第11章 ここにいる理由
私の体を動かすラシャと、その向かいに立つミシェルは、カーテンのかけられた窓とソファーの間に立っていた。ミシェルは腕組みをして窓側にもたれる。とても不機嫌な表情。
「この身体、なんだか居心地がいいわ。あんな岩場にずっといた私の体なんて……あのまま腐った魚にでもなりそうだったわ」
ラシャはミシェルの感情を逆なでするようにそう言って、再びソファーに座った。
「いつ返すつもりですか?」
「ふふふ、どうしようかしらね?このまま[あの子]になってしまおうかしら?」
「あなたは咲夜から封印を取り上げ、さらに体まで取り上げるつもりですか?」
ミシェルはラシャに冷たく言い放つ。
「いやぁね。[あの子]は自ら私の所へ来たのよ?」
ミシェルは窓際にもたれ、不機嫌なまま話す。
「僕は咲夜に結界を張らせました。その証拠に2階の部屋を見ればわかります」
「だから何だと言いたいの?」
「あの結界が張られているうちは[この世界]の住人以外、異世界のもの全ては咲夜に触れることができないはずなんです」
「……あの子、結界張らずに私の所へ来たわよ?」
ラシャが含み笑いをする。
「そうですか?僕は咲夜に結界の張り方は伝えましたが解除の仕方は教えていませんよ」
「ぐ…偶然解除されたんじゃない?」
動揺するラシャ。
あの時『こんな簡単な結界壊せるわよ』と、結界を解除したのはラシャだった。
「偶然などありえません。ただ、同じ魂を持つもの同士ならば、解除もありえるでしょう。
[魂を呼応させていれば]ですが」
同じ魂……私とラシャが……それが[分身体]ということ……?
「でも咲夜があなたと呼応するとは思えません。僕は咲夜に[まだ早い]という旨は伝えてありますから」
私はギクリとした。
ミシェルに言われていた言葉……忘れていたわけではないんだけど……
ラシャが凄く動揺しているのが伝わってくる。私とは違う理由で……
「そんなこと、私たちができるわけがないでしょう?」
「そうです。何の訓練もしていない咲夜ができるわけがないんです。なのにあなたはここにこうして咲夜の体の表層に出てきている。しかもフィルグスの封印を両肩につけて」
「何が言いたいの?」
動揺を隠すかのように、ラシャはミシェルを睨む。
「あなたは狼一族の術をかけられたことで、相手の心を操作できるようになったようですね。調べさせてもらいましたよ。少々痛い目に合いましたけどね」
ミシェルは[ワタシ]の反対側のソファーに座って、血の付いたコートの裾をめくる。
「もしかしたら咲夜は自らあなたの元へ行ったのかもしれません。でもあなたが呼ばなければ、今の咲夜の能力では、あそこへは入ることができません」
「ワタシは……!」
「もちろん、あなたに呼ばれるまま、咲夜があなたの元へ行ったとしても、結界があるんですから、それだけではあなたは表層には出られなかったでしょう。もしあなたがその能力を使い、咲夜をコントロールしたとしたら?そして咲夜をコントロールし、自らの魂と呼応させたとすれば……あの結界を破壊することができたはずです。ただ、多少の傷を負いますが」
そう言ってミシェルは立ち上がり、[ワタシ]の手を取った。
【手のひらには傷のあと……あの時のだ。結界を破り、血の垂れた手をあの赤い舌は舐めた……これは……自己治癒能力というのだろうか……?】
ミシェルは掴んでいた手を離し、再び窓の外を見ていた。
「そしてその傷が完治しているのも、狼一族の術のおかげでしょう?」
ラシャは泣きそうな声で言った。
「ワタシはアナタをずっと待っていたのに……この世界に来て、やっと初めて逢えたというのに……」
それを聞いて振り返ったミシェルの目は、濃いブルーになっていた。
