呪詛返し(一)
翌朝、晴久が早朝ランニングをしようと玄関に行くと、夢の葉が「困りました、困りました……」と、うんうんと唸りながらおろおろしていた。夢の葉は、白狐の普段着である白い和服ではなく、半そでのTシャツと短パンという今の晴久と同じかっこうをしている。
「ユメ。どうしたの?」
「あっ! 晴久さま、おはようございます! あ、あのぉ……美恵さまの早朝ランニングのお供をしようと思っていたのに、寝坊してしまいまして……。美恵さまは七年間住んでいた田舎の村でもよく迷子になってしまうような人ですから、ユメがついていないとお家に戻って来られないんです。それなのに、一人でランニングに行っちゃったみたいで……。このままだと、美恵さまが迷子になって野垂れ死にしてしまいます……」
夢の葉は涙ながらにそう訴えた。晴久は、
(そういえば、姉ちゃん、小さい時から方向音痴だったなぁ。姉ちゃんと二人で公園に遊びに行ったら、帰り道が分からなくなって、一晩中、知らない町をさ迷った覚えがある……)
幼い頃の苦い思い出が蘇り、ちょっと心配になってきた。
「僕もこれから走るんだ。一緒に姉ちゃんを捜そうか」
「あ、ありがとうございます!」
夢の葉の曇っていた顔がパァッと明るくなった。可愛らしく笑う夢の葉を見て、
(ユメはいい子だな。姉だけでなく、妹ができたみたいだ)
晴久はそう思い、微笑むのであった。七年間続いた祖父と二人っきりの寂しい生活を思うと、美恵と夢の葉がいる賑やかな今が夢のようである。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
晴久と夢の葉は土御門の屋敷を出て、ランニングを開始した。
(ユメはまだ子どもだから、ついて来られるように走るペースをゆっくりにしよう)
最初はそう思っていた晴久だが、夢の葉は晴久よりも少し先を行くぐらいの速さで走り、そのペースをぜんぜん崩さないため、もしかしたらこれは自分よりも体力があるかもしれないと焦りだした。よく考えてみたら、この子は妖狐なのだ。土御門家の陰陽師に仕える白狐一族の娘が見た目通りの小学生並みの体力しかないはずがない。
「な、なあ、ユメ……」
「あっ、すみません。少し速く走りすぎましたか?」
逆に気づかわれて、晴久はちょっぴり自尊心が傷ついた。とはいえ、夢の葉に遅れまいとしていつもより速いペースで走ったため、数分休憩したいというのが正直な気持ちだった。
「ユメにちょっと聞きたいんだけれど……」
小さな夢の葉に休ませてくださいと言うのは恥ずかしいので、晴久はいかにも会話をするために立ち止まったかのように足を止めた。夢の葉も走るのを止めて、「何でしょうか?」と身長差が二十センチぐらいある晴久を上目遣いで見つめる。その白蝋めいて透き通るように白い肌には、一粒の汗もない。
「昨日、姉ちゃんが話していた玉藻前って、九尾の狐という狐の妖怪なんだろ? ユメたち白狐の一族と何か関係あるの? 親戚とか?」
何も考えずに「聞きたいことがある」と言って走るのを中断したのだから、何でもいいから質問しなければならないと焦った晴久は、少し疑問に感じていたことを夢の葉に言った。すると、驚いたことに、大人しい性格のはずの夢の葉が顔を真っ赤にして激怒し始めたのである。昨日みたいに耳と尻尾があらわになり、しかも、怒り狂った猫のようにシャーッ! と逆立っている。
「あ、あ、あ、ああああんまりです! ユメたち白狐と九尾の狐なんかを一緒にするなんて! 白狐はとっても善良な妖狐なんです! 稲荷神社の神様のお使いも白狐で、人間のみなさんが幸せになることをユメたちはいつも祈っているんですよ! 九尾の狐のような恐ろしい妖狐と親戚なんかじゃないです!」
「ご、ごめん。悪かった、僕が悪かった。謝るよ」
