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エナーリシャはところどころ篝火の炊かれた、昼間のような集落を、レノ・ランセの後について歩いた。時は夜半である。見張りの何人かのほかは、そとに人の気配はない。
つい数日前までは、ここはキハルの長の集落だった。豊かな水源には実りが多く、人々からは笑いが絶えなかった。それが、今は見る影もない。キハル部族の証し、砂の竜を刺繍した天幕は焼き払われ、死んだ人々も喪に服すひとびともないまま火に焼かれた。
ここに来たばかりの時は死体が無造作に積み重ねられていただけだったが、暑さで腐りかけた死体を火で焼く匂いには耐えられなかった。それが同族の者の恨み言のごとくエナーリシャにおいすがり、悪夢をみせようと働いているかのようだった。レノの天幕の中に十日も押し込められていたときはその匂いもあまり気にならなかったが、遮る物もない今、いまだ焼き切れない死体を燃やす刺激臭には、吐き気が込み上げてくる。
食べた物が喉まで迫り上がり、エナーリシャはしゃがみこんで何度か吐いた。同時に涙が込み上げてくる。悔しかった。ただただ、無力な自分がどうしようもなく苦かった。いま、この場所から煙のようにかき消えてしまえたらとさえ願っていることに気づき、こんな弱気な自分がいることに、エナーリシャは苦さを感じた。
「大丈夫か、臭いに酔ったな」
数歩さきを行っていたレノが遅れた彼女に気づき、ひとこえかけると戻って背をなでた。瞬間、怖気立った。
「・・・かまうな」
そうだ。自分は、このウナクの男に体を許してしまったのだ。人の幸せを奪ったウナク。この男の優しげな表情にも、騙されるものか。こいつもウナクには違いないのだ。
エナーリシャはゆるゆると立ち上がった。手を振り払われたレノは肩をすくめたが、すぐ彼女の前に立った。
二人は始終無言だった。レノがやがて一つの大きな天幕を指さす。彼は見張りに左手を上げると、わざとエナーリシャの手を引っつかみ、天幕の布地をかきわけた。
「あまり時間はやれないぞ」
「わかっている」
笑顔もせずに言ったあと、エナーリシャは広い天幕内の片隅に寄り添うようにしている三つの人影に、近寄った。
「姉様がた、息災ですか」
緊張のために口の中がかわき、やや早口になるのはどうしようもない。
「リシャ・・・あなたなの」
すぐ上の姉、カラの声だ。明かりも十分でない天幕の中では、相手の顔を識別するのも困難だった。
「エナーリシャ、なぜあなたここに?」
暗闇にいるのを惜しむように、次姉が顔に触れてくる。
「長を殺した、あの悪党に、ひどい扱いをされてないだろうな」
無駄の無い男のような物言いをするのは、長姉。
長姉と次姉も、別れたときとなんら変わった様子がなかった。エナーリシャはようやく安堵する。
「わたしは、無事です。姉様たちも、不自由はありませんか」
「ここ以外、出歩けないことを除いては、不自由はないわね」
次姉のアインが、ため息を吐きつつ言った。
「一度は本気で死のうと思ったわよ。でもね、カラが、死ぬのは早すぎるってユウシャ姉様とわたしを叱って」
さばさばした風のアインの物言いを聞き、長姉ユウシャも力無く笑った。いつもの人を張り倒すほどの力も、いまは残っていないらしい。
「死ぬのは簡単だ、でも、生きてこそ何かできるのだと、な。確かにそうかもしれぬ。憎いウナクの男の子供を産むことになったとしても、その度に死んでいては、世の女の命など、いくつあっても足らぬ」
「それよりも、ねえ、エナーリシャ。あなたは、あの男につくすことに決めてしまったの」
アインがエナーリシャの手を取って気遣わしげに言った。夫が天幕を出ておらず、この姉妹の様子を観察しているのは無視した。あんな男に、尽くす気などない。
「いいえ。わたしがアーレン以外の男に尽くすなんて、あり得ない」
