初陣(二)
蘆屋道満は、安倍晴明と同じ時代を生きた陰陽師で、晴明とはライバル関係にあった。
晴明に匹敵する強力な呪術を操る道満は、呪詛を得意とし、貴族の藤原顕光に依頼されてある人物を祟り殺そうとした。その人物というのが、晴明を重用していた藤原道長である。
道長は娘の彰子を一条天皇の皇后(中宮)にして、当時の日本の最高権力者となっていた貴族だ。その道長と敵対していた顕光は、道満に道長を呪わせたのである。
道長は毎日、法成寺という自らが創建した寺に参詣していた。ある日、道長が寺の門をくぐろうとすると、道長に可愛がられていつもお供をしていた飼い犬がしきりに吠えて主人である道長を寺の中に入れまいと引き止めたのである。
道長は不審に思って晴明に相談した。晴明が占ってみたところ、何者かが道長を呪詛しているとの占いの結果が出た。寺の敷地の土を掘り起こすと、晴明の言う通り、呪いの呪文が書かれた土器が見つかった。
「このような術が使えるのは、晴明をのぞいては道満しかいない」
こうして道満の呪詛は失敗し、彼は播磨国(現在の兵庫県)に追放されたのであった。
「……というわけで、晴明によって悪事をあばかれた道満は京都を追い出され、道満の一族は我ら安倍晴明の子孫を恨むようになった。三重道鬼は、その道満の一族の枝分かれじゃ」
「先祖が悪いことをしたのに、千年たってもまだ恨んでいるなんてしつこいです……」
夢の葉があきれて言うと、晴英はため息をついた。
「長きにわたって土御門家によって封印されていた玉藻前も、儂たちのことを恨んでおるじゃろう。いいか、美恵よ。陰陽師として生きる運命を背負った者には、人々の恨み、嫉妬、欲望……様々な負の感情がおのれに襲いかかってくる。土御門家の当主には、それらに負けない心の強さが必要じゃ。背を向けて逃げ出せば、邪悪な怨念はたちまち、お前を呑み込んでしまうぞ」
「はい」
美恵は姿勢を正して返事をした。そんな姉を虚ろな目で見つめていた晴久は、
「……ごちそうさま」
と、沈んだ声で言い、食卓から離れた。
「晴久さま、どうしちゃったんでしょう?」
夢の葉が心配して言ったが、美恵は「うん……」と曖昧な返事をするだけで、晴久を追いかけようとはしない。晴英も黙って食事をしている。
宗十郎の呪詛返しによって官房長官の須永正吾がのたうち回って死の苦しみを味わっている姿を目撃して以来、晴久の元気がなくなったことは美恵も気づいていた。おそらく、陰陽師の恐ろしい世界を実際に目の当たりにして、恐怖にかられてしまっているのだろう。
もし、このまま晴久が陰陽師の仕事に関わることをやめて、普通の中学生として生活していく道を選ぶのならば、それでもいいと美恵は考えている。こんな陰陽師一族の宿命を背負うのは自分一人だけで十分なのだ。……父の晴勝のようにどこか遠くへ行ってしまわなければ、家族としてそばにさえいてくれたら、美恵はそれだけで幸せだと思うようにしていた。
「ユメ、ちょっと様子を見てきます!」
「えっ、ユメ……?」
まだ子どもの夢の葉には、そういう複雑なことは分からない。晴久の元気がないのなら励ましてあげたい。そう単純に考えているのだ。
夢の葉は二階の晴久の部屋に行ってみたが、晴久は部屋にはいなかった。部屋の窓から外を見下ろすと、道路を歩いている晴久が見えたので、夢の葉は急いで追いかけた。
「晴久さまーっ! お散歩なら、ユメもお供します~!」
一人にしておいてくれというオーラを出しながら居間を出たので、まさか誰かが追ってくるとは思っていなかった晴久は、驚いて振り向く。
(落ち込んでいる時は、一人でいたいんだけれど……)
そうは思いながらも、夢の葉が追いかけてきてくれたことを喜んでいる気持ちもほんのちょっとあった。放って置いてほしいというやさぐれた心とは別に、誰かに気にかけてほしいという心が晴久の胸に矛盾しながらも共存していたのである。
