第1章 嘲笑する虐殺者
私は海藤咲夜。中学卒業間近の十五才。
おチビで、しかも女らしくするのが苦手。でも肩の下辺りまで伸びるストレートの黒髪が唯一の自慢。
勉強は得意じゃないけど、本を読むのは大好き。特に北欧神話の本。その本を持ち歩いて、暇さえあれば読んでいる。かと言って運動音痴ではない。足は丈夫なようで、マラソン大会では大抵5本の指に入るほどだ。
そんな私は幼い頃から別の次元のものの存在を時々感じたりする。その中で、私を護ってくれているであろうものの存在も感じていた。
それは、私がいつも[フィル]と呼んでいる守護獣のフィルグスだった。
ライオンのような鬣を持ち、白鳥のような白い翼をつけた白銀の狼で、透き通るような鋭い青い目をしている。サイズは大型犬くらいだろうか。
そもそも私が北欧神話に興味を持ったのも、この守護獣フィルグスが、北欧神話に出てくる守護獣フィルギャと何か深い関わりがあるかもしれないと思ったからだった。
私は時折感じるその守護獣を、とても大切にしていた。どこに行くにも、何があってもいつも私のそばにいる。それが私にとっての幸せであり、絶大な安心感でもあった。
そんな時、私はアイツに出会ってしまった。
二月半ばの冷たい風が吹く夕方。もうすぐ中学も卒業で、私は少し浮かれていた。
下校途中、重いカバンを左の脇に抱え、鼻歌まじりに大好きな北欧神話の本を読みながら歩いていた。大通りの側道を右に曲がって、ゆるい坂を上る。しばらくした所で、突然後ろから私のスカートをフィルが引っ張る。
「フィル?どうした?」
立ち止まり顔を上げると、人通りの少ない住宅街、少し先にある交差点の向こうに、ぼんやりと人影が見えた。だが周りにはそれ以外特別気に留めるようなものはない。
その時やっと辺りが薄暗くなっていたことに私は気付いた。いつものごとく、またしても夢中になって本を読んでいたらしい。そこで私は本を閉じたが、フィルは何かに警戒してか、私の背後で唸り声を出していた。
私は不審に思い、もう一度辺りを見渡してみた。
雲もなく薄青い空。家々の屋根の隙間には白い満月が見える。太陽はうっすらと光を残し、沈んでいる。交差点の向こうの道沿いに並ぶ2階建ての家々は、道に長い影を作る。
そして、その影の中に人がいる。
【あの人…光ってる?】
変だなと思って見ていると、右肩から右腕全体がピリピリと痛みが走る。特に痣のある右肩辺りが……
その後、フィルは私をかばうように私の前に立ち、鋭い目で睨みながら低い態勢で唸る。そのままフィルがその光の方へジリジリと歩いて行くと、その人もまたこちらに向かい、ゆっくりと音もなく歩き始めた。
私の十メートル手前くらいまで来た時だった。フィルがその人のすぐ前を立ちはだかり、今にも喰らい付きそうなほどの唸り声を上げる。
「フィル!」
私は痛み出した右腕を押さえ、フィルを止めようとした。そしてこちらに向かって来る人が何であるか目を凝らした。
男だ。
おそらく百八十センチは超えていそうな長身で、スラリとした細身の体、全身黒の服、長めのショートウェーブの黒髪、見た感じ二十五才前後ってとこか。
その背中辺りに何か黒っぽいものがある。私はその背後をまじまじと見た。
私はぎょっとして本を落としてしまった。
そう、その男の背後にあったのは、うっすらとダークグリーンに光る黒い羽根の翼……
そして、その本を落とした音は、フィルへの引き金となった。
「フィル!待て…!」
それからはまるでスローモーションのようだった。
白い羽根を羽ばたかせ、駆け上がるようにそれに向かっていくフィル。
