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穏やかな夜だった。
かすかな月あかりが鉄格子を通して入ってくる。それで月夜なのだと知れる。
闇夜であればそれがなく、もし昼であれば、かわりに太陽の光が差し込んでくるだけのことだ。光のあたる、床のほんの一部分のほかは、どんな時刻でも変わらずに闇のまま。
この部屋で、ウナはずっと暮らしてきた。
長い、長いあいだ、ずっと。この陰気な部屋で。
おかげで彼女の目はすっかり衰えてしまった。昼間の太陽はおろか、月あかりでさえ、まともに見上げると頭が痛くなる。
ウナは最後のパンを齧りおえると、食事の載っていたトレイを部屋の隅に放り投げた。
──からん、と乾いた音が、闇のなかに響く。
それに応えるように、外から、かすかな鳥の声が聞こえてくる。
その鳥を、彼女は知っていた。
黒い鳥……なんと言ったか、とにかく黒い鳥だ。
見たことがあるのだ。どこで見たのかは分からない。この部屋に来る前かもしれない。
彼女は、ここに来る以前のことは、あまり覚えていないのだが。
ふぁぁ、と溜息のような欠伸をして、ウナは床に倒れこんだ。
鉄格子ごしに吹く静かな夜風が、彼女を優しく撫でてゆく。
「──何をやっているんだい」
ふいに、月の光を割って、声が響く。
「そんな暗いところで寝ていないで、光のあたるところに来たらどうなんだい」
久しぶりに聞く『言葉』の響きに、ウナはびくりと身を震わせた。
体を起こさずに、じぃっと、獣のように耳を澄まして待ち構える。
「なんとか言いなよ。話せるんだろう?」
声はまた降ってきた。ウナはこんどはいっぺんで跳ね起きて、声のするほうを見上げる。
鉄格子のこちら側に、一羽の黒い鳥が止まっていた。
「あなた……は?」
古い古い、『言葉』についての記憶を懸命に呼び起こして、ウナはそう聞いた。
「おれは鴉だよ」
黒い鳥は、そっけなくそう言うと、ばさばさと羽を動かした。
「どうして外を見ないんだい? 窓が鉄格子で塞がれていたって、光までは遮られていないじゃないか」
「届かないよ……窓まで」
いったん思い出すと、言葉はさらさらと出てきた。
「私、背が低いから」
「見上げてごらん。格子のあいだから、空が見えるだろう」
ウナは首を振った。もどかしげに何度か口を開き直してから、言った。
「……光を見ると目が痛いの」
「大丈夫だよ。今夜は満月だ。月の光は目にいいんだよ」
鴉は優しい声でそう言って、手招きをするように羽を動かした。
「こっちへおいで。届かないなら、俺が引っ張り上げてあげる」
そう言って、軽く風を切ってカラスはウナのところまで舞い降りた。
ウナは肩を強く掴まれ、そのまま一気に、上まで引っ張り上げられる。
煉瓦製の壁はとても厚くて鉄格子は窓のいちばん外側にあるから、ウナは格子に両手をかけて、壁の切れ目のところに座りこむことができた。
横にちょこんと立った鴉が、自慢そうに言う。
「どうだい、きれいだろう」
──さあさあと注ぐ月の光。
──それを囲むは夜の闇。
街にはあかり。
人のざわめき。
大きな大きな満月が、人々を見守るように輝いている。
「……月がこんなに大きくなったのは、今から五百年くらい前のことなんだ」
鴉が静かな声で言う。
「月は、すべての魔力の源なんだよ、ウナ」
空には月と星。
街にはあかり。
街のあかりは人の世界の海。
人の声はさざ波。
揺れる風の音はひどく悲しげに。
そして天の星たちは、何もかもを見守るように。
月と星と風。それだけは、いつまでも変わらずに──
「……か、ら、す」
ウナはかすかな嗚咽とともに呟いた。
彼女は泣いていた。
百年の孤独を吐き出すように──
*
さあさあと月の光が注ぐ街で、男と女が話していた。
この街で二番目に大きな建物のなか。街の中心近くにある、『魔力研究所』と看板を掲げた建物の真ん中の、窓のない小さな事務室で。
「……読みましたか」
くぐもった声で、男のほうが、彼よりも少し年上のように見える女に、そう尋ねる。
女は頷く。
「データが足りないので、概算ですが。──このところの異変と考えあわせると、間違いないかと」
そう、男が言って、しばらく二人は黙りこむ。
「──方法はあるの?」
女が静かにそう言う。
男が首を振る。
二人は、それ以上何を言うでもなく、そこで向かい合っていた。
月光ランプの小さな明かりが、二人の絶望に満ちた顔を映し出す。
この街は、滅びに瀕していた。