「ユメはいつも元気だな。うらやましいよ。僕もユメみたいだったら、姉ちゃんの力になれるかもしれないのに」
晴久は、しばらくの間、今朝走ったランニングコースをうつむいて黙りながら歩いていたが、信号待ちをしている時に、夢の葉にそう言った。
「そ、そんなことないです。ユメだって、失敗しちゃって落ち込むこともあります。むしろ、しょっちゅうです。立ち直りが早いだけです。京都の晴定さまが、美恵さまに言っていました。『昨日の失敗を後悔してずっと引きずっていても、人間は成長できない。反省したら前へ進め』って」
「前へ進め……か」
今の晴久は立ち止まってしまっている。美恵の陰陽師としての仕事を助けるのだとあれだけ強い決心をしていたというのに、呪詛返しでもがき苦しむ須永正吾の姿を見て、絶対に揺るがないと思っていた覚悟があっけなく揺らいでしまったのだ。
「僕は自分の弱さが憎い。姉ちゃんを守りたいのに、僕の心の弱さが足を引っ張るんだ」
「晴久さま……」
右手に温もりをふと感じて、晴久は夢の葉を見た。夢の葉は小さな両手で晴久の手を握り、悲しそうな顔をしている。
「自分を憎いだなんて言わないでください。ユメは、自分を責めて追いつめている人を見るのが辛いんです。ツユお姉ちゃん(露の葉)も、晴勝さまが家出したのは私の責任だと言って、ユメたち白狐一族と縁を切ってどこかへ旅立ってしまいました」
「ユメ……」
夢の葉の頬をつたう涙を見て、晴久はさっきの自分の言葉を後悔した。自分一人が悩み苦しんでいると思いこんでいたが、晴久のことを心配している夢の葉もまた小さな胸を痛めていたのだ。晴久が自分を責める言葉を言えば言うほど、夢の葉の心も傷つけていたのである。
「ごめん、ユメ。もう自分が憎いなんて言わない。約束するよ」
「だったら、ユメにも一つ約束させてください。晴久さまが前へ進めなくなった時は、ユメが背中を押してあげます。ユメ、これからは美恵さまだけでなく、晴久さまのサポートもさせていただきます」
ユメはそう言うと、自分の右手の小指を晴久の右手の小指にからめた。
「指切りげんこつしましょう、晴久さま」
晴久は、思わずプッと吹き出してしまう。
「それを言うなら、指切りげんまんだろ?」
「ええ⁉ わ、私たちの里の信田森では、そ、そう言うんです!」
「嘘つけ。ふふっ。……いいよ、しようか」
「はい!」
「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボンのーます! 指切った!」
二人は指と指でつながった手をぶらぶらと揺らしながら、声をそろえて言った。
「ユメ。ありがとな。おかげで、ちょっと元気が出てきたよ」
指切りをした後、晴久は夢の葉の頭を撫でた。晴久の優しい眼差しに見つめられて、なぜだか急に恥ずかしくなった夢の葉は顔を赤らめてうつむいてしまった。
「ど、どういたしまして……」
指切りをしてから、夢の葉の中で何かが変わってしまったみたいだ。晴久の声を聞き、晴久に触れられ、晴久に見られると、もじもじしてしまう。この幸せでくすぐったい気持ちは何だろう?
「ユメ。耳と尻尾がまた出てる」
「あっ! す、すみません! い、今、隠します!」
知らぬ間に、尻尾だけでなく耳までパタパタと上下させていた夢の葉は、慌てて耳と尻尾をしまった。
「黙って家を出てきたから、姉ちゃんとじいちゃんが心配しているかも知れない。そろそろ戻ろうか、ユメ」
「は、はい」
プルルル プルルル プルルル
二人が家に帰ろうとした時、晴久のスマートフォンが鳴った。着信の名前は「平野紗枝子」と表示されている。
(また総理大臣の身に何かが起きたのか?)