大きく口を開けたフィルが男の腕のすぐ近くまで飛ぶと、男は瞬間的に体を左に避け、右腕を横に軽く振った。その腕はフィルの銀色の体に当たり、フィルの体はぐにゃりと曲がる。そのフィルの口から飛び散るのは、大量の真っ赤な血。
そして、男が振ったその腕からフィルの体は離れていき、その男の背後五十メートルほど先にある、二階建ての家の白い壁に激しく打ち付けらた。フェンスのないその家の敷地内にフィルはズルリと落ち、地面に届くと同時にフィルの姿は霧のように形を変え、消えてしまった。
残されたのは、白い壁を真っ赤に染めたフィルの血のみ。
私は一瞬にしてあまりの出来事に手も足も動かなかった。白い壁に飛び散る血を見つめ、呆然と立ち尽くした。
そう、フィルが絶対に[いる]と確認できたのは、まだつい最近のこと。
───あれは二ヶ月ほど前。
2学期の後半、十二月初めだったが雲もない晴れた暖かい日。
テスト期間の最終日で気を抜いていたのだろう。私は昼前の帰り道、夢中で本を読みながら歩いていたら、公道を歩いているということをすっかり忘れてしまっていた。周りの音も耳に入らない、そんな状態だった。
その時、突然後ろから何ものかが私のスカートを強く引っ張った。
「ん?なんだ…?」
驚いて立ち止まり後ろを振り向いた私は、私のすぐ後ろにいるものの姿に気付いた。その瞬間、私のすぐ横を大型トラックが勢い良く通り過ぎる。
恐らくそれに気付かず歩き続けていたら、間違いなく事故にあっていただろう。
あの時はまさか羽根の生えた狼だと思っていなかったから、正直相当驚いた。
それから私はあの時見たものが何であるのかを、ひたすら調べた。そのうちフィルグスという名前が北欧神話に出てくる守護獣フィルギャと似ていると思った私は、北欧神話の話に徐々に惹かれていった。
フィルは、私に何かあった時だけ、危険を知らせるためにその気配を現していた。
フィルの存在をこの目で確認してからは、毎日確実に部屋に食べ物を置くようになった。
普段は現れないフィルのために、食べそうなお肉を部屋の隅に置いてみたり、お皿に入れた水を置いたりしてみた。私なりの感謝の気持ちで。
自分を護ってくれるものがいるというのは心強いもので、今まで一度も食べてる所を見たことないし、その量が減ったこともないけど、なんとなく喜んでくれてるんじゃないかと勝手に思い、満足していた────
だがそのフィルが……突然目の前に現れた見知らぬ男に消された……
それも残酷なほど、いとも簡単に………
薄暗くなった青白い空の下、立ち尽くしている私の前に、男は静かに歩み寄る。男は私よりはるかに背が高い。そして男は無表情のまま言った。
「大丈夫ですよ。あの子はナーストレンドに帰っただけですから」
そう言った男の目は、濃いブルーだった。
「ナース……トレンド……?」
その名前を聞いた私は、白い壁の血を見つめる。
【確か北欧神話に出てくる死者の国…じゃなかったっけ……】
私は、心の中で呟いていた。
「そうです。死者の国です。帰るべき場所に帰ったのですよ」
男は私にそう告げる。
私は不審に思い、もう一度男の姿を確認する。男の背中には間違いなく黒い翼がある。
【ナーストレンドでニズホッグが死者の血をすすると、狼が死者の体を裂く……?】
私が心で呟いていると、無表情だった男は一瞬眉をしかめた。
「そんなハナシ、よく知ってますね?……あぁ……この本読んでるからですか?」
冷めた口調で言うその男は、私の足元に落ちていた北欧神話の本を拾った。
この時はまだ、私の脳内で思った言葉が、そのまま男に通じていて会話が成り立っていることに気付きもしなかった。
【そこがフィルの帰る場所?フィルが、死者の国で男たちの体を裂く狼?
ずっと私を護ってくれていたフィルが、そんな残酷なことをするのだろうか?
