒸し暑かった。


 その時私はひたすら走って逃げるしかできなかった。

 コンビニを出てすぐに突然現れたその巨大な気配に、嫌な予感がしたのだ。走っている途中、コンビニで買った缶コーヒーは邪魔になり、すぐに放り投げてしまった。



 薄暗い夕空の下、たくさんの車のライトが通り過ぎる公道を左に曲がり、自宅へ向かい走る。ゆるい坂道とはいえ、上り坂は結構キツイ。まだ留守の家ばかりだったのか、住宅街を通っていても家の明かりがほとんどなく、所々ある街灯がついているだけだった。自宅までの坂道を、息を切らし、とにかく駆け上がった。

 そして私の右腕の痣の辺りがどんどん痛くなってくる。私は痛む右腕を抑える。


 走っても走っても、その巨大な気配はゆっくりと後ろを追ってきていた。


 電線にとまっている鳥たちも、街灯に集まる虫たちも、その気配が近付くごとに激しい羽音をたて逃げ惑う。その巨大な気配が街路樹に当たれば不自然に木の葉が落ち、通過した道は砂埃すなぼこりが舞い上がる。


 夢中で走っているうちに嫌な予感は恐怖に変わり、ただひたすら逃げるのが精一杯。その時、長い髪を一つに結んでいた白いレースのリボンが取れたのも気付かないほどだった。



 時々後ろを振り返ると、巨大な気配は黒っぽいということに気付く。そこから伸びる四足でゆっくりと歩く姿は、軽く住宅の1階の屋根を超えていた。私は必死に走った。


【こいつ!なんなんだよ!なんで私を追いかけてくるんだよ!とにかく…もっと広い場所探さないと!】


 そう、今日に限って昼間の授業中から右腕は痛んでいた。生まれつきある右肩の痣の辺りからじわじわと。筋肉痛とも違う。腕の中で、何かが自己主張するような反応。今までも時々右腕が痛む時があったが、筋肉痛か何かだと思っていた。

 例えば今日の昼間の痛みを筋肉痛でないとするなら、あの日アイツが現れた時のような、ピリピリする痛みだったと言えるだろう。


 でも、今のこの痛みはなんだ。腕に力が入らない。ズキズキとして……

 恐怖と痛みと夏の暑さとで、たくさんの汗が頬を伝った。私は家とは違う方向に走ることにした。


 そのままひと気のない広い公園まで走ると、私は息を飲み、痛む右腕を押さえ、急いで公園の中に入る。全速力で走ったからか、息が苦しい。薄暗い中公園内を見渡すと、テニスやバスケができるようにラインが引いてあった。公園のふちには所々木が植えてある。


 私は意を決し、公園奥辺りまで入り、くるりと振り返った。追いかけてきていたその巨大な気配は、腰ほどの高さのフェンスを軽く跨ぎ、私の目の前まで来た。そして立ち止まり、白い息を吐いた。


 私は恐怖心をかき消すように叫んだ。

「おまえ!何の用だ!私を喰らうつもりか!」

 その気配は、今にも飛び掛ってきそうなほど鋭い目でこちらを睨んでいるのが分かる。私は恐怖心を抑えるのに必死だった。

 そんな中よく見てみると、それは黒っぽい狼のようだった。だが普通の狼よりも毛が長め。そしてこちらを睨む血のように赤い目と、その上に立つ尖った耳。私は雄吾の姉さんが見た[狼のような犬]のことを思い出した。それと同時に、北欧神話に出てくる魔物の一つが頭に浮かぶ。


「何のためにここへ来た!おまえは何者だ!」

 その問いに、巨大狼は微かに口を開いた。

【咲夜……その右腕、痛むか?ふはは!我らに全てを捧げればその痛みも消えように】

 頭の中にそのしゃがれた声は響いた。

「?なんで私の名前知ってる!おまえ、何者なんだよ!」

【我か?……我はフェンリルの末裔………】

「フェンリル……!」


 その瞬間だった。巨大狼は体を低くしたと思ったら、鋭く赤く光る目をギラギラさせ、大きく口を開けた。そしてそのままこちらに飛び掛ってくる。


【もうダメだ……!】

 そう思い、咄嗟とっさに目を閉じた。



「ん……?」

 なぜか喰われる気配がない。

 おかしいと思い恐る恐る目を開けると、目の前の巨大狼は大きな口を開けたまま、飛び掛る直前の態勢で固まっている。私は何が起きているのかわからなかった。

 その直後、氷のように冷たく強い風と共に公園内が一瞬暗くなった。汗をかいていた私の額も乾いてゆく。上を見上げると、ダークグリーンの光を帯びた、体の長い大きなものが頭上を通る。そして暑い夏の地面に、雪のような氷の粒が音もなく降り注ぎ溶けてゆく。


