第2章 近付く足音
フィルが消されてから数日後。私は職員室に呼び出され、突然告げられた。
「海藤!やったな!宇美塚高校へ入れるぞ!」
あと一週間で卒業式だというのに、数ヶ月前試験で落ちたはずの第一志望の高校に入学することとなった。先生の話では、空きができたからだと言うけど…確か私は補欠にも入ってなかったはず。一瞬変だと思ったが、きっと死んだフィルが導いてくれたのだろうと勝手に思っていた。
それからめでたく卒業式を迎え、第一志望だった宇美塚高校へ入学した。
そしてフィルが消されてから半年後の八月半ば。
元々住んでいた所から車で三十分ほどの所にある住宅街で、私は一人暮らしをしていた。第一志望の高校への入学が決まると同時に、『今空いているから使ってくれ』と両親の知人がタイミングよく言ってきたらしい。
2階建ての一軒家に、私一人で住むにはちょっと広すぎるし、電車でなら十分通える距離だと思ったのだが……。
その住宅街は、海の見える丘の上にある。そこから歩いて十五分前後の所にある高校への道のりは、見渡す限りに広がる青い海を正面に見据え、その丘を下っていく。そして緑に茂る街路樹の隙間から光る太陽が、キラキラと道路を照らす。
坂はキツイけど景色は凄くいい。私はこの街の景色が大好きだ。私がここの高校を第一志望に選んだのも、ずっとこの景色を見たかったからだった。
───「どうだ、綺麗だろう?」
私が小さい頃、空も真っ暗になった時間に、両親が連れてきてくれた。
広い広いその海に映る月は、ゆらゆらと輝きとても綺麗だった。私は、海沿いを走る帰りの車中でも、その光景が見えなくなるまでずっとずっと眺めていた。
今でもあの景色は忘れない───
私が一人暮らしすることになったこの家も、丘の上にあるだけあって、南に面した2階の部屋の窓から海がよく見える。1階からは周りの家が邪魔をしてほとんど見えなくなるが、私の寝室を2階にしたから、まぁいいとしよう。
『きっとフィルがここへ導いてくれたんだ。これからは一人で強く生きていく!』
ここへ引っ越してすぐに、開け放した2階の窓からこの景色を見て決意を固めた。
この時はまだ、この突然の出来事の全ては、フィルのおかげなんだと思っていた。
「よぅ!」
高校までの道のり、びっしりと建つ住宅の間の坂道を下り歩いている時、威勢よく後ろから声をかけてきたのは、薄茶色い短髪の体育会系男、柏木雄吾だった。同じ高校に通う近所のクラスメイトだ。
ヤツはいつもこの辺りで後ろから声をかけてくる。きっと、先に家を出るのは私だろうが、うちより少しだけ上の場所に建つ雄吾の家からヤツが普通に歩いてきても、おチビな私は海を見ながらのんびり歩いているからすぐに追いついてしまうんだろう。
隣に並ぶと彼は私を見下ろす。身長差三十センチ弱はあるか。
成績の悪い私たちは補習授業を受けるため、夏休みだというのに毎日高校へ通っていた。
「おぉ。雄吾おはよう。今日も暑いねぇ」
私は海を見たまま日陰の下を歩いていた。
「海なんか見ながら歩いてると事故るぜ〜」
「えっ?」
『事故る』と聞いてフィルを思い出した。
フィルが消される前まで、フィルは私を色々なものから護ってくれていた。
そう、車にひかれそうな時も……それで私はつい後ろを振り返ってしまった。
ごちっ。
チカチカと星がチラつく朝だった……。
「イタタタ…。電柱あるの知ってて後ろから声かけんなよ〜」
「ハハッ!まさか電柱にぶつかるとは!まぁ車にひかれるよりはマシだろ?」
ニヤニヤしながら雄吾は言う。
「オマエに教えてもらわなくても車くらい避けて歩けるっつーの!」
「相変わらす咲夜はクチ悪ぃなぁ〜。いい加減女らしい言葉使えよ。女らしくしたら結構カワイイと思うけどなァ?」
「黙れ!私はこれでいいんだよっ!」
私はぶつけた頭をさすりながら、また海を見て歩いた。その後ろから雄吾が満面の笑みでついてくる。雄吾はいつも私に女らしさを強要する。特に言葉使いとか。それがなきゃいいヤツなんだけど……
「なぁ咲夜〜、お前なんで海が好きなの?」
雄吾は私の横に来て、高い位置から私の顔を覗き込んできた。
「別にぃ。好きなものは好きなんだよ。悪いかよっ!」
私は近づいた雄吾の顔を押しのけ、ちょっとムッとして言った。
「だいたいさ、オマエに理由言ったところでこの感動が伝わるとは思えんしな。『海好きに悪いヤツはいない』って言うの知らないのかよ」
「ハッ!そ〜んなこと言わねぇよ。それを言うなら『ギター好きに悪いヤツはいねぇ』っつーの」
「ハァ〜?それって誰のことだよ?」
「オレ!オレ〜!オレサマに決まってんだろ〜!」
雄吾は体育会系なガタイしてて、ギタリスト目指してる。運動神経がいいからそっち系目指せばいいものの……。重いカバンを持つ雄吾の手も、指が短くてゴツゴツしている。この手で弾けるんだろうか?