「その体は咲夜のものだ。返すつもりがないのなら、手段を選びませんよ?」
静かにそう言ったミシェルの体からは、ダークグリーンの光が放たれ始める。
ラシャは急に泣くのをやめた。
「ふふふ……冷たいのね。[特別な術]でもかけてあげたいくらいだわ」
「それはあなたの術ではないのですよ?」
「例え狼一族から与えられたものだとしても、ワタシが使えばワタシの能力と同じよ」
「でもあなた程度の術など僕にはないに等しい。あなたにはコントロールされない。第一あなたは狼一族からの負の思念で覆われている。その時点で僕には何も効かない」
「[負の思念]? ワタシはワタシ、何も変わらないわ」
ラシャはソファーに深く座り、窓際に立つミシェルを見た。ミシェルから放たれていた光はいつのまにか消えていた。
「アナタ…何のためにここへ来てるのかわかっているの?アナタはワタシのフィアンセなのよ?」
「それは僕の意思じゃない。フォルセティが決めたことだ」
「じゃあなぜここへ降りてきているの?[ワタシの分身体]を探すためでしょう?」
「僕はあなたが解放したら、フォルセティには婚姻解消を申し届けるつもりでした」
「なっ!なんですって?」
「あなたにはもっと相応しい人がいる」
ラシャの中から怒りを感じる。それも憎悪のような……
「ワタシに狼一族の術をかけられているから……?」
「そうではありません。僕はただの[兵器]だ。任務を遂行することのみに生きている。フォルセティがどう考えているのかわかりませんが、あなたには僕を理解することはできないし、僕にはあなたを理解することはできない」
「そんな……!」
「……あなたは時期を早まったんですよ。それであなたが今どういう状態なのかわかっているんですか?ご自分でわかりませんか?普通ではない能力を身に付けたという感覚、[今までにはなかったもの]が沸いてきませんか?」
「えぇ、とても気分がいいわ!中から湧き上がるような高揚感!ワタシは自由よ!もう何ものにも縛られない!」
「違う!まだわからないのか!それは狼一族からの[負の思念]だ!狼一族にコントロールされているのがあなたにはわからないのか!」
「ミシェル、アナタ何を言っているの?」
ミシェルはため息をつく。
「あなたが開放されるには[時期]を待たなければいけないということ、狼の一族は誰も何も言ってませんでしたか?」
「知ってるわよ。だから何なの?ほら、ワタシはこうして開放されたわ」
「これはまだ[完全開放]とは言えません。むしろ術が強化されてる状態だ」
「術が強化…ですって?」
「あなたは開放の時期を早めたために、狼一族の術が強化されているんですよ。あなたのその[負の思念]がその証拠です。きっと狼一族も先手を打ったつもりでしょう。もし今のままの状態で能力を使い続ければ、あなたは[負の思念]に飲み込まれる。あなたは順序を間違えたんです」
「……!」
「僕はフォルセティの命でずっとあなたを開放することを考えていた。そして、あなたの分身体である咲夜がこの世界に生まれたことを知った。分身体である証に、フィルグスの封印を右肩に付けてね。しかも[守護]としてフィルグスが咲夜の元にいた。僕は、刻々と近付く[時期]を待ち、咲夜を見守っていた」
「アナタがフィルを消したせいで、狼一族の動きは活発になったわ」
「それは計算済みです。[時期]があと数日に迫った今、少しでも多くこの世界に呼び寄せ、開放の時は何も邪魔者が出てこないようにしたかったんです。そしてきちんとした形であなたが開放されれば、それであなたを助け出すことができると思っていた」
ミシェルは…私を護るためではなく、ラシャを助け出すために私の所へ来た……?
