呪詛返し(二)
美恵の話を聞き終えた晴久は愕然としていた。
「そ、それじゃあ……母さんが死んだのは玉藻前の呪いのせいなのか⁉」
「……うん」
「で、でも、ひいじいちゃん、最近再婚したじゃんか。結婚相手の優子さん危ないぞ」
「ひいじいちゃんはもう百五歳だから、子孫を残す元気なんてないよ。だから、玉藻前は、優子さんは狙わない。むしろ、今一番危ないのは……」
「……姉ちゃん」
こんな恐ろしい話を聞かなければよかったという後悔と何としてでも姉を守らなければという使命感、そして、玉藻前への激しい怒り……。あらゆる感情が晴久の胸で渦巻いた。
「もしも玉藻前が完全に復活してしまったら、長年に渡って自分を封印してきた土御門家を真っ先に滅ぼそうとするはず。いや、それよりも……」
「そ、それよりも?」
「手っ取り早く、この東京を私たちごと妖術で壊滅させる可能性もあるわ」
「と、都市一つを壊滅……⁉」
晴久は、ぐらりと目まいがした。そんなとんでもない妖怪が目覚めてしまったというのに、美恵はいったいどうやって戦うつもりなのだろうか。
「大丈夫です、晴久さま! 美恵さまはとっても強力な霊力を持っているんです! 千年に一度の陰陽師になる……予定なんですから!」
夢の葉が晴久を励まして言った。夢の葉は美恵の陰陽師としての実力を信じ切っているようだ。たしかに、美恵の持つ霊力は祖父の晴英や曽祖父の晴定をはるかに上回り、
「おそらく、美恵は、土御門家にとって、先祖の安倍晴明に匹敵する最後の大陰陽師になるだろう」
という推測を晴英や晴定はしているほどだ。
安倍晴明の母となった葛の葉は、夫である晴明の父にこう約束したという。
――私は、あなたと私の血を受け継ぐ子孫たちをおよそ千年ほど守護します。そして、始まりの子である晴明と、終わりの子である千年後に生まれる女性に偉大なる霊力を与えましょう。
そして、晴明の誕生から千年と数十年が経った現代、女である美恵が土御門家の当主となった。葛の葉が言う「終わりの子」とは美恵に違いない。つまり、美恵には偉大な陰陽師・安倍晴明に負けない才能を持っているはずなのである。
だが、美恵はまだ十四歳で陰陽師としての経験は非常に浅い。八万人の軍隊が大苦戦してようやく倒した玉藻前と果たして戦えるのだろうか。
「そんなに不安そうな顔をしないでよ、ハル。足腰が弱って体力もなくなってきたおじいちゃんでは、玉藻前との激しい戦いには耐えられない。私がやるしかないの。それに、勝算がないわけでもないし」
「え? 勝つ自信があるのか?」
「うん。わたしが東京へ行く前に、ひいおじいちゃんが白狐たちに調べさせたのよ。日本中に散らばった殺生石の欠片は無事かをね。そうしたら、岡山県、新潟県、広島県、大分県の殺生石伝説が一般の人々に伝承として残ってしまっている土地に封印されていた殺生石の欠片は消えていたことが分かった。でも、土御門家の陰陽師たちが各地に隠した殺生石の欠片は、東京のものをのぞいて今のところ無事なの。つまり、玉藻前はまだまだ不完全な状態のはず。殺生石の欠片を全部集めて手がつけられない化け物になる前にもう一度封印してやればいいのよ」
「封印するといっても、玉藻前が隠れている場所は分かっているのか?」
「まだ分からない。けれど、過去の例を見ると、玉藻前は国で一番権力を持っている男性の前にいつも現れているわ。権力者を自分の操り人形にして国を滅ぼすためにね」
「日本で一番権力を持っている男性というと……内閣総理大臣。平野さんのお父さんか!」
晴久がそう叫ぶと、美恵はコクリと頷いた。
「あの人、誰かに呪われているみたいだし、すでに玉藻前の陰謀に巻き込まれている可能性がある。だから、娘の紗枝子さんに名刺を渡しておいたの」
「平野さん、大丈夫かな……」
晴久が紗枝子のことを心配してそう呟くと、美恵はニヤニヤと笑って弟をからかった。
「ハル。あの子のこと、好きなの?」
「なっ⁉ そ、そんなわけないだろ? クラスメイトとして心配しているだけだよ! からかうなよ、姉ちゃん!」
恋愛話が苦手な晴久は、顔を真っ赤にして美恵を追いかけた。美恵は笑いながら逃げ、姉と弟は夢の葉のまわりをぐるぐると回って追いかけっこをする。
「め、目が回ります~」
首を忙しなく動かしながら二人の鬼ごっこを見ていた夢の葉は、目を回してふらふらになるのであった。
ランニングを終えて家に戻ると、美恵が「私が朝食をつくるよ」と言い、おばあさんが着るような割烹着すがたで台所に立った。晴久は割烹着に年寄り臭いイメージを持っていたが、若くて綺麗な美恵が身に包むと逆に可愛らしくておしゃれに見えるなと感心した。
しかし、心配なことといえば……。
(姉ちゃんが料理なんて……大丈夫なのかな?)