 [それ]は、黒い翼でバサバサと音を立てながら、公園内に大きく渦を巻く。吹き荒らす強い風で公園の木々が折れそうになっていた。青々と茂った木の葉が飛び回り、公園の端にあった小さなブランコが、外れそうなほどの音を立てた。

 私まで吹き飛びそうなくらいの強い風に、私は立っていられなくなりその場にしゃがみこんだ。そして、近くにあったベンチの背もたれにつかまりながら、目を凝らした。


 公園いっぱいに渦を巻く[それ]は、四本の足に指が三本、鋭い爪を付けている。黒に近いダークグリーンの大きな鱗が覆う長い体、額から背中、尾まで続く漆黒の毛は波打つように揺れている。その背中には黒い羽根の大きな翼。長い二本のヒゲを付けたその顔は、竜のような、あるいは蛇のような顔だった。体と同じ鱗で覆われたその顔にある、濃いブルーの大きな目がこちらを見ていた。



 強い風の渦の中にいる、身動き一つしないその巨大狼は、何か術のようなものをかけられている……?そしてあれは有翼龍?有翼大蛇?

 私はその美しく光る風の渦を見ながら、何であるのかを思い出そうとしていた。


【ニズ……】

 ささやくような男の声が頭の中に響く。間違いなく先ほどの巨大狼の声の主ではない。

【[ニズ]でいい。そう呼んで】

 こちらを見つめる濃いブルーの目が、自らの声であると言っている。


 [ニズ]ってまさか……


 私はその名前に一瞬躊躇ちゅうちょしたが、わらにでも掴む思いでとっさに叫んでいた。

「……ニズ!」


 [ニズ]と自らを呼ぶその長いものは、竜巻のように風を巻き上げ、公園いっぱいに渦を巻いたその体で巨大狼に絡みついていく。そして大きな口を開け、動きを止めた巨大狼の喉元に喰らい付いた。

 強引に術を解いた巨大狼が仰け反りうめき声を上げる。

 巨大狼の喉元から飛び散る血。だが[ニズ]が黒い翼を振り下ろすたび、その血は次々に赤い花びらへと変わっていった。


 私は思わず目を見開いた。


 真っ赤な花びらはダークグリーンの風の渦に乗って、まるで公園で舞い踊っているようだった。血のように赤い花びらとダークグリーンの光の乱舞。私はその美しい情景に見入ったのだった。



 しばらくして公園が静まり返った頃、巨大狼の姿は消えていた。そして、[ニズ]は月の光を浴び、白く光る風を静かにまとう。そのまま背中の大きな黒翼を閉じたかと思うと、渦を巻く風の中でその姿を徐々に小さくしていった。


 そこに立つのは、見覚えのある黒髪の男。彼の後ろには白い満月が浮かぶ。背中にはダークグリーンに光る黒い大きな翼。そして暑い夏を感じさせない涼しげな顔にある、その瞳は濃いブルー。


【ミシェル・ニズ・フォルストです。遅くなりました】

 頭の中に静かに響く声。


 先ほどまでの恐怖感と、急にそれから開放された安堵感と……

 そして見覚えのある顔。一瞬にして半年前のあの忌まわしい出来事が頭をよぎる。


 私は再び訪れた恐怖で言葉が出なかった。




「遅くなりました」

 長めのショートウェーブの黒髪、スラリと細身の背の高いその男は、ベンチの背もたれに捕まりしゃがみこんでいた私に軽く頭を下げ、右手を差し出す。[あの時]と同じような黒尽くめの服。そして[あの時]と同じ白い満月が辺りを照らす。背中には発光する黒い翼。


「な……なんなんだよ!何しに来たんだ!」


 我に返った私は恐怖心を打ち消すように、差し出されたその手を払いのけ、すぐに立ち上がった。すると、雨も降らないのに濡れているその公園の中央辺りに、大量の赤い花びらが落ちているのが視界に入る。


 私は全身の血が凍りつくような気がした。そして、あの時開いたページを思い出す。


[ニズホッグ。世界樹の根の一つをかじり、氷の世界を護る蛇。終末の日には翼に死者を乗せて飛ぶ黒き龍となる。『嘲笑ちょうしょうする残虐者』の異名を持つ]


 まさか…!こいつがニズホッグ?


「女の涙は嫌いですからね」

 そう言ったその男は、以前の冷酷残忍な雰囲気ではない。その優しく穏やかな声に私は躊躇ちゅうちょした。波打つ髪を揺らしながら、頭を上げた男の目は、淡いグレーになっていた。


 これがあの時フィルを殺した男?

 あの時の冷酷な雰囲気など微塵みじんもない。もっと柔らかな……


 雄吾よりも高い位置から、男は優しく穏やかに話を続けた。

「その右腕、痛みませんか?」

 私はすぐに返事ができずにいた。


 あの時、『右腕、大丈夫ですか?』とうっすら笑みを浮かべた男と同じなのか…?

