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猫氏の日常  作者: 朱辻
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猫と家

   猫と家


 猫。

 疋田が散歩道で出会った美しい青年の名字だ。どのような来歴があるのかしれないが、変わった名前だ。

 しかも従者、執事のような男がそばにいて、かいがいしく世話を焼いている。

 初対面の彼らの誘いで、疋田は彼らの家に向かっていた。

 しらない人についていっちゃいけないよ。

 不意に幼い頃、母に言われた言葉が思い出されて疋田は苦笑する。あの歩道橋を越えちゃいけない。ジャングルジムにひとりで上っちゃいけない。母からの禁止事項はたくさんあったが、それらすべてに疋田は従っていた。反抗する気も、欲望もなかった気がする。

 三十五にもなり離婚も経験して、知らない人についていっちゃいけないよ、もないだろう。

「どうしたんです?」

 思い出にしばし浸って口をつぐんでいた疋田に津村鯖生が声をかけてきた。

「え、ああ。昔このあたりに住んでいて」

 そう答えて、疋田は、ああそうだったと自分で納得する。

「へえ~そうなんだ。じゃあ、ちっさいころ遊んだかもしれないね」

「?」

 どう見ても猫氏とは年が六ついや十はちがうように見える。

 不思議そうな疋田の眼を猫氏はのぞき込んで笑う。

 疋田もつられて笑う。

 通勤に使っている道の筋違いで、大きな家が多く、夜遅くなると背の高い生け垣や土塀で暗い。こんなところに「猫」なんて名字があっただろうか。

「そこの生け垣の家です」

「ほらあの柿のなってる家の前」

 猫氏が指さした。白い手が暮れゆく秋空に映える。

 猫が猫じゃらしにたわむれるようにプラタナスの実を取ろうとしていたのを思い出して思わず疋田は微笑んでしまう。

「立派なお家ですね」

 家は時代から取り残されたようだった。周りの家は代が変わり、大きな家が無くなって、新しい小さな家が何軒か建っている。向かいの家も柿の木と不釣り合いなアルミサッシの門だ。瓦の庇がついたような家はここぐらいになった。家と同じ年を重ねた表札も燻したように黒く古びていた。顔を近づけてやっと、彫られた文字が見える。

「猫」

 細く上品に彫られた文字はゆったり尻尾をあげるシャム猫のようだった。

 これ程見にくけば気づかないはずだ。

 こけの上に飛び石が敷かれていて、両脇には南天の葉がさやさやと風に鳴った。飛び石をテンポよく猫氏は歩き、津村がつき従い、疋田があとに続く。

 広い玄関に通されて、疋田は上がり口に屏風があるのに驚いた。

 虎の絵だ。厳密に言うと虎猫の絵だ。

 昔の日本人は虎なんて見たことがなかったから、猫から虎を想像して描いたそうだ。

 たしかにみゃごーとなきそうな気がすると疋田は思った。

「かわいいでしょう」

 猫氏は自慢げに屏風の横に立って胸を張った。

「え、あ、はい」

「この虎を退治してみよ、ってね」

「一休さんですよ」

 津村はそう脇からひとこと添えて、奥に行ってしまった。

「そうそう。将軍に屏風の虎を退治しろって言われて、一休さんがじゃあ、追い出してって言う話。本当においだされちゃったらどうするんだよね。わたしなら絵師を呼んで縛らせるよ。こんな風にね」

