10
──どれほど走っただろう。
ウナはすでに、カラスとも、他の二人とも、はぐれてしまっていた。
あの少女はどうしただろうか、と思う。今まで気にしている余裕はなかった。
暴動は、街中に広がっていた。
いや、暴動どころではない。
街路には月獣が現れて人を襲い、植物は狂樹となって動きだす。
街を歩いていた人が、突然、獣化病にかかって狼になったりもする。
突然、人や建物が消えることもある。
そのさなかに、逃げ遅れた人々と、武装した男たちが、目を血走らせて駆けまわっている。
なかば獣化しかかった若い男が、剣につらぬかれて地面に転がっている。
となりに倒れているのは、普通の女のようだ。まきぞえで殺されたのか。
(……滅びが漏れているから……)
ウナは震える肩を両手でおさえて、そう呟いた。
この惨状は自分のせいだ。そう思う。
どうすることもできない。そんな自分が悲しかった。
──カラスはどうしただろう。
探さなければ。ウナはあてどもなくまた歩きだした。
*
草薙は、街の西側にある牧草地帯にいた。
このあたりは人口が少ないからか、こんな時でも静かである。
そのかわり、獣や狂った植物たちが、たくさん発生しているようだったが、草薙は意に介していない。
それどころか、むしろ、好んで獣たちのいるところに向かっているようだった。
さわさわ──と、足元の草がざわめく。
人の匂いに引き寄せられた獣たちが、近寄ってくる。
しかし、月獣も、魔力にあてられた植物たちも、彼が一瞥するとおとなしくなった。
「待ってくれよ──」
誰にいうともなく、草薙はつぶやく。
「まだ月が出ていないからね。月が出たら、一緒に──」
言葉の最後は、風に吹かれて消えていった。
*
「もう駄目! 歩けない」
稗田は、人けのない路地裏で、カラスにむかってそう叫んでいた。
「我が儘を言うなよ」
カラスはうんざりしたようにそう言った。
「あんたは目立つんだ。殺されたくないだろう」
「だって──」
「だってじゃない。全く」
どうして自分が──と言いたげに、カラスは溜息をつく。
ウナとはぐれてしまったばかりか、足手まといを二人も連れて、どうしろというのか。
「どうも月光症の奴はまっさきに襲われるらしいからな。あんたのその髪と目は危険すきる。魔法研究所の人間だから、顔を知ってるやつだっているだろうし」
「──どうして、こんなことになっちゃったのかしら」
稗田は、そう言って考えこんだ。
「知らんよ」
カラスはそっけなくそう言う。
「あるいは、もっと早いうちに公表していれば──今さらだがね」
「……所長が同じようなことを言ってたわ」
稗田は、研究所の中庭でみつけた川原の死体を思いだして、表情を暗くした。
「これからどうしようか……」
「もうすぐ日が沈むな」
カラスは空の様子をみてそう言った。日が沈めば、あとは月の時間である。
「いよいよとなったら、俺はウナをみつけて街を脱出するからな」
「私たちを置いていく気?」
「ウナひとりならともかく、三人は運べないさ」
「もう──」
稗田は、カラスはじっと睨みつけながら、横にいる少女の手を握った。
「この子がどうなってもいいっていうの?」
「できれば助けたいがね」
カラスは、そっけなく──聞こえるように──そう言ってみせた。
「だが仕方ないだろう。いざとなれば……」
「……あのさ。ものは相談なんだけど」
稗田は、カラスの耳に唇をよせて、囁いた。
「──ここで、命名の儀式を行えない?」
「何だって?」
「この子にウナさんのかわりをさせるの。……そりゃあなたは反対でしょうけど、でも、この状況を収めるには他に方法はないわ。時空竜巻だって来るんだし」
「だめだ」
カラスは、目つきを鋭くして言った。
「どうして? 道具なら……」
「そうじゃない。……その方法が、百年前になぜ使われなかったか、わからないか。『滅びを封じる』術は、他の魔法文字の力を吸収して、滅びの封印の中に溜め込むんだ。効果範囲内に同じ封印がふたつ存在すれば、互いに力を与えあって、かえって破裂を早めてしまう━━」
言いながら、どんどんカラスの声は高くなっていった。
(……だから、おれはウナを助けられなかったのだ。)
可能ならば、俺だって、やっていたに違いない。自分の体内に呪符を埋め込むことだって。
「あなた……」
稗田は目を細めていった。
「あなた、知らないのね。この街で、どれだけ魔法言語の研究が進歩したか」
「何だって?」
稗田は、懐に入れていた『暗号総論』をとりだし、ぱらぱらとめくった。
「……お前、そんなものまで」
「大事なものだもの。父さんの形見でさ。──まだ月は出てないわね」
稗田は空を見上げて言った。
「特殊なインクかなにか使ってるみたいで、月光の下でないと読めないの」
「……ゆうべ、読んでたのはそれか」
「うん。──幻病の目にだけ見えるんだって。きっと私のために書いてくれたんだわ」
