猫とねずみ
猫とねずみ
疋田が猫氏と出会ったのは、沙絵と離婚して半年ぐらいたった頃だった。
頭が悪いわけではないが、疋田はぼんやりしていた。離婚された理由もいまいちピンときていない。女心が解らなかったせいだろうとぼんやりくぎりをつけて、また独身生活にもどった。
鈍感な疋田も半年もすれば、沙絵が面倒みてくれていたかわかる。
掃除も洗濯も三十になるまでひとりでやってきた疋田は、家事に関して困ったということはないのだが、家のなかに、人の気配がないということがどれほど寂しいかと思い知らされた。
そう、うすらぼんやりと。
秋風が急に冬の気配をまとい始めると、何もしていないのに頬に涙がつたった。
あれっ? 指先で拭って、しばし考えて寂しいのだなと思う。
寂しいんだと思うとより寂しくなって、赤や黄色に染まる公園をあてもなく散歩した。
街路樹のプラタナスが黄金色に染まる中、枝からぶら下がるトゲトゲの実を取ろうとジャンプしている綺麗な青年がいた。
それが猫氏だった。
手は届いているのに、ちぎれないでぷらーんぷらーんと実が揺れている。
冬からやってきたような雪色の肌。唇は先ほど見た燃えるような緋色の楓から色を吸い上げたようだった。
疋田の寂しい心がトクンと鳴った。
「あの、取りましょうか?」
真っ黒で丸い瞳が疋田の姿をとらえた。
疋田は自分の耳から赤くなり、体が心臓になったように脈打った。
猫氏は首をかしげた。
「とれるの?」
「はい!」
どこの幼稚園児だというぐらい気合いの入った返事をした。
軽く飛んでプラタナスの実をぐっと掴んだ。
疋田のイメージでは、軽快に跳びあがり、スマートに実をプレゼントするつもりだった。柄にもなく、十年ぶりくらいに格好をつけてみせたのだ。
もちろんうまくいくはずはなく、おもったよりも実から出た軸が堅く、バランスを崩して尻餅をついたのだ。
プラタナスの褐色の落ち葉が重なる上にどさりと。
「ははははははは」
猫氏は綺麗な顔を見事に崩して笑って見せた。疋田はすっころんだ痛みも恥ずかしさも忘れるぐらい心を奪われた。
「どうなすったんですか」
猫氏のうしろから背の高いカラスみたいに黒いスーツに身を包んだ男前がやってきて、猫氏に訊ねた。
「ん? ぷぷぷ」
困った人ですねぇという風にふきだしている猫氏を優しくみて、「お怪我はないですか」と少しかすれた甘い声で言った。
疋田はこのとき、天国から地獄に突き落とされていた。猫氏にはこんな端正な男前がついているのだと。疋田は女が好きなことを疑ったことはない。
一瞬のうちに恋に落ち、恋に破れた。
「そんなに強く打ったんですか?」
「え? いえ。大丈夫です。立てます」
「けど、泣いていらっしゃいますよ」
「え!」
疋田は自らの頬に指で触れ、水気を感じて、驚いたようにと袖口でぐいぐい拭った。
「だいじょ、ぶでふ」
「ふふ、カミカミですね。ぬしさま、なにをなさったんです?」
「なーんにも。ね? 遊んでたんだよね」
さしのべてくれた白魚のような手を掴んで疋田は立ち上がった。
また、トクトクと鼓動が上がっていく。
「はじめまして。猫です。よろしく、ネ」
猫氏はあざとくも愛らしい笑顔で小首を傾げて上目遣いで見つめられると、疋田はどうにもこうにもいかなくなった。
疋田の目の前の景色が、猫氏の背景に輝きを持って色を増した。
猫氏が男であろうが、男がいようが、関係ない。この人が好きだ。少しでも傍にいたい。
衝動的にそう思った。何事にも鈍い疋田には初めての経験だった。
魂がこんなに揺れ、世界がこんなに輝いているとは。
「こっちは従者のサバ」
「が、外国の方ですか」
切れ長の眼に酷薄な唇顔立ちは東洋人だがアッシュグレイの髪色は珍しい。
「いえいえ、日本人です。津村鯖生と申します。従者というのも仰々しいですが、猫家よりすべての雑事とこの方のお世話を申し使っております」
「疋田です。よ、よろしくお願いします」
彼氏じゃないと訊いて、疋田は一気に浮上する。
そんな疋田をサバは興味深げに見て、疋田の髪や服についた枯れ葉を払ってくれた。
「お時間がおありでしたら、お茶でもいかがですか?」
「いいねぇ~。家においでよ。ヒッキー」
疋田は肩に手をかけられて、心まで持ってかれる。
「え、あ、はい。喜んで」
こうして、ホイホイと猫に魅入られた鼠、いや疋田のイッチョ上がりである。