3
カラスのすまいは、街の外にあった。
ねっとりと濃い空気のからみつく荒野のなかに、ぽつりと小さな小屋が立っている。
街のほとんどの家が石造りだったが、この小屋は木造だった。
「俺の古い家さ。ずっと離れてたが、最近戻ってきたんだ」
カラスは、なんとなく嬉しそうにそう言うと、ウナを招き入れた。
まるで人間の家のようだった。
ひと通りの家具が──明らかに人間用の家具がそろい、井戸や竈まである。
ウナは、それらすべてを物珍しそうに眺めまわしてから、ぽつりと言った。
「──知ってる」
カラスは、ふん、と鼻をならした。
「そうかい。じゃ、ちょっとは覚えてるのかな。あそこに入れられる前のこと」
ウナは無言で首を横に振った。
カラスは別段そのことに頓着する様子もなく、話を続ける。
「まあ、忘れちまってても無理ないやね。あんたが閉じ込められてから、もう何年たったか、俺にだって思い出せないくらいなんだ」
「私を知ってるの?」
反射的に、ウナはそう聞き返していた。ずっと喉の奥につっかえるようだった『言葉』が、初めて意識せずに口から飛び出した瞬間だった。
「当たり前さ。あんたが生まれたときから知っているよ」
カラスはそう言ってから、ふと気づいたように首をまげて、自分の体をみた。
「この姿じゃあ話しにくいかな? ちょっと待ってな」
そう言って、すいと体をひねるようにすると、彼は姿を消した。
そして一瞬後には、黒ずくめの格好をした二十代の青年が、そこに立っていた。
ウナは、自分の目を疑うように瞬きをして、彼をじっと見つめた。
「目はちゃんと見えてるみたいだな。月光をよく浴びたからだろう」
そう言って、青年はウナの頭を撫でた。
先程までのカラスと、同じ声だった。
「カラ──ス──?」
「ああ。覚えていないかい? 昔はいつもこの姿でいたもんだが」
ウナはもどかしげに首を振った。目の前の現象を、なんとか理解しようと努めているようだった。
「俺は化け鴉さ。月光の下で長いあいだ生きた動物は、みんな俺みたいになる」
「みんな……? カラスみたいに、って?」
「こういうことができる、ってことさ。ウナ、普通の鳥は──特に、さっきまでの俺のような大きさの鳥は、人間を抱えて飛んだりしないもんだよ。それに喋らないしね」
「それに──姿を変えたりもしない」
「その通りだ、ウナ。よく分かったね」
カラスは優しげな瞳でウナを見つめた。
「でも、そうなるまで長生きするやつってのは、なかなかいないもんでね──俺も、同じようなのには数えるほどしか会ったことがない。大抵、そうなるまえに死んでしまうから」
「……死んでしまうの? 寿命で?」
「そういうこともあるけどね……強すぎる月の光は、普通の生物には毒だから」
「私にも?」
「いや、あんたは特別さ」
カラスはぽんと手を打つと、言った。
「さあ、今日はここまでだ。しばらく眠るといい。疲れてるだろう? じきにここを引き払わなきゃいけないし、あんたがいなくなって街の連中が騒ぐだろう。忙しくなるよ」
「引き払うの……どうして?」
せっかく来たばかりなのに──と、ウナは言おうとした。
「仕方ないのさ。大きくて濃い魔力のかたまりがこっちに向かってる。じきに時空竜巻に発展するだろう。そうなれば、このへん一帯は無事じゃすまない」
カラスの言葉は、ウナには理解のできないものだった。彼は構わずに続けた。
「街の人間は油断しているだろうな──この百何年というもの、この街をそんな大きな災害が襲ったことなんかなかったから。それというのもあんたのおかげなんだよ、ウナ。あんたは、長い長い間ずっと、あの物見塔の中で、街の守り神を勤めていたんだよ!」
*
──だんだんと高くなってきた太陽の熱にあてられて、ウナは目をさました。
うぅん、と軽く伸びをして、いつもの部屋にいるわけではないことに気づく。