「……ちょっと貸してくれ」
カラスは、稗田から本を受け取ると、ぱらぱらとめくってみた。
「これ──たぶん、俺でも読めるぞ」
「え!」
「月が出てないからよく分からないが──月砂墨だと思う。この街じゃあまり知られてないみたいだが、もともと人間には読めない文字を書くためのものだよ」
「人間には読めないって──だったら誰が読むっていうのよ」
稗田は不満そうに反駁した。
「だから俺みたいなのさ。月の魔力によって生きるものだけが読める。人間のなかでは例外的に、幻病の奴が、俺たちと同じような目をしているのさ」
「ふうん……」
なんとなくまだ納得がいかない様子で、稗田は言った。
「……それじゃ、読めるのね?」
「月が出ればな」
カラスはそっけなくそう言った。
「ま、とりあえずは……」
続けて、そう言いかけたときだ。
表通りのほうから、大きな声が聞こえてきた。
「おい! そこに誰かいるのか!」
(まずい──)
カラスと稗田は顔を見合わせた。だが走りだす間もなく、路地に、何人もの男たちが入りこんでくる。職人風の、体格のいい男たちだった。
「あんたら──魔法研究所の人間か」
いちばん年かさの男が、そう訊いてくる。
「違うよ」
カラスはそう言ったが、男は納得しなかった。
「その女は月光症だ。俺は知ってるぞ──研究所の女だ」
「……だったらどうなんだ」
「引き渡せよ」
「嫌だね」
カラスがそう言ったとたん、男たちが殺気づいた。
ナイフに金属の棒、鍛冶場のものらしい大きなハンマー。
相手の武器はそんなところだ。
(逃げるだけなら、なんとかなるか──?)
カラスは自問した。一人なら簡単だが、二人を連れて、となると……。
──背後に隠れるようにして立っている稗田に、そっと囁く。
「……二人ですぐ逃げろ。俺がなんとかする」
稗田は、わずかの間ためらったが、少女のほうを見て決心した。
すぐに、少女の手を引き、くるりと背を向けて反対側へと駆け出す。
「おい! 待て!」
背後から、さきほどの男の声が追いかけてくる。
稗田は必死で走った。
*
月の光がさす道を、ウナは一人で歩いていた。
さすがに今の時刻になると、外に出ている人間はあまりいない。
もうすぐ時空竜巻が来るというのに、街を出ようとする者もほとんどいなかった。
ウナ自身も、そうするつもりはなかった。少なくとも、今は。
カラスが彼女を置いていくはずはなかったからだ。
研究所を出てからずっと、ウナは、カラスを探すためだけに、街を歩いていたのだ。
あるいは、カラスに出会うより、街が滅ぶほうが早いかもしれない──そう思う。
それならそれで構わなかった。衛史は死んだ。自分もカラスも死ぬ。そういうものだろう。
(……カラス)
どこにいるんだろう──それだけを考えて、歩き続ける。
大通りから路地へ、路地から大通りへ、裏道から表通りへ。
そうやって、もう半日ほども歩き続けていた。
そして、ようやく……見つけた。
「カラス……」
路地裏に、ちらりと見えた鳥の姿に、そう声をかけて近づいていく。
「カラス。そこにいるの……?」
それは鴉だった。
羽を折られ、血を流して、ナイフで地面に縫い止められていた。
「……カラスなの……?」
ウナは、そっとナイフを抜くと、鴉を抱え上げた。
「──ウナ──」
かすかな声が、彼女の耳にとどく。
「──早く街の外へ──西へ逃げろ。時空竜巻が──」
「カラス!」
ウナは、口元をひきつらせて、そう叫んだ。
「どうして──」
「──早くするんだ。そこに、落ちている本を持って──街の外に」
表通りのほうから、人の声が聞こえてきた。
「……誰かいるの?」
ウナは、振り向いてそう言った。
「──誰かいるの?」
路地をのぞきこんだ女の声が、そう言った。
ウナは、カラスを抱いたまま、かすかに頷いた。
女──二十歳ほどの、背の高い女──は、路地に入ってきた。
「大丈夫? あなたも逃げてきたのね」
「……家族を探してたの」
どう答えていいかよく分からなかったので、ウナは、とりあえずそう答える。
「そう、大変だったのね。……ねえ。あなた、それ──」
少し、眉をひそめて、女がウナに言う。
カラスのことか、と思って、ウナは答えた。
「探してた家族。──怪我してるの」
「──捨てなさい」
急に、厳しい顔つきになって、女はそう言った。
「どうして?」
「もう死んでいるわ。それに……その鳥は、化け物なの。襲われて怪我をした人がいるのよ」
「だって……カラスも怪我をしているわ」
「駄目なのよ」
幼児を諭すように、女は続けた。
「それのそばにいたら、きっと殺されてしまうわ。──捨てなさい」
「駄目」
ウナは、女の目をじっと睨みつけた。
「いいから捨てなさい!」
女は、業をにやしてカラスの首に手をかけた。
──ウナの中で、何か大きなものが、はじけた。
*
それは龍だった。
中心街の一角から、突如、出現した龍は、街中で荒れ狂った。
*