「はい」と電話に出ると、野太い男の声がして、晴久は心臓が飛びはねるほど驚いた。
『もしもし? もしもし? おーい、もしもし!』
「ど、どなたですか? ひ、平野紗枝子さん……ではないですよね?」
『私だ。総理大臣の平野道隆だ』
日本国のトップが選挙権のない中学生に何の用なのか。声は元気そうだから呪われている心配はないようだが、電話口からひどく慌てている気配が伝わってきていた。
『娘がさらわれたんだ。助けてくれ。君のお姉さんの力が必要なんだ』
「えっ! 平野さんが⁉ それなら僕の姉ではなくて、警察に連絡したほうが……」
晴久も紗枝子のことが心配だったが、陰陽師に誘拐事件を解決してくれと言われても困る。そういうのは警察の仕事ではないか。
『ただの誘拐ではないんだ。陰陽師に……あの三重道鬼という男にさらわれたんだ!』
「ど、どういうことですか、それは!」
平野首相が早口で説明した内容によると、美恵たちが帰った後、道鬼は首相に約束の金を渡せと要求してきた。死にかけていた時は助かるためなら五千万円の金など惜しくはないと思っていた首相だが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざ通り、こんなガラの悪い男に大金をやるのは嫌だと思った。しかし、道鬼もいちおう選挙権を持っている人間なので、一票でも票が欲しい首相は嫌々ながら五千万円を道鬼に渡したのである。すると、
「五千万円だと? 話にならん。命を助けてやったんだ。一億円を寄こせ。総理大臣なんだから、それぐらいの金は持っているだろう?」
「ふ、ふざけるな。最初の約束と違うではないか。この詐欺師! インチキ陰陽師め!」
怒った平野首相は、警備員たちに命令して道鬼と息子の宗十郎を首相公邸からつまみ出したのである。紗枝子が誘拐されたのはそれから三時間後だった。
総選挙の直前のため、首相もその妻の綾子も都内を忙しく飛び回り、演説をしたり支援者と会ったりしていたのだが、昼過ぎになって首相公邸から電話で驚くべき連絡が入ったのだ。
『た、大変です! 紗枝子お嬢さんがさらわれました!』
「な、何⁉ 誰に誘拐されたのだ?」
『カラスです! 人間よりも大きなカラスが飛んできて、公邸の中庭を歩いていた紗枝子お嬢さんをさらっていったのです!』
「人間よりも大きなカラスだと? そんな馬鹿な話があるか!」
首相はそう怒鳴ったが、もしかして、あのインチキ陰陽師の親子が自分に復讐するために娘を誘拐したのかもしれないと思い、急いで首相公邸へと戻ったのである。
「さっき、巨大カラスがまた飛んで来て、こんな手紙を置いていきました」
警備員から渡された手紙を読むと、案の定、道鬼からの手紙だった。「日付が変わるまでに十億円を指定した場所に持って来ないと、貴様の娘をカラスのエサにしてしまうぞ」と書かれていた。
「じゅ、十億円⁉ 一億円から十倍に増えているではないか!」
「あなたがお金を渡さないから、こんなことになるんですよ! どうするんですか! 怪しげな術やカラスの化け物を操るような輩から警察が紗枝子を救い出せますか⁉」
妻の綾子が首相の体をあちこち叩きながら泣きわめくと、首相は「うるさい!」と怒鳴った。
「午前中、私が死にかけていた時に、そばにいなかったくせして偉そうなことを言うな!」
「あなたが選挙で勝つために、朝の七時から都内中を走り回っていたんじゃないですか! あなたは昔からそうよ。自分が偉くなるために、妻の私や娘の紗枝子を犠牲にして!」
「い、今はそんなことを言い争っている場合ではない。そ、そうだ。安倍晴明の子孫とかいうあの少女に助けてもらおう。たしか土御門とかいったな。彼女の弟が紗枝子のクラスメイトらしいから、きっと力になってくれるだろう。子どもだから大金を寄こせだとか要求してこないだろうし」
首相は、紗枝子がさらわれた時に落としたスマートフォンの通話履歴から「土御門晴久」という名前を見つけ出すと、電話をかけたのである。