葉月・弐
短い列車は天蓋のない野晒しのホームに進入した。外灯の影は既に随分と伸びてしまっていて、点滅を繰り返していた。この無人駅は町の最寄り駅でここからは歩いていけないこともない距離だったが、それでも都会者にとってなかなかの隔たりである。父の知人に一報入れれば迎えの車でもよこしてくれたであろうが、それには及ばなかった。日に二三しかないバスが水を湛えた田と田の間に伸びた畦道を、蝉時雨にそのエンジンと車の音を割り込ませつつやってきたのはちょうどその時だったからだ。
バスは轍を延ばしつつその駅を遠ざかり、その町へ近づいていった。窓枠から望める風景は列車から眺めたそれと対して変わらなかった。彼はノスタルジアを覚えた。けれどもその時の彼の頭の中は極めて差し迫った事によってそのほとんどを占められていた。
(一体如何様にこの「事件」を説明しようか。気狂いと思われるのならまだしも、何か巧妙な手口を以って彼女をものにしようとしている策士だと思われるのは辛い。そもそも、あの人たちにこのことを話すことは一体私に何をもたらしてくれるのだろうか。本当に私は慰めを得られるのだろうか、その根拠は云々。)
こんな具合に彼はこの話題に夢中になっていてかつ荒れ道を進むバス車内はなかなかに喧しかったのでしばらくの間、運転手が話しかけてきていたことに気が付かなかった。見慣れない若者だ、という如何にもな「問いかけ」だった。
「あの町を訪れるのは何も初めてではありませんし何度も来たことがあります。けれども当時はまず高速鉄道でこの地方まで来て、そこからは自家用車を使っていたので…。私は数年前まであの町にいた(祖父母の姓名)の孫です。祖父をご存じで?」
そう答えると白髪の男性は、あの人のお孫さんかという具合で納得がいったようだった。「近頃このあたりは危ない運転をする奴らが走り回ってかなわんわ。」
長い間この路線の運行に従事してきたこの老人は誰にでもなくそう愚痴をこぼした。
そうして唯一の乗客と運転手とが他愛のない会話をしているうちに、バスは町に至り彼は下車した。それと入れ違いには数人の客が乗り込んだ。
そのバス停の周囲はアスファルトで舗装されていた。曲がりくねった川に沿って伸びる道路の脇には家屋がポツリポツリと点在している。いくつかからは灯りがこぼれていてまた幾つかはそのシャッターを下ろしていた。すっかり日の落ちたあたりから響いてくる細い虫々の声と流水の音とが、身体を撫でるそよ風に勝って涼しさを感じさせてくれた。そこから少し離れたところで脇道に入り緩やかな斜面を登ると灯りの灯っていない一軒の家に至った。表札には彼のそれと同じところの姓が掲げられていた。