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エナーリシャが決意を胸に、ウナクの領となったキハルの集落へ行く頃、カリアの天幕にひとつの影が入り込んだ。アーレン・シンである。彼は自分がィエンを名乗っていたこと、そしてその経緯を彼にすべて話した。
カリアに話したところで、今更なにが変わるとも思えない。ただ、この行為はアーレンにとって必要なことだった。カリアに卑怯者と罵られようと、蔑まれようと、全てはアーレンが彼の本当の居場所を見つめるため、自分を見据えるため。ためらいはもう無かった。
「そうだったのか」
全てを聞き終え、カリアはそうとだけ呟いた。その目には、アーレンが予期した蔑みなど無い。
「アーレン・シンだったか」
カリアは妙に納得していた。アーレン・シンの癖、左目のみを瞬くくせは、ィエンが真似していたのではなく、アーレン自身が無意識に行っていたのだ。驚くほどアーレンに似ているというのも、本人をみて思ったことならば、道理。
それよりも、三年もの長きの間、ィエンを名乗っていたとは驚きだった。
もともと、アーレン・シンとィエンは正反対の性格だった。双子の兄のアーレンは思慮深く、大人びていた。カリアとよく話があったのは、彼の方。弟のィエンは明るく、回りの人間をいつも楽しませる。
「あのアーレンが、ィエンをやっていたのか」
カリアのその言葉に、アーレンは唇を歪めた。
「・・・何より俺は、恥を恐れたんだ。寝過ごした俺のかわりに、ィエンが報復に行ったなんて、とても言い出せなかった。 ・・・はじめは、ィエンを憎く思った。だが、すぐに気づいたよ」
「なぜ、ィエンはアーレンを名乗ったか、か?」
「ああ」
アーレンは頷いた。口に出すことで、胸のわだかまりが解けて行くのを感じた。
「あいつが本当の名を名乗れば、俺は卑怯者と皆にそしられることは間違いなかった。エナーリシャの心も得られるだろう。だが、あいつは俺の名をウナクでも名乗った」
「アーレン・シンとな」
カリアは青ざめた面の親しい男を見つめた。
「ィエンが前夜の乳酒に、遅効性の眠り薬を入れたのは、間違いない。あいつはエナーリシャに見送られ、やはりアーレン・シン、俺として旅立ったんだ」
「・・・報復に成功しても、ィエンはエナーリシャを妻にはできないな。ただ単に、お前とエナーリシャの幸せを願っただけかもしれない」
カリアは首を振った。ィエンとアーレンとエナーリシャ。本当の兄妹よりも親しく育った三人に恋愛感情がうまれても不思議ではない。
とくに、アーレンとエナーリシャの婚約が決まってからのィエンは、今までの明るさも鳴りを潜め、どこか考え込むような様子を見せるようになった。エナーリシャに恋するゆえだと噂になりもしたが、その度にィエンはそれを笑い飛ばしていた。
それが真意か否かは、本人がいない今では分かるはずがない。
「馬鹿だ・・・あいつは」
アーレンは呟いた。重い気持ちが込められた言葉だった。
「俺にもしものことがあったら、ィエン、あのお転婆をもらってやってくれよ。俺の代わりに」
ィエンのいれた乳酒を飲み干しながら、三年前の旅立ちの前夜、アーレンは言った。
「だめだって。エナーリシャのやつ、報復に行くって言ったシンに、ほれ直したっていってたんだぜ」
「ごめんな、シン」
枕元で聞こえたィエンの声。
「ごめん」
それが、最後。
「ィエン!!」
次の日起き出すと、早朝ではなく、もう昼過ぎだった。あのときの落胆と自分への怒りは計り知れない。
あまりに起きるのが遅いと、天幕に起こしにやってきたエナーリシャを、アーレンはぼうぜんと見つめ返していた。
「ねぼすけッ。アーレンは行ってしまったぞ」
その瞬間から、アーレンはィエンを名乗ることを決めた。ィエンが報復に成功しても、じぶんはエナーリシャを娶る気はなかった。一発ィエンの横っ面を殴って、それで諦めようと決めていた。だが、ィエンは死んでしまった。
二度と帰る事なく、アーレン・シンの名を持ったままで。