エナーリシャは首を振った。それと同時に、また鳩尾に疼痛を感じた。矛盾している。
尽くす気は無いといいながら、彼女は夜毎レノの寝所にいる。夫のあくまでやさしい行為に、心まで引き寄せられてしまいそうになる。
他の男の腕の中でアーレン・シンを忘れてしまいそうで、エナーリシャはただ恐ろしかった。憎くおもってみても、すでに夫のことを憎み切れない自分が居ることにエナーリシャは気づいていた。
「・・・あの男の閨で伽をするのは、人質としての義務です」
自分に言い含めるように彼女は言った。その言葉が終わって間もなく、天幕の入り口に体を凭れさせていたレノが笑い出した。馬鹿にするような、いやな笑い方だった。
「・・・面白いことをいう女だな」
「何を・・・」
エナーリシャは、夫の責めるような言葉に、戸惑う。
「馬鹿にするな」
レノはあらあらしく身をひるがえすと天幕を出て行った。天幕の入り口の布をかき分けるとき、篝火の明るさが夫の横顔をあかるく照らした。その一瞬の表情がまた、疼痛の原因となる。
(おかしな男・・・)
なぜ、あんな顔をするのだろう。あれは憤りを混ぜた、傷付いた表情だ。別れ際のィエンの面影がぴったりと重なり、エナーリシャは戸惑った。
「あの男、例の双子に似ているな」
ユウシャが呟いた。エナーリシャはぎくりとする。
「見直したわ、リシャ。あなた、あれに随分気に入られてるようじゃないの。たった十日でどんな手管を使ったの」
カラに言われ、エナーリシャは首をひねった。おかしな男だとは思うが、あれが人を気に入る態度だろうか。それに、妙な手管などつかった覚えはない。そう言うと、くすくすと姉たちがわらった。
「まだまだ子供ね、エナーリシャ。いい?あれは嫉妬というものよ。男は、大事に思っている女にほど、つまらないことでやきもちをやいたりするものなの。せいぜい、この調子で苦しめてやることね」
アインはやっといつもどおりにほほ笑んでくれた。三人の姉たちは、いずれも二十歳を越えている。長姉のユウシャなどは三十路に片足を入れていた。貫禄というものがある。彼女たちがエナーリシャの心に占める位置は大きかった。四人とも同じ母腹であることが親しみにつながっているのは間違いない。
「あなたがきてくれて、わたしたち随分救われたわ。エナーリシャ、あなたも頑張るのよ。ウナクになんて屈しちゃだめなんだから」
アインが、言葉もないエナーリシャの頬を撫ぜた。彼女らの夫は、死んだという。だが、だれも泣いてなどいない。十日の間に、涙も涸れたのだろうか。
カラはエナーリシャの頭を引き寄せ、その頬に親愛の口づけをした。二人の姉もそれにならう。
「お休みなさい。・・・どうか、死なないで」
エナーリシャはそう語尾に付け足した。この夜、こうして姉妹達は別れたのだった。
キハルが本当に和議を蹴ったとしたら、姉の命やキハルの子供、生き残った女たちの命も、そしてエナーリシャの命も危ない。レノの口から「切り捨て」という言葉を聞き、どうしようもなく脅えた。やはり、こんな命でも惜しいのかと思い当たると、自分を嗤うしかなかった。
父を殺した、レノ・ランセ。憎むべき男が夫であるなど、なんという皮肉だろう。存外に冷える夜の空気に両腕を抱き締めると、エナーリシャはレノの天幕に急いだ。結局、彼女にはレノのところしか帰るところはないのだ。
隙間なく張られた天幕の間を擦り抜けるうち、帰り道がわからなくなったことに気づいた。さっきはレノの後をついて行っただけで、まるで様子の変わった集落では、迷うことしかできない。族長の息子といえど、ほかの者より大きな天幕を与えられることはない。内部はちがえど、数百の天幕の外見は違うところがないのだ。
「どれだったか」