カラスの部屋のベッドで寝たはずだが、いつのまにか床に寝ころがっていた。
慣れない布団の感触を、無意識のうちに避けたのかもしれない。
もっとも、この部屋は床にも敷物があるから、だいぶ寝心地はいい。カーペット、というらしい。昨日、カラスに訊いた。
立ち上がり、部屋のなかを見回す。
壁いちめんに作りつけられた本棚に歩み寄り、一冊の分厚い本を取り出した。
なんとなく、見覚えがあるような気がしたのだ。
書いてあることはよく分からなかった。彼女は文字が読めない。ところどころ、見覚えのある記号や仮名もあるが、全体としての意味はまったく理解できない。
カラスはこれを全部読んだのだろうか、と、ぼんやりと考える。
自分も読みたい、と思った。
カラスに教えてもらえばいい。きっとすぐに読めるようになる。
でもこのすまいは、すぐに引き払うのだっけ──。
そう思うとなんだか悲しかった。はっきりとは分からないのだが、この家のことはよく知っている。そんな気がしていた。
本を床において、部屋を出る。
廊下には見覚えがあった。少なくとも、あるような気が、した。
──そういうのを、デジャビュー、というんだよ──
そんな言葉が浮かんでくる。いつだったか、誰かに言われたのだと思う。
誰だったろうか?
カラス? それとも、他の誰か?
思い出せない。
考えながら、ふらふらと廊下を歩いていると、突き当たりにドアがあった。
真っ黒い壁に、小さなドア。
ノブには南京錠。ドアの上には小さなプレート。
──開かない、かな?
ノブをひねってみる。
鍵がかかっていると気づき、試しに、思い切り力を入れて引っ張ってみる──
──ばちん、と破裂するように、ノブごと、鍵がばらばらになった。
ウナは、しばらくあっけにとられていたが、やがて、古くなっていたのだろう、と納得することにして、ゆっくりとドアを押し開けた。
内側から、ひんやりと冷たい空気が流れ出してくる。
涼しそうだな、とウナは思った。入ってみよう。
彼女が部屋に入ったあとで、ぎぎ、と音をたててドアが閉じる。
ドアの上のほうにかけられたプレートには、こう記されていた。
──『魔力遮断帯域』。
*
暗い暗い部屋の中で、ウナは立っていた。
月の光さえも差し込まない。換気が悪いから火もともせず、わずかな魔力をもこの室に持ち込まないために、月光ランプやヒカリゴケの使用も許されない。
それでも、本当にこの部屋が使われるときには、ほんの申し訳程度の明かりが、天井の照明装置によってもたらされるのだった。
『でんとう』
そっと、噛みしめるように、ウナはその言葉を口にした。
でんとう。古代の遺産。とてもとても貴重な骨董品。今となっては修復するのも難しい。
彼──が教えてくれたのだった。他のことも──たとえば、『でんとう』よりも、もっと重要なものがあり、それは『でんき』で、彼は長いあいだかかってやっと、魔力嵐からそれを取り出す方法をみつけたのだ、とか……
──遠い昔には、『でんき』がこの世でいちばん大事な力だったんだよ、ウナ。
──魔力よりも?
──魔力はなかったんだ。月はそのころ、今よりずっと小さくて……優しかったんだ。
──月こそが、すべての魔力の源なんだよ、ウナ。
いつだったか──そんなに遠い過去のはずはないが、彼と交わした会話の一片を、ウナは思い浮かべる。
彼の語ることのすべてを、ウナは記憶し、理解しようとした。
それでも彼女には──生まれたばかりの彼女には、そのほとんどは難しすぎて、いつになったら、彼とカラスの交わす会話についていけるようになるのだろう、と思った。
彼は、ウナが生まれて初めて見た人間で、彼女の親がわりだった。
いや、じっさい、親だったのだろう。彼もカラスも、一度もそのことについては口にしなかったが、ウナはそう確信していた。
なぜって、もし、彼が私を生んだのでなければ、どうして自分はここにいられよう?
