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砂漠の夜は、昼間とは全く違った意味で厳しい。陽に照らされ、灼熱の温度にまで高められた砂たちは、陽が沈むとあっさりと冷たく態度をかえる。
不毛の灼熱の大地は、極寒の大地という面ももつ。
砂漠に住まう人々はその二面性を人の心に例える。人はだれしも表と裏を持つ、と。
表とは、すなわち攻撃性、情熱、喜び。裏は自虐性、冷静、哀しみ。
これらの裏と表は誰しも生まれながらに持つ物であり、これを飼い馴らすことが、神に近づくことであるとさえ言われる。しかし、そんな思想を真に受け実行しようとするものはいない。
そんなことをする暇は、言うまでもなく無いのだ。砂漠に生きるものたちは、厳しすぎる環境のなか、わずかの水原にしがみついて生きている。彼らにとっての神は、崇め、庇護を願うこころのより所というだけの存在。人が横に並ぶべき存在ではないのだ。
「夫殿」
辺りは闇に包まれている。ほの暗い天幕の中、エナーリシャは向かいに胡座をかいて、酒を呷っている男を呼んだ。天幕には二人きりだった。なにしろ、新婚の天幕であれば。
「おい、答えないか、飲んだくれ」
忌ま忌ましそうにエナーリシャは罵声をはく。
夫の漆黒とは言い難いやわらかそうな赤茶けた短い髪が、僅かな油皿の明かりを照り返している。前髪の陰りとなったふたつの目。それが青灰色であることをエナーリシャは知っている。男はこの天幕の主であり、なによりエナーリシャの夫である。
エナーリシャは年も十八。普通の娘の結婚の適齢からゆけば、すでに三人の子はいてもよさそうなものだ。
しかし、彼女はつい十日ほど前に、目の前の男の妻になったばかりだった。それも相愛にして両者同意というわけでないことは、彼女の険のある物言いと眼差しで、明白だった。
「なんだ?お前もやるか、一杯」
彼女の夫は、飲んだくれ呼ばわりを気にする風もなく、まるで水をがぶ飲みするように杯を呷り、空にしてからまた注ぎなおした。妻に差し出すと、間もなく杯もろとも床に敷いた絨毯の上に叩き落とされた。
「ああ、上等の酒なのに」
「要らぬわ。そんなことより、わたしは聞きたいことがあると言ってる」
花嫁の険悪極まる態度に、男は笑いを漏らした。飛び散った酒で濡れた指を嘗める。怒りもせず、いつもまじめに取り合わない態度が、彼女の機嫌をますます損ねるとわかっていても、笑いだしたくなるのはどうしようもなかった。
「何がおかしい、レノ・ランセ」
笑い出した夫に、エナーリシャは柳眉を逆立てた。
「いや、すまない。荒っぽい妻だと思ったまで」
レノは妻をしげしげと眺めた。エナーリシャ。よく焼けた健康的な肌に、肩に流した亜麻色の髪が映える。大きな目は青く澄み、目元は隈取りがしてあるかに見える。小さい唇は桃色。まるで自分の美しさに気づこうとしない、子供っぽいところのあるキハル部族の娘。
「荒っぽい女は嫌いか。そうか」
エナーリシャは桃色の唇を歪め、皮肉に笑った。
「拗ねているのか?」
今夜は、父に呼ばれたせいで訪れが遅い。喉を震わせて笑うレノに、彼女は鼻を鳴らした。
「馬鹿らしい。おまえが毎晩来るから、わたしは迷惑してるんだ! お陰でミキノにはやたらと質問攻めに会うし、寝不足ときてる」
ミキノは、ウナクでエナーリシャの世話をしている女だった。
「寝不足くらい、なんだ。それにここはわたしの天幕だぞ、エナーリシャ」
名を呼ばれて、エナーリシャは顔をしかめた。
奴の口から自分の名前が紡がれると、彼女は不快になる。まるで鳩尾あたりに初夜のおりの疼痛が、いまだあるように、いやな気分になるのだ。
「話が随分逸れた、レノ」
エナーリシャは、見つめてくる夫と視線を極力合わせないようにしながら、言った。
「わたしが聞きたいのは、なぜ十日もの間、わたしがこんなところに閉じ込められなくちゃならないかということだ」
それから、と彼女は強い調子で言う。
「キハルの民は、姉様たちはどうなった。会うことも許されないなんて」
「会わせられない、と言ったらどうする」
レノは笑いをやめて、ただ真っすぐに妻を見つめた。
「なぜ、と聞く。もしも、もしも手を出していたら・・・」
会わせる者がいないなどと吐いたら、殺されかねない形相だった。
「早まるな」
レノは肩を竦めた。
「無事だよ、エナーリシャ。お前を外に出せないのは、厄介な状況になっているからだよ」
妻の尋問にレノは喋る気になったようだった。だが、言い渋るように時折口をつぐむ。
「厄介?」
「・・・キハルが、ウナクの和議を蹴ったかも知れぬ」
「なに・・・」
まさか。はじめ、その一言のみが脳裏を巡った。
「人質たるわたしは、ここにいるじゃないか。貴様らウナクが欲しがった、キハル族長の未婚の娘、エナーリシャはここにいる!」
それで、キハルとウナクの和議は、成立したのではなかったのか?ウナクはキハルに手を出さないと。・・・わからない!