奴が彼女の一人歩きを渋る様子が思い出され、鳥肌が立った。キハルの女が一人も届かないから、男たちは気が立っている、と。戦の陣で女は少ないだろう。大部分が男だ。いつ鉢合わせするかしれないと思うと、しぜんと速足になった。
「待て」
突然、薄暗闇の中からぬっと人影があらわれた。そいつは抗おうとする彼女の体を軽く横抱きにすると、どこかへ運んで行く。叫ぶ気にはならなかった。その気配でレノだとわかったからだった。
「一人で、歩ける」
子供のように抱えられている自分が馬鹿みたいだった。だが、レノの腕の中はひどく落ち着いた。まるで安全圏に入ったような安らぎを覚えるのに、エナーリシャはうろたえた。
「降ろすのはいいが、下は汚物で溢れてるぞ。裳裾さばきも下手くそなのに、すべって転んだら目も当てられなくなる。我慢しろ」
「転んだほうがましだ」
迷ううちに便所の方向にきてしまったらしい。地面に穴を掘っただけの代物だから、すぐに溢れる。このまま進めばレノの言うとおり転んだかもしれない。 その前に見つけてくれたことにほっとしたのもつかの間、歩く度レノの腕の力は頼りなくなってくる。
「重いな」
ついに、あっ、と声を発した。エナーリシャをずり落としそうになったのだ。
「!」
彼女は咄嗟にレノの首に両手を回してしがみついた。
「そう、それでいい」
はじめ何を言っているのかさっぱりわからなかった。だが、自分の両手にきづき、あわてて外そうとする。
「しっかりつかまっていないと、今度は落とすぞ」
笑いを含んだ声で脅しめいた事を言う。エナーリシャはおとなしく従うことにした。
「支えてやるから、安心するがいい」
「・・・よく言う」
「さっきは怒鳴って悪かった」
前ぶれないことに、エナーリシャはまず驚いた。ウナクの男が、人質にあやまることが意外だった。
「ウナクの男も、謝るということをするのか」
「この娘、またわたしを馬鹿にするか」
レノは声を上げて笑った。
「わたしを本当の悪魔とでも思うか?」
男は黙った彼女を見ながら喉の奥で笑った。
エナーリシャは汗のにおいのする男の首筋に、頭を預けた。暖かい生身の肌は、人の心に安心を呼ぶ。人が肌を重ねるのも、もしかしたら人肌に触れて安心したいがためではなかろうか。そして、そう思うのも、こんなにも夫の心臓の音が近く聞こえるためなのだろう。
「レノ」
「何だ」
優しい声音だった。ウナクに対する憎しみも、レノに対しては起こらない。好きではないが、もう憎んではいなかった。
「わたしは、女なのだな」
ウナクの男に弱さを見せたくないのは事実だった。それに、姉たちに向かってあんな言葉を言ったのも。すべてが本心だった。
「無力で、一人では何もできない、女だ」
しかし、夫の心臓の音に耳をすましていると、なぜか弱気になってしまう。雄々しいことを言っていても、女として男に頼ろうとする気持ちが、自分の口にする言葉ではっきりとみえて、エナーリシャは唇をかんだ。
「わたしは、死ぬんだろうか」
誰かに聞いてもらわないと、押し潰されそうだった。ぽそりと吐き出された呟きは、レノの目を見張らせた。
「キハルはわたしたちを本当に切り捨てたんだろうか」
「どうかな」レノはため息とともに言った。
何者にも膝を屈しないキハルの民らしいと言えば、そうだ。
キハルの民が破滅を覚悟でウナクに抗うつもりなら、キハルの民の雄々しさを誇りに思えるはずなのに。だが、エナーリシャは正直言ってやりきれなかった。
抗うことで、屈服よりも死を望むのだろうか。だとしたら、ここへ来たエナーリシャの気持ちはどうなるのか。どこへ行ってしまうのか。
レノは二人の天幕に入ると、うつろな目をして言う妻を座らせ、それに真向った。唇に浮かべていた笑みを消し去り、夫の顔には真摯な表情があった。
「はじめのころの、威勢はどうした。やけに気弱だな」
「・・・うるさい」
返す言葉も、気力が入っていない。姉たちに会わせたのは間違いだったかとレノは思った。彼は自分が天幕を出た後の会話にエナーリシャを塞がせる原因があると思っていたのである。