「冗談だろ〜?ギタリストには到底見えん!」
「オレは生まれつきギタリストなんだッ!」
「ははは!ムリムリ!絶対向いてないって!オマエにゃ無理だ〜ッ!」
「うるせ!向き不向きは関係ねぇっつーの!」
そんな会話をしながら、私たちはしばらく歩いていた。
それから数分歩いた後、雄吾が突然何かに気付く。
「あ〜っ?なんだあれ?真っ赤じゃん!」
雄吾が指を刺したその先には、短い草がうっすらと生えている空き地があった。
家が2〜3軒建ちそうなくらいの広さで、砂利がひいてある。道路に面した場所に[売り地]と書いた看板が立つ。そしてその周りを囲む、高い塀ばかりの家。
特に目についたのは、その空き地の一角の、不自然に散らばるたくさんの赤い花びら。
私は一気に血の気が引いた。
そしてすぐさま半年前のあの情景を思い出した。
あれは私が生まれ育った街で起こった出来事。ここはあの街から車で三十分のところにある隣の市。なぜまたここに花びらが?
「ははは………。花が散ったんだ〜。こんな真っ赤な花咲いてたんだな〜」
私は適当に思いついたことを言った。きっと雄吾にあの話をしても信じない。
「ばかやろう!こんな花咲いてなかったって!」
雄吾のその言葉にドキリとした。
なぜなら、その空き地には木すらなく、草ばかりで花など一つも生えていなかったからだ。
「これってさ、バラっぽくね?ここにバラなんてないだろ?なんでだと思う?」
雄吾は道路と空き地の境目辺りで頬杖をつき、推理し始めた。
私は答えに詰まった。
「う〜ん……あ、じゃあ誰かがプレゼントに赤いバラの花束貰ったけど、『やっぱいらな〜い』ってそこらに散らばしたとか〜!」
「嫌いなやつに貰ったってか?」
「そうそうそう!絶対そうだよ〜!」
私は白々しい作り話をしながら、頭の中でぐるぐると考えていた。
『嫌いなやつ』?
雄吾の言った言葉を聞き、思わず頭の中に、あの冷血残忍男が浮かんだ。
私はあれから半年経った今でも、フィルの花びらとヤツの黒い羽根を持っている。私の右肩にある痣と同じ紋様の入った白いハンカチと共に。
「そうそう、超大嫌いなやつに貰ったから捨てたんだよ」
海を見ながら私はつぶやき、その場から逃げるように坂道を下りて行った。
ミシェルがこの街に来ている。そしてまた何ものかが消されている……?