エナーリシャは夫に詰め寄った。アーレン・シンによく似た顔を、この時ばかりはためらい無く真っすぐにねめつける。
「・・・わたしたちウナクが、おまえの身柄ひとつで納得すると思うか?するはずがなかろう。
人質の存在など、いつ切り捨てられるかわからぬ。ウナクはお前達キハルに、こう申し入れた筈だ。キハル族長の未婚の娘と共に、キハルの女、百を差し出せとな」
「そんな!」
エナーリシャは叫んだ。レノは構わず言い続ける。
「五日前の昼には、その半分の五十がここに到着するはずだった。だが、それさえまだ着いていない。キハルからの遅れるとの連絡はあったが、これでは果たして本当に来るのか」
エナーリシャは言葉が無かった。自分の身ひとつで部族の安全が保障されるなど、そんなにこの存在に価値があるなど、ただの思い上がりでしかなかったのだろうか。
「そうは待てぬわ」
レノは、苛立ったように吐き捨てた。切り捨てる。彼のその一言が、鉛のように腹に沈んだ。
「美しいキハルの女を妻にできると、心待ちにしていた奴らは、それは気が立っている。おまえが出歩けば、いたずらに男たちを刺激することになるだけだろうな」
レノは顔をしかめた。それに、彼女の命も危ない。いくらヤエフアの息子の妻だろうと、キハルが和議を蹴ったということが確かなこととなったら、命の保証はならなかった。
レノはあえてそれを口には出さなかった。ただ、エナーリシャの顎を自分の長い指でとらえた。口づけしようと顔を近づけたが、真っすぐに凝視してくる青の目にぶつかって、たじろぐ。
「きれいな目を、しているのだな」
よどんだ熱砂の空気のなかで、ただひとつ潤いあるもの、蒼い水のかがやきがエナーリシャの目にはある。どこかで見たという、既視感が拭えない。会ったことがないのは間違いないのに、そんな思いがある。思い出そうとすると、左の脇腹がじくじくと痛んだ。それは、決闘の、兄殺しをした証しだった。完治してもなお、彼を苦しめる忌ま忌ましい傷痕。
「レノ・ランセ」
彼女の瞳の色に見入っていたレノに、エナーリシャの一途な声が聞こえた。「・・・お願いする、姉様たちに会わせて欲しい」
一途な瞳、きつく結ばれた唇。
やはり、どこかで・・・。
その答えを求めようとするように、レノはエナーリシャの唇を貪った。貪欲な長い口づけにエナーリシャは喉の奥で喘いだ。そっと二つの唇が離れた後、レノは不意にあぐらをくずし、立ち上がって言った。
「会うなら、今だろうな」
「レノ」
はっとして声を上げる妻に、レノは薄く笑った。自分はどうかしている。もとはといえば、ヤエフアが決めた妻だというのに、自分はこんなにもこの女の喜ぶ顔が見たいと願っているのだから。こんなふしぎな気分ははじめてだった。しかし、ひどく満たされてもいた。
「ありがとう」
自分では、おそらく意識していないに違いない。…報酬は、目の覚めるような笑顔だった。