2
ぱん、と小さな音を立てて、トレイが破裂した。
ウナはびくんと身を震わせて後ずさってから、あっけにとられて立ちつくした。
何秒か、そっと耳を澄ましてみてから、床に這いつくばって破片をかきあつめる。
トレイは、完全にばらばらになっていた。破片は小指ほどの大きさで、闇のなかで全てかきあつめることは到底できそうにない。載っていた二つのパンとチーズの塊は、どこかに転がっていってしまった。
ウナは、しばらく呆然とした後、傷ついてしまった右手の甲を軽くしゃぶって消毒すると、手さぐりで見つけだしたパンに思い切りかぶりつき、猛烈な勢いで食べはじめた。
まるで、必死で動揺を押さているかのようだった。
彼女がパンを食べ終える前に、窓のほうから、大きな羽音が聞こえてきた。
「ウナ」
カラスの静かな声が、彼女のところに降ってくる。
「どうしたんだい? 今夜も月がきれいだよ。光のあるところに出ておいでよ」
ウナはパンを齧るのをやめて、ゆっくりと窓の下に這っていった。
「ウナ──どうしたんだ? 泣きそうに見える」
カラスの驚いたような声。
それを聞いて、ウナはやっと、自分の目に溜まっているものに気づいた。
ふたすじの涙が、彼女の頬をつたう。
かすかな嗚咽。
「ウナ……ウナ」
カラスは困惑して羽をばたばたと動かした。
「どうしたんだ? 話してごらん、何があった?」
ウナは、しゃくりあげながら、右手をあげてカラスに見せた。
「怪我をしたのかい?」
ウナはいちど頷いて、それから首を振った。
怪我をした。けれども、泣いているのはそのせいではない──
そう伝えたかった。
「なんだい。どうして怪我をした?」
カラスは、ウナの足元に転がっているトレイの破片を見つけた。
「それが割れたのか?」
ウナは頷いた。
それから、絞り出すような声で、言う。
「急に……割れた」
「何もしていないのに?」
頷く。
カラスはしばらく黙りこんでから、どこか不自然なほど明るい声音で、言った。
「最初からひびが入ってたんだ。そういうこともある。──上においで」
カラスは昨日と同じように、ウナを窓のところまで引っ張り上げた。子どもとはいえ、人間ひとり抱えているというのに、カラスは一人のときとまったく変わりなく軽やかに飛び上がることができた。
「見てごらんよ、外を! ずっとこの部屋で暮らしてきたんだろう、君は」
ウナはかすかな声で何かを呟いた。カラスは聞き取れなかった。
「なんだい?」
カラスが聞くと、ウナはうつむいたまま、小さく繰りかえした。
「──出たい」
ウナの顎から、涙が一粒、煉瓦の壁にむかって落ちていった。
「それは……無理だよ。この格子は君がくぐるには狭過ぎるし、それに」
カラスは言いかけたが、ウナは聞いていなかった。
彼女は何も聞いていなかった。
かわりに街を見ていた。
城壁に囲まれた大きな街。その北側ぜんぶを、ここから見ることができる。
繁華街とおぼしき一角には、人々のさざめきを象徴するかのように、こうこうと昼間のように明るくともされた灯が見える。
人々の家が連なるあたりからも、窓から放たれる光が。
そして、空からは月の光──
街を歩く人の姿さえ見えた。
彼女が長いあいだ見たことのなかった、自分以外の人間の姿が、ここからは見えた。
(行きたい……)
ウナの手が、鉄格子をつかんだまま、がたがたと震えた。
言葉にならない思いがあふれ、やみくもに唇を動かす。
いつかの──この部屋に来る前のかすかな記憶が、蘇ってくるような気がした。
出たい。出たい出たい出たい。外に出たい。
この鉄格子がはずせるものならば、ここからまっすぐに地上に飛び下りてやりたい。
「ア──アァ──アァッ!」
ウナは叫んだ。
ここに入れられてから、ついぞあげたことのない叫び声だった。
だがそれも、風の音にまぎれ、人の耳に届くことなく消えていく。
孤独という言葉すら知らぬままに、ウナは泣いた。
泣き続けた。
カラスは何も言わず──いや、言えずに、立ちつくしていた。
いったい何が言えただろう? 彼女がこの塔に閉じ込められてからの長い長い年月に対して、どんな言葉が意味をなすというのだろう?
ウナは力一杯に鉄格子をゆすった。びくとも動かない。
構わずに泣き叫びながら格子を叩き続ける。手が痛くなっても止めなかった。やがて両手から血が流れ、叩きつける力が弱まってくると、今度は頭をぶつけた。額が割れ、そこからも血が流れた。だが彼女は止めなかった。
叩くことで、少しでも鉄格子が歪みはしないかと。
外へとつながる隙間が、少しでも広がりはしないかと。
そう思ったところで、かなうはずもない。
かなうはずもないが──
ウナの手に、ふわり、と軽い感触が当たった。
鉄格子が、ゆっくりと溶けてゆく。
ウナは、雪のようにふんわりと落ちていった。
月の光に包まれて。
*
物見塔の上のほうから何かが落ちていくのが見えたような気がして、草薙はふと顔をあげた。
月夜に空を見上げるのは危険なので、一瞬だけ目線を上にやって、すぐ戻す。
特に何も、変わったものは見えなかった。視界に入らなかっただけかもしれないが。
気のせいだ──そう思うことにして、また歩きだす。急がなければならない。
月の夜に外に出ているだけでも、危険なのだから──
白いマントに身を包み、目深にフードを被った彼の姿は、上空からは、まるで雪のように見えたかもしれない。
*
冬の始めに舞うひとかけの雪のように、ウナはゆっくりと落下していく。
少しずつ、少しずつ、歩くよりも遅く。
カラスはあっけにとられてそれを見ていたが、やがてはっとしたように空中にとびあがり、ウナの手を掴む。
「──ウナ! どうしたんだ?」
ウナは何かに見とれるようにぼんやりと目を細めていたが、その声を聞いてやっと、自分が落下していることに気づいたようだ。
──途端、彼女の体に重みが戻ってくる。
「掴まれ!」
カラスは叫ぶ。彼の強い翼は、ウナをかかえて上昇するだけの力を持っていた。大きく羽ばたいてウナを窓のところまで引っ張りあげる。
二人は窓のところに座りこんで、顔を見合わせた。
鉄格子はもう元に戻っていた。塔のなかには戻れない。
「どうして……」
カラスがうめく。ウナは首を振った。
「──出たい、って思った」
それだけを言って、黙りこむ。
カラスは溜息をついた。
「俺のすまいに来なよ。もうここにはいられないだろう」
ウナは頷いた。
空は少しずつ白み始めていた。