私はポケットに手を入れ、あの忌まわしき白いハンカチを握りしめた。
今朝ミシェルのことを思い出してから、学校に着いても一日中授業に身が入らず、何の変化もない右腕を時折押さえ、ずっと私は考え込んでいた。椅子に座り教室の窓から見える景色は、いつもと変わらない私の大好きな海が見える。
「おい!また海見てんのか?そろそろ帰ろうぜ」
雄吾は私の机の上に勢い良くカバンを置き、先日やった補習テストの順意表を、私の目の前にチラつかせた。
「あ!ちょっと見せて!」
私は慌てて順位表を奪い取った。
「ハハハ!今回はオレの勝ちだぜ〜!」
私の頭の上から順意表を覗き込み、雄吾が言った。
順意表の下から2番目に柏木雄吾、1番下は海藤咲夜。実はクラスで最下位を奪い合う二人、補習授業でも最下位を争っていた。
「あのなぁ!しょうがないんだよ!ホントは私この学校に入れなかったんだから!」
私は立ち上がって、雄吾の胸に叩きつけるようにカバンを渡した。
「またその言い訳かよ〜。入試ギリギリ合格すっとこんなもんだよなァ〜?アッハッハ!」
雄吾は私の肩の上に腕を乗せて、豪快に笑った。
【てか、『ギリギリ合格』って言っていいのか?一度落ちてるんだけど】
私は言おうとしたその言葉を飲み込んだ。きっと雄吾は信じない。
「あ?なにヘンな顔してんだよ?まさか、落ちたけど入学できたとか言うなよ〜?」
私はドキリとした。どうも雄吾はカンがいい。
「ま、そんなことあるならオレはもっといい高校に入学してるはずだけどな。ハハハ!」
気付いてるのか気付いてないのか……そう言いながら雄吾は教室を出ていった。
学校の門を出て、海沿いの道をしばらく歩く。そしてその途中で私は立ち止まり、海を眺める。静かな潮風と、夕日を浴びてキラキラと光る海。
このまま何も考えずに時が過ぎたら……私はそう思った。
「おぅ、そういえばさ、お前んちの兄貴って音楽事務所で働いてるんだって?」
後ろを歩いていた雄吾が、立ち止まっていた私の横に来て言った。
「えっ!誰から聞いたの?」
私は驚いていた。
今私は一人暮らしをしている。元々この街に住む雄吾は、高校入学と同時に越してきたばかりの私の兄を知るはずもなく、当然私に兄がいると雄吾に言ったことはなかった。そして私の兄は、音楽事務所になんて働いていないはず。
「うちの姉貴が言ってたぜ。どうも大通りを曲がったとこにある小さなビルに入ってったのを見たらしいんだけど、看板見たら[なんたら音楽事務所]って書いてあったってさ」
雄吾は、両親と2つ上の姉さんと一緒に暮らしている。もちろんここに来たことのない私の兄を、この辺りの人が見たとは思えない。雄吾の姉さんは誰を見たのか……
「……ふ〜ん。知らな〜い」
私はそう言うしかなかった。
「知らねぇの?オレさ、お前んちの兄貴に聞いてみようかな?『オレどうですか』って」
「ハハッ。聞けるもんなら聞いてみなよ」
兄貴がホントにこっちに来てるならだけど。
「でもさ、オマエの姉さんもさ、名前くらいきちんと覚えとけよ。なんだよ、[なんたら事務所]って」
「そんなこと姉貴に言えって。オレは姉貴にそう聞いたんだよっ」
雄吾はごまかすように頭をポリポリ掻いた。
「てかさ、あんたのギターって聞いたことないけど、どうなの?」
「すげぇ上手いぜぇ〜。聞いてみるか?」
「やだねっ」
「ぶっ!即答かよっ!」
雄吾はいつになくおしゃべりになった。ギターはどうだのバンドがどうだのと、ずっと話していた。私は聞いてるふりをして、うんうんと相槌を打った。
そして、私は雄吾に探りを入れることに決めた。
「兄貴が音楽事務所ねぇ…。確かこないだはペットショップで働いてるって聞いたけど」
「そうそう、音楽事務所に入ってく時狼みたいな犬連れてたってさ。犬飼ってんのか?」
「狼みたいな犬〜!?飼ってないけど……。ハスキー犬とかだった?」
「いや、ハスキーじゃねぇんだと。もっとデカいらしいぜ?」
私は益々おかしいと思った。
「それで?その犬どうしたの?」
「知らね。犬の聴覚でも調べたかったんじゃねぇの?あの事務所、音の研究とかしてるらしいし」
「音の研究?で、犬の聴覚?」
「あ、これ俺の想像ね。ハハハ!」
「ふ〜ん…[狼みたいな犬]の[聴覚]を調べに……か」
雄吾の想像が、ただの想像だといいが……
私は『狼のような犬』と聞いて、真っ先にフィルを思い出したのだが、なにか、フィルとは関係のない何かのような気がした。
そして、その[兄貴]は何者なのか……
「あのさ、その[兄貴]って、どういうカンジだった?」
「オレより背が高そうだったって姉貴は言ってたけど」
私の兄貴は私と同じで背はあまり高くない。百八十センチある雄吾より大きい兄貴?