フィルは……私の目の前で殺されてしまった……ずっと私を護ってくれていたのに……】
私はフィルの血を呆然と見つめ、頭の中でグルグルと考えていた。
【あんな風に簡単に壁に打ち付けられて…あんな風に…殺されて…で、どこに帰るって?あんなに血が飛び散っているのに…なんて…残酷な……】
「あれが気になりますか」
男は、飛び散っているフィルの血を、先ほど拾った私の本で指差し、さらりと言った。
端正な顔立ちに、冷たいブルーの大きな目をしたその男は、無表情のままだ。その言葉は何の感情もないかのようで、それが挑発的にも感じた。
私の中の激しい感情が一気に吹き上げる。だが私はまだそれを必死に堪えていた。
どうしようもない悲しみと、どうしようもない怒りと……
現実を受け止められない気持ちと……。
行き場のないたくさんの気持ちが、込み上げてきて仕方なかった。
男は大したことではないとでも言うかのように、再び私の本をめくる。
それを見た私はついに感情を抑えることができなくなり、左脇に持っていたカバンを振り上げた。そしてそのまま男に向かい、勢いよく投げつけた。
だが、男はスルリとかわす。
勢いで重いカバンは道路に落ち、中に入っていた教科書や筆箱が出てしまった。
私はさらに怒りが込み上げた。
「なんてことを…!」
「じゃあ、こうしときましょうか」
男は開いていた本を閉じ、私の気持ちを遮るようにすぐさま右腕を振った。
壁に付いていた血は、一瞬にして真っ赤な花びらとなり、その家の敷地とそれに面した道路に舞い落ちる。それはまるで赤い雪のようだった。
「女の子にはちょっと衝撃的でしたか」
男は小さくため息をつき、腕を組んだ。私は震える手を力強く握りしめる。
「なんで!なんであんなことすんだよ!フィルが何したってんだよ!」
気持ちが高ぶりすぎて涙も出ない。
「こちらが聞きたいです。なぜ[この僕]に飛び掛ってくるんですか」
思ってもない質問に私は言葉を詰まらせた。
「そ…それは……!フィルは……私を護るために……」
「それはおかしいですね」
「なっ…!おかしい…?何がおかしいって言うんだ!」
「本当にあなたを護るため…ですか?」
「フィルは私の守護獣だ!得体知れないヤツに向かっていくのは当然だろ!」
感情的になる私とは対照的に、男は冷静そのものだった。
そして男は静かに言う。
「おかしいですよ。僕こそあなたを護るためにやってきたのに」
「えっ?」
私は思わず男の目をまじまじと見つめた。
差し込む月明かりの中、男はその透き通るような冷たいブルーの目を細めた。背中の黒い翼はうっすらと発光している。
「『あなたを護るためにやってきた』って……今フィルを殺したあんたが?」
私はその男を理解できずにいた。
「まぁいいでしょう。いいタイミングだったかもしれません。あなたの元へ[いずれ来るであろうもの]からあの子は護りきれないでしょうから」
「いいタイミングって……何言ってんの……?」
男の口からは次々と信じがたいことを告げられる。
「心配しなくてもいいですよ。ちゃんと私が[最後まで]おそばにいますから」
そう冷たく言われた私は、吹き上げてくる激しい感情のままに大声で叫んだ。
「あんたがいてどうなるってんだ!私の大事なものを壊したくせに!」
だが男は動じることなく淡々と答える。
「心外ですね。私があの時喰われてしまっていたら、最終的に誰もあなたを護ってはくれませんよ?まぁ、まず私があの程度に喰われることはありませんが」
私は数分前の残忍な光景が頭に浮かんでいた。
ぞっとした。
「何のことだか知んないけどさ!あんたになんか護ってもらわなくても自分でなんとかしてやるよ!」
冗談じゃない!こんなやつと一緒にいたら私まで殺される!…そう思った。
男は少し笑みを浮かべて、私の右腕をちらりと見る。
