4
百年前──
ここには街はなかった。
二十戸ほどの小さな集落があったが、それも、ほんの半年ほど前にできたものだ。
流れて、流れて──
あまたの危険を避け、安全な場所を求めてさすらった末の定住だった。
もっとも、それもいつまで保つか判らない。
この時代、小さな集落ひとつ、簡単に滅ぼしうるような力は、いくらでもある。
月獣。
狂樹。
月光症。
幻病。
変化症。
時空嵐──
いずれも、もとを辿れば、月の魔力によるものである。
しかし、この地上にいる限り、月から逃れることはできない。
これらの災いをすべて避けることは、事実上、不可能だ。
せいぜい、魔力の少しでも薄い方角をめざして移住を続けるくらいしかない。
彼らは、そのようにして旅を続けてきたのだった。
一時的にせよこの土地に村落を造ることができたのは、ここが、比較的魔力の溜まりにくい場所であるようだったからだが、それも、あくまで比較的ということでしかない。
いずれ、濃い魔力が近づいてくるような気配があれば、逃げなければならない。
また、月獣や狂樹などの変異生物は、魔力の薄い場所にも出没する。
ことに人を喰う性質のものは、村落の場所を覚えて執拗に狙ったりもする。
食物も充分でない。魔力の影響で、作物をうまく育てることができないからだ。
水も魔力で汚染されている。
村は、常に滅びに瀕しているといってもよかった。
*
「──だから、あんたが造られたんだ」
カラスは静かにそう言った。
足を組んで椅子に腰かけているが、全身に、なんとなく疲労の色を漂わせている。
ここはカラスの居室だった。椅子は一つしかないから、ウナは床の上に直接、座りこんでいる。カラスは彼女を見下ろす格好になるのだが、どうにもそんな気はしなかった。
足をまっすぐに伸ばしてすわり、冷たい目でこちらを見上げている彼女を、カラスは改めてじっと眺めた。まさか、百年前と同じ服のわけはないが、どこか見覚えのあるような、ぴったりとした黒いワンピースを身につけている。。ところどころすりきれているが、その下に露出した肌は、ごく普通の人間のものとしか見えなかった。
ウナの、ちょうど膝までの長さの黒髪が、床の上に広がって、黒いしみを形作っている。
その髪は、彼女が生まれたときから、ずっとこの長さのまま、伸びていないのだった。
「衛史があんたを造ったんだ。俺も手伝ったがね。衛史はこの街──当時は村のようなものだったが──で、魔法技師のような仕事をしていて……」
カラスは重い口を無理に動かした。言いたくないが、言わなくてはならない。
「……当時、街の中心はこのあたりだった──覚えてるか? あんたはこの家からほとんど出たことがなかったが──ここから五分ほど歩いたところに、職人の家があった。そこの親父が、あるとき、人形を造ったんだよ」
「人形?」
ただの相槌のようにウナはそう繰りかえした。
「人形──を?」
「そうだ。人形だ」
カラスはそう答えながら、ウナの目に宿ったかすかな翳りに気づいていた。
「その職人──気のいいやつでね、衛史と仲が良かったよ──は、趣味でその人形を造ったらしい。いまはこんな世の中で、本当なら装飾ものなんか造っている余裕はないんだが、それでも、どうしても造りたいんだってね──等身大の人形だ。十歳ほどの、少女の──」
ウナは抗うようにカラスを睨みつけた。カラスは構わずに続けた。
「木彫りの、きれいな人形だったよ。細工がこまかくてね──遠目なら、本物の人間とだって間違えたかもしれない。それを見せてもらった衛史が言った。その人形、よかったら譲ってもらえませんかってね」
「やめて」
ウナは目をとじて激しく首を振った。
「もうやめて。聞きたくない」
「……衛史はその人形を、魔法の実験に使うのだといって譲りうけた。確かにそれは必要なものだったんだ。器として。彼は街を守ろうとしていたから」
「やめて!」
ウナは叫んだ。全身ががくがくと震えていた。
カラスは冷たい目で彼女を見下ろした。
「聞くんだ、ウナ。いいから──その人形は、白色水銀に漬け込んだあと、十日のあいだ月光にさらされた。月の魔力を、その身に受け続けて──」
ウナの反応をはかるように、カラスは間をおいてから言った。
「──その人形は、命をもった。あんただよ、ウナ」
「私は……」
「あんたは衛史の子だよ」
カラスは優しい声でいった。うなだれていたウナは、はっと顔をあげた。
「人間だの人形だの、そんなことに何の意味がある? 俺は鴉だよ。だが衛史は、そんなこと気にしやしなかった。ほとんどの人間は、そうじゃなかったがね」
ウナは、泣いているような笑っているような、奇妙な表情になった。
「でも、これから話すことは知っておいてもらわなきゃならない。あんたの役目のことだ」
「私の……役目?」