違う。それが兄貴なわけがない。
私は嫌な予感がした。
「髪型とか、見た目どんなんだったって?」
「確か、スラッとしてて細身で、髪の毛が軽くうねうねしてて、結構イケメンって言ってたけど?ちょっと日本人離れした顔立ちでよォ、『私のタイプだから絶対忘れない!』とかなんとか姉貴が言ってたぜ、へへっ」
それを聞いてすぐに思い浮かんだのは、あの冷血残忍男、ミシェルだった。
私はとてつもない胸騒ぎを感じた。
「……てかさ、なんでその人のこと、私の兄貴って思ったんだろね?あんたの姉さん」
「いや、実はさ〜、……あ、姉貴にチクるなよ!言うなって言われてんだから!」
「なんなの?」
「うん、実はさ、オマエんちから[兄貴]が出てくるのを姉貴が見たらしいんだよ〜!あんまりイケメンだったから、つい見入っちゃったとかなんとか言ってよォ」
うちから兄貴が出てくるわけない。私一人でこっちに来たんだから。だいたい引っ越してすぐにしょっちゅう来てたうちの過保護な親も、あんま来るから『もう二度と来るな』ってこないだケンカしたばっかだし、あの不精な兄貴だって来るはずないんだよね。
話しているうちに、雄吾は興奮し始めた。私は平静を装い耳を傾ける。
「そしたらよォ!その兄貴がにっこり笑って頭下げてきたらしくて!んで、姉貴も慌てて頭下げてさ〜。でさ〜…あ!こっからはマジで!絶対言うなよ!」
「ふん。あとつけたとかって言うなよ?」
「アッハッハ!そうなんだよ!途中で時々撒かれたらしいんだけどよォ、でもなんとかその兄貴の後をつけたらしいんだよ!アッハッハッハ!」
「アッハッハじゃねぇよ」
私は冷たくツッコミを入れた。
「あ、絶対言うなよ!頼むぜ?姉貴にバレたら大変なことになる〜っ!」
「いいよ言わないから」
てか、……言えねぇよ、そんなこと。
私はそのまま静かに波打つその海を眺めながら、自宅方向へと歩き始めた。
頭の中では、ずっとその[兄貴]のことを考えていた。
兄貴ではない[兄貴]のことを……
すると、雄吾は思いもかけないことを言った。
「まさかさ、その兄貴、ホントの兄貴じゃなかったりして〜?アッハッハ!」
私は驚いて立ち止まった。
雄吾はまだ[アイツ]を見たことない。本当の兄貴も見たことない。大丈夫、気付いていない。そう、心の中で繰り返した。そして、私は冗談とも本気とも思えることを口走っていた。
「そうかもな〜。私と[兄貴]は全然似てないし〜」
驚いたような顔をして、雄吾は私の顔を見た。
「意外と異母兄妹とかだったりして?」
雄吾のその問いに、私は一瞬返答に困った。
「……さあね。今度[兄貴]に会ったら聞いてみな」
あるわけないと思いつつ、私はそう答えていた。
そしてまた私たちは歩き始めた。
ミシェルがいる……間違いなくこの街のどこかに……
忘れようとしていたあのことを、思い出さざるおえない状況が近付いている。
[いずれ来るであろうもの]が近付いているのか……