「右腕、大丈夫ですか?」
私は言われて初めて痛かったことを思い出した。痛いのも忘れるくらいショックを受けていたらしい。
「あんたには関係ないだろ!」
私は悔しくて男にそう言い放つ。そして痛む腕を我慢したまま、道路に散らばったカバンの中身を慌てて片付け、花びらの落ちている場所に走って行った。
──フィルの血が、真っ赤な花びらになってしまった。ついさっきまで護ってくれていたフィル。ほんのささいなことでも、護ってくれているという感じが、私を心地よくしてくれていた。街灯に照らされたフィルの花びらは、たくさん流れた血の証──
私は、運よくフェンスのないその家の敷地に入り、静かに花びらを集めた。まるで今まで過ごした日々の数だけあるような、そんな花びらの数。それを一枚一枚広い集める。フィルと過ごした記憶のかけらを一つ一つ集めるような、そんな気持ちだった。
道路のアスファルトに、落ちる涙が浸み込んでゆく。溢れる涙で、花びらが見えない。
手に取った花びらを見つめても、ぼやけて見えない。
私の目からは次々と涙が溢れ、花びらを掴む手は微かに震えた。
【もう、ここにフィルはいないんだ………】
そう思っていると、背後にバサリと翼の音がした。そして泣きながら花びらを集める私に影を作った。私は男にバレないように、流れていた涙を袖で拭った。
男は何も言わず、花びらを集める私をずっと見ていた。
私は必死に涙を堪えた。
しばらくすると、さっきまでの冷たい声色とは違う、静かな声で男は言った。
「……女の涙は僕がもっとも嫌いとするものです。涙は女の武器とか言うそうですが、言語道断ですね」
その言葉に私はカチンときて、その場にしゃがんだまま振り向き男を睨みつけ、カバンを勢いよく投げつけた。男の胸元にカバンが当たり、道路に落ちる。
なぜか男は避けなかった。ヤツなら避けられそうなものを。
私は男の顔をさらに睨みつける。だが、私は少し驚いた。
静かにうつむいたまま何の抵抗もしないその男の顔を見上げると、冷たいブルーだった瞳が淡いグレーになっていたからだ。
「僕の名前はミシェル・ニズ・フォルスト。覚えておいてください」
沈黙の後やっと口を開いたその男は、私の目を見ずそう言って、さっき拾った私の本と、キッチリ畳まれた大判の白いハンカチを私の足元に置いた。
そして男はバサリと音を立て、うつむいたまま空へ飛び立った。
『ミシェル・ニズ・フォルスト…フィルを殺した男……』
私は男が飛び立った方向にある満月をしばらく見上げていた。涙が乾くまで……
「あの冷血残忍男…このハンカチで涙でも拭けって?冗談だろ?」
その後私は、雲のない夜空に浮かぶ白い満月の下、丁寧に置かれた本とその上の白いハンカチを拾い上げた。だが、すぐに目に留まったのは、白いハンカチに書かれた見覚えのあるマーク。私の右肩の痣と同じ形……
「これって……!」
再び空を見上げたが、男はいるはずもなく……
そして本の中には大きな黒い羽根が挟まれていた。私はすぐにそのページを開いた。
[ニズホッグ。世界樹の根の一つを齧り、氷の世界を護る蛇。終末の日には翼に死者を乗せて飛ぶ黒き龍となる。『嘲笑する虐殺者』の異名を持つ]
私は頭の中で延々とそれらの意味を考えた。
いきなり殺されたフィルのこと、黒い翼を持つミシェルという男のこと、男が置いていったハンカチに書かれた私の痣と同じ紋様のこと、本に挟まれた黒い羽根のこと、そしてそのページに書かれていた内容のこと…
考えても考えても答えは出ない。
だが私は、その紋様の入った白いハンカチに何か、ある種の意味を感じ、拾い集めたフィルの花びらをそこへ包めるだけ包んで立ち上がった。見上げた夜空には白い満月が浮かぶ。
そして、それらの本当の意味を私が知るのは、それから半年も後のことだった───