レノは取り敢えず彼女の話を聞いてやろうと思った。
「アーレン・シン。その名を聞いていただろう、わたしの婚約者だった者の名だ」
「それがどうした」
レノはそうか、と思い当たる。体を重ねても溶けない頑なさは、その男を思うがゆえなのだろう。それならば、この気落ちした風なのはなぜなのか。弱音とは、キハルに残した恋人がこいしくてならないと、レノに直訴するためか。
「あいつは、父を殺され、ウナクへ報復に旅立った。それが、三年くらい前のことだ」
ゆるゆると油皿の明かりが揺れた。エナーリシャは、夫の青灰色の目を見つめながら、言葉を紡いでゆく。
「わたしは、待った。あいつが帰るのを信じて、あいつの息子をこの腕に抱くことを信じていた」
「だが、帰らなかった、か」
レノは思わず嘆息していた。死んだ婚約者が相手では、レノにはどうあっても勝ち目はない。エナーリシャが愛しているのは、死んだ男の魂なのだ。
彼女はゆっくりと頷いた。
「・・・わたしは怖い。また愛する人を亡くすのが。キハルの民は、わたしの家族だ。家族が殺されるのは、もう耐えられなかった。だから、ここへ来た。レノ・ランセの妻にもなった」
言葉も切れがちに語る彼女の目には、真実しかなかった。肉付きの少ないやせすぎともいえる細い肩は、頼りなげな風情を醸す。
「キハルの民の悲鳴は、もう聞きたくなかった。だから、レノに嫁したんだ。それが一番いいことと信じていたから」
「エナーリシャ」
ふいにきつく抱き締めてやりたい気持ちに駆られ、レノは手を伸ばした。
「心配するな、わたしを信じろ。・・・アーレンではなく、このレノ・ランセを。たとえキハルがおまえを見捨てようと、わたしは夫としておまえを守る。
おまえはわたしのものだ。おまえに危害を加えようとする輩は、全て殺してみせよう」
「・・・なぜそこまでする?」
レノは唇を綻ばせた。この鈍感な妻に、自分の気持ちを分からせてやる機会を得たからだった。
「わたしは、エナーリシャに惚れたようだ」
レノのする柔らかい微笑で、彼女は危険をかんじた。身の危険ではない。不意におとずれた、予感のようなものへの警告、そういったほうが正しいか。
(そんな顔を、しないで欲しい)
まただ。下腹部に疼痛が走る。心臓をぎゅっと握られるような、息苦しい感じがする。
「夫殿、戯れ言は、もういい」
言い始めたのは自分だったが、レノの目はエナーリシャに優しすぎる。戸惑って目を逸らすと、夫は咄嗟に彼女の唇を捕らまえた。逃げるすきを与えられず、唇ごと心も夫に引き寄せられる。いいや、エナーリシャには逃げる気などはなかった。
「わたしを、見ろ」
唇を一度離し、レノ・ランセは言った。
「見ている」
澄んだ目が、あきらめたようにレノにぶつかった。媚のない、裸の目。紅をさし、化粧をすることを嫌うエナーリシャの唇は、だが存外に甘い。
妻が笑うのを、一日中でも見ていたい。そのために、何でもしてやろうという気になってくる。
ついこの前、父に向かって「悪魔でも妻にする」と言った自分を、レノはおかしい気持ちで思い返していた。
蓋を開けて見れば、悪魔どころか瑞々しい娘だったのだから、これが嬉しい誤算というものだろう。
(わたしが探していたのは、きっとこういう娘だ)
彼女を抱くと、全てが癒される。彼自身が見失ってしまった時の中にある痛みも、エナーリシャだけが慰められるものだと、レノは気づいていた。
他の女を抱いても、心は乾くだけだった。父に淡泊と揶揄られるのも、女に半ば絶望していたからだった。だが、今は違う。会ったばかりでこんなにのめり込める女に出会えたことを、レノは感謝したい気分だった。
夜がいよいよ更けてゆく。
・・・その次の日の午前であった。キハルから、パウテに騎乗した百人の娘たちがウナクにとどいたのは。