ということである。長いこと陰陽師の修行ばかりしていた美恵は、一般常識に欠けるところがある。東京に東京スカイツリーという電波塔ができたことを知らなかったり、晴久がスマートフォンの画面を指で操作しているのを不思議そうに見ていたり(画面をタッチしたら操作できることを知らなかった)、インターネットをしていてパソコンがウィルスにかかると人間まで病気になるというおかしな勘違いをしていたり……。
そんな美恵が料理をちゃんとつくれるのだろうかと晴久は心配したのだが、夢の葉が「そんなに不安がらなくても大丈夫です」と言ってくれたので、大人しく料理ができあがるのを待つことにした。
「ご飯できたよー」
晴英と晴久は、食卓に並んでいる朝食を見て驚いた。
「黒こげ料理を食べさせられるのかと思ったら、普通に美味しそうな料理だ……」
「ハル、失礼ね。嫌なら無理して食べなくてもいいのよ?」
「た、食べます。食べさせていただきます」
これまで男だけの二人暮らしで、料理ができない晴英と晴久は、電子レンジで弁当を温めたり、出前を頼んだり、たまには外食したりなど、手料理というものに飢えていた。美味しそうな手料理をいざ目の当たりにすると、よだれが出てきたのである。
「う……美味い! 美味いよ! 姉ちゃん! これって京都の家庭料理?」
「近所に住んでいるおばあさんたちから教わったの。ハルが今食べているのはイワシの酢煮だよ。酢で煮るとイワシの骨が柔らかくなって、骨ごと食べられるんだ。イワシは脳の老化を防ぐ効果があるらしいから、おじいちゃんは残さず食べてね」
「年寄りあつかいするな。もぐもぐ……。たしかに美味いが、ワシはもっと油っこいものが食べたい」
「ダメだよ、おじいちゃん。最近、胃の調子が悪いんでしょ? ハルから聞いたよ」
美恵がそう注意すると、晴英は横の席で吸い物をすすっていた晴久をギロリと睨み、
「また余計なことを言いおって……」
などとブツブツ言いながら、晴久が最後に食べようと残しておいただし巻き卵を素早い箸さばきで奪い、口の中に放り込むのであった。
「じいちゃん! 何するのさ!」
「うるさい。もたもた食べているお前が悪いんだ」
「あっ、今度は漬物を……。だったら、こっちも!」
「ふん! ワシからおかずを奪おうとするなど百年早いわ!」
晴英のイワシを盗もうとした晴久の箸は、晴英の箸によって払いのけられた。ムキになった晴久は何度も晴英の皿に箸をのばすが、そのたびにガードされてしまい、二人の攻防は美恵に「おじいちゃん! ハル! 行儀が悪いよ!」と叱られるまで続くのであった。
晴英におかずをさんざん奪われた挙句、美恵に怒られてしまった晴久だが、心の中はとても幸せな気分でいっぱいだった。七年前に美恵が家からいなくなってしまって以来、止まっていた時間が動き出したのだ。姉の手料理を噛みしめながら、晴久はそう感じていたのである。
朝食後、美恵は京都で通っていた中学校のセーラー服に着替えると、
「ハル。栄桜学園まで道案内してくれる?」
と晴久に言った。栄桜学園とは、晴久が通っている中高一貫の学校のことで、美恵も夏休み明けの九月から通うこといなっている。