興奮している夢の葉の足元で落ち葉がふわふわと宙を舞い始め、街路樹がざわざわと揺れ始めた。怒りで我を失った夢の葉が自分の霊力を制御できなくなっているのだ。
(ま、まずい。白狐たちにとってすごく失礼なことを言ってしまったらしい。通行人が誰もいないうちに何とかしないと……)
いったいどうしたら夢の葉は冷静になってくれるだろうか。晴久があたふたしていると、
「はい、油揚げ」
知らぬ間に夢の葉の後ろにいた美恵が、夢の葉に油揚げをくわえさせていた。
「もぐもぐ……ごっくん! ほわわぁ~」
油揚げを食べた夢の葉は、すごく幸せそうな顔をして、尻尾をパタパタと振る。……狐というより犬みたいだ。というか、ランニング中の美恵がどうして油揚げを持っているのかが謎である(後で晴久が美恵に聞いた話によると、夢の葉が怒ったり泣いたりした時に油揚げを食べさせるとすぐ機嫌が直るから持ち歩いているそうだ)。
「ね、姉ちゃん。助かったよ……」
「夢の葉の強い霊力を感じたから、何か一大事でも起きているのかと思って、霊力を頼りに急いで来たけれど……。何かあったの?」
美恵の頭にはたくさんの葉っぱ、頬には泥がべったり、下半身は水でべっしょり……。どこをどう道に迷っていたのか見当もつかない。
「僕がユメを怒らせちゃって……。本当にごめんな、ユメ」
「い、いえ。ユメのほうこそごめんなさい。つい取り乱してしまいました……」
晴久と夢の葉は同時に頭を下げ、ゴツンとぶつかった。両手で頭をおさえて痛がっている二人を見て、美恵はクスクスと笑っている。
「それにしても、ユメが真剣に怒るなんて珍しいね。何を話していたの?」
「ユメから聞いていたんだ。玉藻前は白狐とはぜんぜん違う恐ろしい妖狐だって。でも、僕はじいちゃんから九尾の狐の話なんて教えてもらったことなくて……。僕だって土御門家の人間なのに、どうして教えてくれなかったんだろう。やっぱり、僕に陰陽師としての力がないから……役立たずだと思われているのかも」
「そうじゃないよ」
美恵は、穏やかだがキッパリとした口調で言った。
「おじいちゃんは、ハルには普通の子どもでいてほしいんだよ。七歳で陰陽師の修行を始めた私の分まで普通の生活を送ってほしいと願っているんだと思う」
「…………」
うつむいていた晴久は顔を上げて美恵を見た。微笑している美恵の表情からは、陰陽師となる使命を背負っていない気楽な立場の晴久をうらやんだり憎しんだりする感情は、まったく読み取れなかった。美恵も晴英と同じように弟が普通の中学生であることを望んでいるのだと晴久は察した。だが、それでは晴久本人が納得できない。
「姉ちゃんの力になりたいんだ。この世でたった二人のきょうだいじゃないか。姉ちゃんが国を滅ぼしてしまうような化け物と戦うのなら、僕もその手助けをしたいんだ」
「ハル……」
美恵は晴久をじっと見つめ、どうするべきか迷っている様子だった。
「姉ちゃん、玉藻前がどんな奴なのか教えてくれ。お願いだ」
「美恵さま、ユメからもお願いします。晴久さまがこんなにも真剣に美恵さまを助けたいと思っているんです。その気持ちに応えてあげてください」
夢の葉にまでお願いされると、悩んでいた美恵は「うん……」と頷き、玉藻前の伝説を語り始めるのであった。
平安時代の末期、鳥羽上皇の御世、玉藻前という絶世の美女がいた。
鳥羽上皇の女官となった玉藻前は、その美貌と賢さから上皇に愛された。上皇はだんだんと玉藻前に夢中になっていったが、それと同時に重い病気に苦しむようになり、あらゆる名医に診察させても治らなかったという。
この鳥羽上皇の病気の原因が玉藻前の呪いであることを見抜いたのは、安倍晴明の子孫・安倍泰成だった。
「玉藻前! そなたは人間ではないな! 正体を見せろ!」