稗田は、それが街を破壊するのを見た。
空を見上げると、ちょうど真上を飛んでいたそれと目があったような気がした。
怖くなって、横にいた少女の手を握りしめた。
温かかった。
*
草薙は、月のよく見える丘の上に横たわって、空を見上げていた。
街が壊れてゆくのが見える。
けれども、そんなことは、彼にとってはどうでもよいことだった。
ただひとり、稗田の安否だけが気遣われたが、それも、今となっては知りようがない。
ただ、月が綺麗だった。それだけが、今は、彼の関心事だった。
*
そしてカラスは、目の前で龍が女を食らいつくし、飛び去ってゆくのを見た。
とっさに、どうにかしなければ、と思ったが、体が動かなかった。
ウナは気を失って仰向けに倒れた。カラスも一緒になって地面に転がった。
体が動かなかった。
だが、月光がさしこんでいるから、しばらくたてば回復するだろう。
そうすれば──
*
ウナは夢を見ていた。
衛史が死ぬ夢。カラスが死ぬ夢。
たったひとりになってしまう夢。
塔のなかでの百年は長かった。誰にも会えなかった。けれども、本当に一人きりというわけではなかった。カラスが生きていたからだ。
死んでしまったら、もう絶対に会えなくなる。
何もかもが壊れてしまう夢を見た。
なぜか気持ち良かった。
草薙という男の夢を見た。
彼の目は優しげで、すべてを包み込むようなものをもっていて──
そして、ひどく、寂しげだった。
培養槽のなかの少女の夢を見た。
夢のなかで彼女はその少女で、生まれてずっと透明なケースに入れられているのだった。
外に出られたときの嬉しさといったら!
衛史の夢を、カラスの夢を、稗田という女の夢を。見た。
そして──
彼女は目覚めた。
*
カラスは自分の服を裂いて、そこに血で魔力文字を書きつけた。
衛史の知らなかった単語。稗田の置いていったあの本に、載っていたものだ。
「──ん」
ウナが小さなうめき声をあげて、目を開く。
「起きたかい。ウナ」
「カラス……大丈夫なの」
「ああ」
大丈夫ではなかった。だがそんなことは言っていられない。
「ウナ。聞いてくれ。今から命名の儀式をやり直す」
「……儀式を?」
「ああ。いいか、あの龍をなんとかするには他に方法はない。やるんだ」
ウナは迷わなかった。すぐに頷いて、聞いた。
「どうするの?」
「塔を出たときのことを思い出すんだ。鉄格子を溶かしたろう? あの感じを思い出して、龍を押し流す──まっすぐ東に動かすんだ。時空竜巻が来る方向に」
カラスはそう言った。
鉄格子を溶かし、塔から彼女を出したあの力は、おそらく滅びの力とは異質のものだ。
ウナに備わっていた魔力の一部が、彼女の願いにこたえて発動したのだろう。
「そんなこと……できるの?」
「できるんだ。お前が持っている莫大な魔力をすべてそのための力に変換する」
カラスは呪符を右手に掴んで、言った。
「そこに横になって、上着をまくってくれ」
「……うん」
ウナは、冷たい地面のうえに仰向けに寝た。
その、下腹。
ちょうど臍の下あたりに、呪符が埋め込まれている。
カラスは、目測で見当をつけて──そして、左手を思い切りウナの体に突っ込んだ!
「がっ──!」
ウナが、苦しげなうめき声をあげる。腹からだくだくと血が流れていた。
カラスの手は、彼女の皮膚を貫いて、体内の呪符に届いている。
(これだ……)
カラスは、血と肉片にまみれたそれを取り出すと、右手に持っていたもう一枚の呪符を、同じように手をさし入れて埋め込んだ。
「これでいい……」
痛みのあまりか、目を見開いたまま失神しているウナに、彼は囁きかけた。
「今より略式ながら、命名の儀式をとり行う。旧名、ウナ。月より生まれしものにて滅びを封じるもの。新名──」
気合を入れるようにすっと息をついて、カラスは続けた。
「新名、ユナ。滅びを祓うもの! 目覚めよ、そして滅びをうち払え!」
*
ウナの体が、すうっと光に包まれて浮かびあがった。
その光はまさしく月光であった。
中空高くまで浮かんだ彼女に、龍が近づいていく。
──ウナの表情が動いた。
ウナは、にっこりと笑って、龍に手をさしのべた。
おいで。
消してあげる!
龍は彼女に絡みついた。
何度も何度も、ウナと龍は互いに位置をかえ、絡んだり絡まれたりして、動いた。
そして、しだいに、彼らは西へと向かっていった。
草薙はそれを見ていた。
稗田もそれを見ていた。
カラスも、そしてあの少女も。
街のほとんどの人間が、同じようにそれを見ていた。
街より少し離れたところに、時空竜巻が発生していた。
強烈な歪みのかたまりが渦を巻く空間。
彼らはそこに、ひとかたまりになって突っ込んでいった。
そして、彼女だけが、残った。
彼女は、滅びのすべてを祓いおえると、地面に手をついて吐いた。
胃液と血にまじって、魔力文字のかかれた呪符を吐いた。
そして全身から血を流して転がっていた。
──月の光のさす、夜に。