 猫氏に促されて屏風の裏に回ってみると、朱色の紐で縛られた虎が繋がれていた。

 表の絵は、どこか猫の愛らしさというか可笑し味があったけれど、こちらは……柔らかい虎の腹や脚に紐が絡んでどこか、妖しい。

「刀できりつけたり、槍を突き立てたりだと、もし追い出されたとき暴れたら困るでしょ。でも、捕らえたら可愛くなってきてしまって」

 猫氏は虎の絵の縄目を撫でた。

 さも自分が虎に縄をかけたような口振りだ。一休さんより自分の案が優れていると。

 そしてこの屏風ずいぶん古いものに見えるのだが……

 不審な顔をしている疋田に気づいて猫氏は座敷へとうながした。





 十畳ほどの部屋の奥に床の間があって山水の軸が掛けられている。その奥の障子をあけると縁側に臙脂のソファと黒檀のテーブルが置かれていた。

 疋田が勧められるままにそこに座ると、松を中心に据えた庭が目前に広がった。

「これは、立派なお庭ですね」

 松の前には石で組まれた池もある。

「あそこに鯉を飼ってるんですよ」

 ちょいちょいと手招きされて縁の先までいくと、鯉が跳ねた。

「おおお」

「君いい顔をするねぇ」

 普段ぼんやりしていて、愛想もへちまもないと言われ続けている疋田は、誉められた気がして頭を掻いた。

「お茶が入りましたよ」

 津村が縁側の廊下沿いにやってくる。

「きたきた」

 猫氏はうれしそうにちょこんとソファに座る。疋田も向かいに座った。

 津村が木目の美しい春慶塗のお盆からそろいの茶托と赤い錆の絵志野の湯飲みを疋田と猫氏の前に置き、菊を象ったほんのり黄色い和菓子をすすめられた。

 香り立つ茶をすすりながら、猫氏はにこにこと黒文字を器用に使って食べている。

 手をつけていない疋田の和菓子をジッとみる。

「たべないの?」

 好きなものは後で食べる派の疋田はお茶を飲みながらどこから食べようかと思案していた。

 菊の花びらはきっと握りばさみを入れて一枚一枚職人が作ったのだろうとか考えていると、疋田はそれだけで心が躍った。それに猫氏の食べ方がかわいくて、ほんわかしていたのだ。

「え、いえ」

 猫氏のまん丸な瞳が、頂戴頂戴と訴えている。

「あ、はい」

 お皿を猫氏に差しだした。

「ぬ、ぬしさま? 意地汚いですよ」

「だって、いらないって」

「このお菓子はこの時期しか食べられない長寿の縁起物なんですよ。重陽の節句に菊の葉におりた露を集めておいて、餡に練り込んであるんです。甘いものがお嫌いでなければ、どうぞ召し上がってみてください」

 津村の話に猫氏はコクコクうなづいて、話を付け加える。

「名前も耽美なんだよ。慈童という美少年が帝の枕を越える罪を犯して山へ追いやられたんだ。それを悼んだ帝から二句の偈を賜って忘れないように菊の葉の裏に偈を書いて、その菊の葉にたまった露を飲んだら、あら不思議、その甘露としたそれは不老長寿の妙薬で、慈童は永遠の美少年になったとか。素敵だよねー。ほんとうにいらない?」

「い、頂きます」

 すっと黄色い花を切ると中は白あんだった。ひとくち口に運ぶ。ほんのり甘くて、花の香りも感じた。

 驚いた顔が外に出ていたのだろう。疋田の顔を猫氏も興味深げに見つめていた・

「おいしいです。これは、本当に菊の香りですか」

「ええ」

 食べかけの『菊慈童』を猫氏はじっと見つめている。余程好物なのだろう。

「よかったら」

 ふたたび、猫氏に皿を差し出す。

 猫氏はちらりと津村を横目でみて、そろりそろりと食べた。

「仕方のない人ですねぇ。疋田さん、また、いらしてください。『菊慈童』は来年になりますが、別のものをご馳走しますよ」

「え、そんな。お気になさらず」

 疋田は恐縮してあたふた手を縦横無尽に動かす。

 無表情な津村にうっすらと表情がのり、笑みを象った。

「あなたこそ、余計な気遣いは無用です。ね、ぬしさま」

 猫氏は『菊慈童』を食べ終えて、肉厚の志野焼きの茶をすすった。茶托に湯飲みをもどすと、しなやかな動きで疋田の横に座った。

「是非おいで。きみなら大歓迎だ。ヒッキーはいっしょにいるだけで、わたしを気持ちよくさせてくれる」

「……」

 疋田は声をなくした。猫氏の色香を含んだ無邪気な所作の虜になっていた。

 疋田は止められても通うことになるのである。

 この愛らしい主人のいるの家に。


 

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