『──目が覚めたかい』
彼女は今でもはっきり覚えている。固い寝台の上でそっと目をあけたとき、彼がかけてくれた最初の言葉を。
『おはよう。……君の名前はウナだよ。僕がつけたんだ』
彼は絵を描くのが好きだった。仕事の合間には、よくウナをモデルにして筆を動かしていた。絵具の材料は、カラスが仕入れてきたものだった。鉱物も植物も、昔のように簡単には手に入らない。今となっては何もかも貴重なのだと、彼は嘆息して言ったものだ。
「ウナ、そこに座って」
「はい」
しずかにそう返事をして、ウナは用意された椅子にきちんと座る。
膝の上に手をあわせ、全身をぴったりと静止させて。
動かずにいることは、彼女には苦にならなかった。たとえ一日でも、そうしていられた。
だから、その時間の終わりは、いつも、彼が絵筆を放り出すか、なにかの用事でカラスが呼びにくるかしてやってきた。
ウナは、そのときがくると、いつもひどく残念に思うのだった。彼女は絵に描かれるのが好きだった。絵そのものでなく、自分の前で彼が絵筆を動かしているその時間が好きだった。
彼の絵が完成したことはなかった。なぜだかはわからないが、そうだった。
ウナは目の前の大きな筒にそっと触れた。それは彼の仕事の道具の一つだった。彼が何の仕事をしていたのか、ウナは知らない。ただ魔力に関係した仕事だと教えられていた。
カラスもその仕事を手伝っているらしかった。二人はよく、ウナが今立っているこの部屋にこもって、二人で議論したり、何かの実験を繰りかえしたりしていた。
ウナの最初の記憶にある寝台も、この部屋にあった。
彼女は、掌にふれる冷たい感触をしばらく味わった。そのなかにはいつも濃い緑色の液体が満たされて、彼女の目を楽しませてくれるのだった。
液体の中に何かが浮かんでいることもある。だが、それが何なのかは判らなかった。
ウナは、目を瞑った。もとより闇の中ではあったが。
*
そして、過ぎ去った思い出に別れを告げ──
*
「ウナ!」
カラスの叫び声が、彼女を現実にひきもどす。
ウナは空っぽの培養槽に手をあてたまま、振り返った。短い階段の上にある、地下室の入り口から、外の光が差し込んできていた。
「ウナ。そこにいるのか? どうして、こんなところに──」
「カラス」
カラスの言葉がまるで聞こえないかのように平らかな声で、ウナは言った。
「彼は──衛史は、どこにいるの?」
カラスは複雑な表情をした。ぽつりと呟くように言う。
「思い出した──のか?」
その問いには答えず、ウナはさらに続けた。平らかな、それでいて鋭い声音で。
「衛史は、殺されたの?」
*
その瞬間、カラスは、少女だったウナが突然、何か別のものに変貌したように感じた。
いま、彼女の姿は闇に隠れて見えないが、そこにいるのは本当に、彼のよく知っているあのウナであっただろうか?
そう思うほどに、彼女の声は大人びて、落ち着いていた。
*
「衛史は──死んだよ」
諦めたように目を伏せて、カラスは告げた。
「あんたにとって、時間の感覚がどんなふうになってるのかは俺には判らないが──あれからもう百年も経ってるんだ。どのみち生きてるはずがない」
「質問に答えてないわ」
ウナはぴしゃりとはねつけるようにそう言った。
「答えて。──衛史は殺されたの?」
カラスは沈黙した。
彼の前には闇だけが広がっていた。ウナの声は闇の中から直接に響いてくるようだった。
──今、この闇のなかにいるのは、本当に──
根拠のない妄想だと思う。だがどうしても否定することができなかった。
カラスは逡巡した。だがやがて、あえてそれを打ち消すように、きっぱりと告げる。
「……殺されたよ」
いらえのないまま、何秒かが過ぎた。
やがて──闇のなかから、ウナが、少女のウナが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
彼女の目には、涙が溢れていた。
「どうして、もっと早く迎えに来てくれなかったの」
かすれた声でそう呟きながら、ウナは、倒れこむようにカラスの胴にしがみついた。
カラスは、ひきつるような嗚咽を漏らす彼女を、どうすることもできずに見つめていた。