 でもコイツ……もしニズホッグなら……死者の血をすする……?


「べ……べつに痛くねぇよ!」

 私の頭の中は混乱していた。

 その時すでに私の右腕は痺れ、ほとんど感覚がなくなっていた。

「では、見せて頂けますか?」

 そう言われ、私は力のない右腕を見下ろした。長い髪が垂れ落ち、ようやく結んでいた白いレースのリボンが取れてなくなっていることに気付く。


「こちらが先ですか?」

 そう言いいながら、ミシェルは私の後ろに立ち、素早く私の長い髪を両手にまとめた。

「何やってんだ……!」

 驚いてミシェルの手を払いのけたその時、私の右腕はミシェルの手に掴まった。


 長く綺麗な指。

 あの雄吾とは大違いの、綺麗な手。


 ミシェルの手によってまとめられていた私の髪は、静かに背中に垂れ落ちる。私は腕を掴まれたままの状態で、勢いよく振り返り、ミシェルを睨んだ。ところがミシェルは、私が落としたはずの白いレースのリボンをくわえていた。


「そのリボン……!」

 私が驚く間もなく、ミシェルはそのまま魔法でも使ったかのように、素早くリボンを私の髪に結ぶ。私は呆然と立ち尽くす。


 その掴まれた私の右腕は、すでに感覚が麻痺しているのか、まるで自分のものではないようだった。ミシェルはそっと私の右腕を真横に伸ばし、その綺麗な手のひらで軽くなぞる。そして瞬時に私の腕から強く白い光が放たれる。


「うわっ!なんなんだよこれは!」

 私はあまりの眩しさに、顔を背けた。


「これで少しは楽になるはずです」


 恐る恐る向けた目の先には、眩しい白い光。その中に白い羽根が一つ、二つ、三つ……

次々に舞い上がる。右肩の痣が電気を通したかのようにビリビリとする。


「……いっ…痛っ!」

 ビリビリが限界に来て、右腕全体に激しい痛みを感じ、思わず私は目を閉じた。次の瞬間、私の右腕から急に痛みが消え、ふわりと軽くなった。


「えっ?」

 驚いてすぐに目を開けると、私の右腕は眩しい光に包まれ、真っ白な羽根の翼になっていた。


「ちょっ!ちょっと!どういうことだよ!」

「これで[中にあるあなた]は楽になったはずです」

「何言ってんだよ!どうにかしろよ!」


 ミシェルが手を離すと一瞬にして眩しい光が消え、元の腕に戻った。

 私は痛みも何もなくなった右腕をだらりと下に垂らし、地面に座りこけてしまった。


「大丈夫ですか?」

 ミシェルは動けない私を見下ろし、優しく手を差し伸べた。


「だっ……大丈夫に決まってんだろ!」

 我に返った私は、ミシェルの手を振り払い、慌てて立ち上がる。


 するとミシェルはため息をつき、以前のような冷たい口調で言った。

「これからしばらくお供させて頂きますので」

 ちらりとこちらを見た目は冷たいブルーの瞳。


 やっぱり[あの時]のミシェルだ。フィルを片腕で殺した男!!


 それでも私は負けじと言葉を続けた。

「何言ってんのあんたさ〜!お供ってなんのだよ!?私はね!決めたんだよ!フィルがいなくても一人で強く生きていくって!あんたがそばにいても迷惑なんだよ!」


 ミシェルはしばらく黙り込んだ。


 そして再び口を開く。

「[開放されるまで]……です。それまでですから」

「なんだよそれ!わけのわからんことを……!」


 ミシェルは少し笑みを浮かべ、さらに言葉を続ける。

「大丈夫ですよ、僕はフツーですから」

「フツーってなにが!!なんのこと言ってんの!オマエなんて……」


 だがそこで、私は次の言葉を躊躇った。


【そういえば……こいつは以前私を護ると言った。だが、私を守護していたフィルをいとも簡単に消した。本当に私を護るつもりなのか……それにこいつは何者なんだ……】


 私はふいにフィルのことを思い出した。


【いや、ダメだ……私は誓ったんだ……一人で強く生きていくと…!!】




 そして私はミシェルを睨み、ハッキリと言った。

「[守護はもう必要ない]と言ってるんだ!帰ってくれ!」

 私は捨てゼリフのつもりでそう言い放ち、そのまま公園を出て家に向かった。


 だが歩いている途中、ほんの少し、ほんの少しだが、言い過ぎたかと私は後悔し始めていた。少なからず、あの恐怖の中で私はどうすることもできなかった。そして、ミシェルはそんな私を助けてくれたのだから……


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