「玉藻前を捜すパトロールのついでに、どんな学校か見学したいの」
「いいよ。徒歩だと一時間半ぐらいかかるから、僕は電車で通っているんだ」
「うえ……。電車……」
駅で切符を買ったり、たくさんの路線のどれに乗ればいいのか探したりするのが苦手な美恵は、眉をしかめた。
「美恵さま。ユメもお供するのでご安心ください! ユメ、電車の乗り方はマスターしましたから!」
夢の葉が胸を張ってそう言った。晴久は、まだ小さいのに美恵を一生懸命サポートしようとする夢の葉を見て、ほほえましく思った。
「それじゃあ、出かけようか」
晴久もいちおう学校に行くので制服に着替えると、三人は家を出て、土御門家から一番近い駅の西太子堂駅に向かった。
京都にいた頃、曽祖父の晴定から、「犬も歩けば棒に当たる」ということわざをもじって「美恵は歩けば道に迷う」とからかわれるほど迷子の達人(?)だった美恵も、晴久と夢の葉の二人がしっかり見張っていたおかげで、一度も迷子にならずに駅にたどり着くことができた。しかし、いざ切符を買おうとした時、
プルルル プルルル プルルル
「あれ? 平野さんから電話だ」
晴久のスマートフォンが鳴りだしたのである。夢の葉に教わりながら美恵が大汗をかいて切符を販売機で買おうとしている横で、晴久は「はい」と電話に出た。
『つ、土御門くん? 今、そばにお姉さんいる?』
切羽詰った紗枝子の声で、総理大臣の身に何かあったのだと晴久は直感した。
「いるよ。お父さん、大丈夫?」
「ぱ、パパ、朝食中に突然苦しみだして、美恵さんからもらったお札もバラバラに破けちゃったの。どうしよう、今にも死んじゃいそう!」
「不呪詛符が破けた? さらに強力な呪詛をかけられたのね……」
野生動物なみの聴力を持つ美恵は、電話越しからの紗枝子の悲痛な叫びを聞き、今すぐにでも駆けつけないと、紗枝子の父親が危ないと判断した。
「ハル。学校見学は別の日でいいから、紗枝子さんの家に行こう。紗枝子さんの家の住所、知っている?」
「総理大臣の娘なんだから、首相官邸の隣の首相公邸に住んでいるに決まっているじゃん」
「官邸? 公邸? 何が違うの?」
一般常識がない美恵は、頭上に無数のはてなマークを浮かばせ、首を傾げた。緊急事態なので晴久は手短に説明する。
「官邸は首相が執務をして、内閣の閣議が行われる場所。公邸は首相と家族が住む場所」
(閣議……? 政治家たちの会議のことかしら?)
美恵は、また新たな疑問が浮かんだが、今は一刻も早く首相公邸に向かわなければならないのにこんな所でゆっくりしている時間はない。
「ハル。私をその首相公邸に連れていって。総理大臣にかかった呪いの正体をつきとめたら、玉藻前を見つけ出す手がかりをつかめるかもしれないし」
「分かった、行こう。ユメ、首相公邸は栄桜学園とは逆方向だから、そっちの路線に乗ったらダメだよ」
「そ、そうなんですか? どうすれば……」
「世田谷区線から東急田園都市線に乗り換えて、永田町駅を降りて徒歩」
何とか線やらほにゃらら線と美恵にとってわけの分からない単語を晴久が早口で言う。
(私、しばらくは晴久なしで東京を出歩くことできないかも……)
ちょっと情けない気持ちになる美恵であった。