そっか私……ラシャの[分身体]だもんな……
[任務]か…………ばかみたい…私……何を期待していたんだろう……
「僕は咲夜の状態を見ながら、その[時期]を待っていた。だけど…そのための準備段階で咲夜を深く傷つけてしまった」
ミシェルは軽く握っていた手に力を入れる。
「僕は……とにかく咲夜を護ろうと決めた。せめてあなたが開放されるまででも…」
『開放されるまで……です』『あなたを護るために来た』
私に言ったあの言葉は……そういうことだったんだ……
所詮私はラシャの分身体……ミシェルが本当に助けたいのはラシャ……
私じゃない…………
「ワタシを護るためにここへ降りてきたんじゃないの?[ワタシの分身体]を護る?ミシェル…何を言っているの?」
「今のあなたには守護はいらないでしょう。ただ完全開放の時期まであなたの能力を抑えることが必要なだけで」
「抑える?ワタシを?」
「そうしなければあなたは本当に狼一族の術に飲み込まれますよ?」
「ワタシたちは交代した。ワタシはもう表に出ているのよ。狼一族の術がなんであろうと!」
ミシェルは少しだけ開いていたカーテンを閉めた。
「残念ですけど……表層と深層が入れ替わり、しかも今表層に出ているあなたはフィルグスの封印を咲夜の分も持っている。表層の方が術が効きますからね。分身体の咲夜が消滅しなくても、あなたはいずれ狼の思念に飲み込まれる。そしてアースガルズに戻れない」
「冗談でしょ?アースガルズに帰るのは私よ?あの子じゃない!アナタは分身体を消滅させるんでしょ!?そうすればワタシは狼一族の封印が解かれ、アースガルズに戻れる!それがアナタの任務じゃないの!」
分身体が消滅…? なにそれ……!
だが、ショックを受けている私をよそに、ミシェルは続けた。
「今は深層にいるのが咲夜なんです。このまま咲夜が消滅してしまったら、あなたも消滅することになります。でも僕がそんなことさせませんから」
「私を助けてくれると……?」
「えぇ。アースガルズに戻します」
私はどうなるんだ……?このまま消滅……?
でもそれが……ミシェルの任務……
私は私の体の中で、表層に出ることもなく、ただ一人ショックを受けていた。
今、同じ体を共有している[ワタシ]はリビングのソファーに座る。その主導権はラシャにあった。窓の近くに立つのはミシェル。
リビングのドアが突然開く。
「おい!ホントさ、マジ切れるって!それ、ケンカ?なんなの?」
さっきミシェルに追い出された雄吾が入ってきた。
「盗み聞きなんて趣味悪いですね。でも[ちゃんと]聞こえてたんですか?」
ミシェルは白々しく聞く。
「それはよォ……[だいたい]聞こえてたよ。うん……」
「[だいたい]……ですか?この部屋はちょっとした細工をしてあるので、あなたに会話は聞こえないはずですけどね」
『ちょっとした細工』…?さっきの軽結界のことか……
ミシェルは雄吾の覗き見に気付いてたのか?
「う〜っ……だから[だいたい]っつってんだろ!口の動きで[だいたい]わかるんだよ」
「そうですか」
ミシェルはそっけなく言う。
「今あなたに言うことはないです。今は出て行ってもらえませんか?[咲夜]は具合が悪いんです」
「あのさ!オレが気付いてないとでも思ってるワケ?一応さっきは様子見してみたけどおかしいことくらいオレにだってわかるんだよ!」
「何を言ってるんですか?」
ところが雄吾は突然ミシェルの胸倉を掴んだ。
「オレはな!咲夜はどこ行ったかって聞きてんだよ![コイツ]の具合がどうのってハナシしてんじゃねぇんだよ!」
「咲夜はここに……」
「違うだろ![コイツ]は咲夜じゃねぇ!ぜってぇ違う!」
「……ドアの隙間から見てただけで、違うと言い切れるんですか?」
「あぁ!違うね!仕草も癖も目つきも!さっきは騙されそうだったけどよ!こんだけ動いてっとこ見てたらオレだってわかるんだよ!」
さすが雄吾だ…やっぱりわかってくれたんだ…!
雄吾は拳で壁を叩きつけ、うつむいた。
「オレが知ってる咲夜は…[兄貴]がこっちに来てからずっとなんか考えこんでるみたいで、オレが聞いてもどうでもいい返事ばっかだった…それでも少しは前より明るくなったように感じて、嬉しかった。あいつ…いつも強がってばっかだし、クチ悪くて…オレに涙なんて見せたことなかったんだよ…だけど、あの日の咲夜は泣いていた。自分で泣いていることも気付かねぇくらいに!」
ミシェルは驚いたように目を見開いた。