泰成が呪文を唱えると、玉藻前の変身が解けて、本来の姿――九尾の狐に戻ったのである。
九尾の狐は、全身が金色の毛でおおわれ、九本の尻尾を持った、日本の妖怪の中でも最強の妖力を秘めた化け物だった。
玉藻前は鳥羽上皇をコントロールして朝廷の政治を乱し、人々を苦しめて、最終的には上皇を祟り殺して日本国を滅ぼそうとしていたのである。一国の王をその美しさで惑わし、国を滅亡へと導くことが九尾の狐の楽しみで、九尾の狐が化けたと思われる美女は中国やインドなど他の国でも出現して、実際に滅びた国家もあったのである。
「おのれ! よくもだましたな!」
激怒した鳥羽上皇は、京都から関東へ逃げ出した九尾の狐を退治するために八万人の大軍を派遣した。その軍隊の中には安倍泰成も陰陽師として加わっていた。
しかし、八万の大軍が総攻撃をかけても、玉藻前の恐ろしい妖術の前ではなす術がなかったのである。
「とてもではないが、あんな化け物には敵わない」
「諦めるのはまだ早いぞ。九尾の狐も命ある者だ。しつこく攻めかかれば、奴も次第に弱ってくるはず。兵士たちを訓練して、もう一度勝負を挑むのだ」
鳥羽上皇から預かった大軍を指揮する武士たちにもプライドがある。ここで負けてなるものかと、兵士たちを鍛え直して、再び玉藻前と戦った。
「九尾の狐の妖術が、前回の戦いよりも弱まっているぞ。さすがの玉藻前も八万人を相手にして疲れてきたのだ。私の呪術で玉藻前の妖術を防いでいる間に勝負をつけてくれ!」
安倍泰成がそう言うと、武士たちは無我夢中になって攻めかかり、二本の矢がついに玉藻前の体を貫いた。そして、とどめに刀で斬られた玉藻前は命を落としたのだ。
誰もがそう思ったのだが――。
倒れた玉藻前は、息をしなくなった後も凶悪な邪気を周囲に放ち、狐の姿をしていたのが大きな石へと変化していったのである。この石に少しでも近づいた者は、たちまち苦しみだし、死んでしまった。人々はこの石のことを恐れて「殺生石」と呼んだ。
殺生石は二百年近くもその土地で人々を苦しめ続け、封印しようと挑んだ者は逆に殺生石の呪いにやられて死んだのである。
そんな殺生石が退治されたのは、今から六百年ほど前のことであった。魔を払うお経を修得した僧が殺生石を砕き、殺生石の欠片は各地に飛んでいったのだ。
言い伝えによると、散らばった殺生石の欠片は各地の「高田」という名がつく土地(岡山県・新潟県・広島県・大分県)に落ちたとされるが、本当はもっとたくさんの場所に飛来していた。その事実を知っていたのは、美恵たちの先祖である土御門家だけだった。陰陽師の安倍氏はこのころから土御門家を名乗るようになっていた。
「後世の人々に殺生石の欠片のありかを知られてはいけない。玉藻前を復活させてその妖力を利用し、この国を自分の物にしようとする人間が現れたら大変なことになる。我ら土御門家の陰陽師たちを各地に派遣し、殺生石の欠片を他者の手に渡らないように守らせよう」
土御門家の一族が話し合った結果、そういうことに決まり、美恵の先祖は、当時は小さな漁村であった江戸に飛来した殺生石の欠片を封印してこの地に六百年住み続けたのである。
だが、他の土地に派遣された土御門家の家系は現在ではほとんど絶えてしまっていた。なぜなら、殺生石の欠片は小さくなっても人を呪う力をまだ残しており、土御門家の女性――土御門家の娘だけでなく土御門家に嫁いだ女性も――は玉藻前の怨念によって、十代か二十代で死ぬことが多かったのである。子を産む女性が死ねば、子孫は絶えてしまう。それが玉藻前の狙いだった。
江戸に居を構えた土御門家もこの呪いに襲われたが、美恵と晴久の母、祖母、曾祖母……先祖の女性たちは呪いと戦い、何とか子孫を残して死んでいったのである。
土御門家の歴史は、玉藻前との凄絶な戦いの歴史といってよかった……。