ウナはおうむ返しにした。カラスは、彼女を優しい目で見つめながら、続けた。
「街を守ること。それが、あんたに課せられた、そもそもの役目さ。……ウナって名前、どういう意味だか知ってるかい?」
ウナは首をふった。
「『滅びを封じる』というのさ。魔法言語でね──魔法言語ってのは、そもそも誰がつくったのかもわからないし、ほとんど解析が進んでない。衛史も、いくつかの単語を知っていただけだ。その、とぼしい語彙のなかから、いちばんマシな名前をひねりだした。命名の儀式のために」
「命名の儀式って……?」
「体内に呪符を埋め込んで、月光の下で儀式を行うのさ。あんたの腹の中には、魔法文字で記されたあんたの名前が入ってる」
ウナは思わず自分の下腹部に手をあてた。それを見て、カラスはおかしそうに笑った。
「別に害はないよ。呪符自体にはね──そんなわけで、あんたは生まれながらにして運命を背負いこんだ。『滅びを封じる』運命を」
必死で理解しようとしている様子のウナを見ながら、カラスはさらに続けた。
「だから、あの街はこれだけの発展をとげたんだ。あんたがあの塔のてっぺんにいたから、この街は、この百年余りのあいだ、あらゆる滅びの要因から守られてきた──」
「──たとえば、時空竜巻のような?」
「そうだよ。だが今度ばかりは、そうもいかない。あんたの力はもう限界なんだ」
カラスは立ち上がった。
「行くよ、ウナ。いつまでもこうしてはいられない。……あのトレイも、地下室の鍵も、それから、たぶんあの鉄格子も、あんたから漏れ出した滅びのかけらに壊されたんだ。もう封印はいっぱいだ。これ以上溜め込めば、破裂する」
「破裂すると……どうなるの?」
ウナの問いに、カラスはしばし迷うようだったが、やがて諦めたように答えた。
「……街が滅ぶだろうよ」
*
塔に入れられるまえの、ウナの一番最後の記憶は、やはり衛史の顔だ。
大勢の魔法技師たちにおさえつけられ、こちらを向いて叫び声をあげている衛史。
そこから先の記憶は、なぜか曖昧だ。
なぜ彼らが、衛史と自分を引き離そうとしたのか、ウナにはわからない。
ただ、カラスから、自分が造られたいきさつを聞いてみれば、予想はつく。
街の守り神たる自分をめぐって、何か争いがあったのではないか。
そして──おそらくは、自分を塔に閉じ込めることに、ただひとり反対したのが、衛史だったのだろう。
カラスはなにも教えてくれなかったが、ウナはそう思った。
*
「どこへいくの?」
ウナは、カラスとともに部屋を出ながら、そう訊いた。
「街を離れるよ。巻き込まれたくないだろう」
「何に巻き込まれるっていうの?」
「滅びにさ」
ウナは立ちどまった。カラスは不審げに振り返った。
「……どうした?」
「行くのはいいけど──街の人に警告してからにしましょう。そういう時間さえない、というわけではないんでしょう?」
「必要ないさ」
カラスは唇を歪ませて、皮肉な笑みを浮かべた。
「衛史を殺した。あんたを塔に閉じ込めて、百年も放っておいた。そういう奴らが、今の街を築いたんだ。今さら助けてやることはない」
「でも──」
「それにな」
カラスはそっけなく続けた。
「どうせ無駄さ。時空竜巻が来なくたって、同じことなんだ。──封印の効力が切れれば、あんたのなかに溜め込まれていた滅びのエネルギーが、いっぺんに飛び出して街を襲う。それを止める方法はない。百年分のツケを払うときがきたんだよ」
「でも、避難することだってできるでしょう」
「……ツケ、といったろう。すべてを、あるべき姿に戻す──そういうエネルギーだ。あんたの力によって救われたもの全員が、等しく滅びを受ける。あんたがいなければ死んでいたものは、殺される。その子どもも、そのまた子どもも……」
「カラス!」
ウナは叫んだ。
「助けてよ……ねえ、何か方法があるんでしょう?」
「……百年のあいだ、おれはそれを探してきたんだ」
カラスは噛みしめるように言った。
「百年かけて探した。あんたを助け出す方法。封印をなかったことにする方法。すべてをやり直す方法を──だが見つからなかったんだ。封印を取り消すことはできる。しかし、それをやれば、今まで封じたものがすべて飛び出してくる。同じことなんだ!」
「どうして……」
ウナは絶望的な目でカラスを見つめて、うめいた。
「どうしてなの?」
「このことは予想できていたんだ。もっと早くあんたを取り返していればよかった。だけど、あの塔には結界が張られていて──」
「──どうして、こんなことになっちゃったの?」
カラスは言葉に詰まった。
ウナは、彼を見ていなかった。
彼女は、見ていた。
百年の間に流れたものを。
百年の間に失ったものを。
忘れていた過去の重みを。
これから失われるものの大きさを。
彼女のまえに待ち受ける運命を──