「お前は、アーレンだ」
アーレンは、はっとしてカリアを凝視した。
「よく言う気になったな。キハルの民は、いやというほど誇りに執着しすぎる。妥協というものをしない。お前の父が殺されたとき、わたしは正直を言って、報復には反対だった。
報復をして、何になる? 汚名は雪げるかもしれないが、その行為はあらたな憎しみしか生まない。…それに、時には相愛の者同士を裂く結果になる」
「カリア」
アーレンは真っすぐに顔を上げた。真剣な眼差しは、少しも揺るぐことがなかった。
「もう、なんの手立てもないのか?あのウナクに勝つ術は、無いのか」
アーレンの目に強い意志のきらめきをみて、カリアはややあってぼそりと呟いた。
「あるには、ある。だが、難しい」
「でも、まるで勝機がないわけでもないんだな」
身を乗り出したアーレンを、カリアは苦い笑いを混ぜた目で見た。
「向こうから、エナーリシャの身柄に加えて、キハルの女、百人を求められている。五日後の正午まで、その半分を送らなければならない」
「百・・・」
「五十なら、すぐに集められるだろう。余裕もある」
「それじゃあ、ただの服従じゃないか」
アーレンは憮然として言った。まあ聞け、とカリアが制する。
「服従するなら、な。だが、計画はここからだ。
アーレン、おまえはウナクが、商隊を装ってキハルの集落に入ったやもしれないと、言ったな」
「ああ。だが、それが・・・」
アーレンは目を見開く。
「まさか」
彼の考えと、難しいと言ったわけがわかったからだった。
「その、まさかだよ。キハルの若い手練を、百人の娘としてウナクに送る。やるとしたら、人選や何かで、四日以上はかかるな。他の集落からも、腕の立って見目のいいものを選ぼう、あまり背が高すぎないのがいい」
「男とばれたら・・・」
アーレンは呻いた。だがそれと同時に、そんな道しか残されていないキハルの運命に、わずかに興奮をおぼえた。
おかしなこととは思う。これが失敗すれば、キハルは跡形もなく奪われ尽くされてしまうというのに。これが、砂の民らしい、荒々しい気性の現れかと思うと、素直に誇り高い気分になった。
砂漠の砂に刻まれるのは、戦いの歴史と聞いたことがある。戦いなくしては、成り立たぬ砂の歴史。
「だが、花嫁に剣を持たせる訳にはいかないんじゃないか」
キハルの男は、皆、武芸に秀でている。若い少年たちも、その父に武芸をたたき込まれる。剣を使えることも、キハルの男と認められるための、大事な要因なのだ。だが折角の剣の腕も、業物がなければ発揮できまい。
キハルの水源に布陣しているのは、ウナクの長とその息子。それと、アーレンが偵察してきた限りで推測すると、ウナクの男はおよそ二百。少ないが、奇襲をするには十分な数だ。他の陣は、おそらくアムナにて待機しているのだろう。破壊した集落では、大勢を迎える準備ができまい。
増援が来る前に、「戦の神」との異名を持つ、ウナクの長の首を取れば、こちらも勢いづく。むこうが狼狽して、統制が取れなくなれば、こちらのものだった。聞けば、ウナクとはもともとヤエフアが統治するまで弱小部族に過ぎなかったと言う。
百対二百では、人数こそウナクに劣るが、油断した奴等の鼻を明かすことはできる。エナーリシャが輿入れしたことも、油断を与えているだろう。五日後の正午までという約束も、遅れるとの旨を伝えておけば、なんとか納得するだろう。いい娘を選りすぐっていると言えばいい。人選しているのには、間違いないのだから。
キハルの若者達も、よろこんで我先にと女装するにちがいない。長、ハルマを殺したウナクに、殺意がないわけはない。ウナクのほうでも、五十人よりも百人が同時に届いた方が浮足立つだろう。
「武器は、あつらえむきのがある」
言うと、カリアは天幕の隅に立て掛けてあった琵琶を取った。弦をもてあそんでから、その頂点の天神をぐっと掴んだ。と、かちゃりと音がし、すっと抜き身の細い刀身が現れた。曇りの無い刀身、みたことのない型の剣だった。
「商隊に特注した隠し武器だよ。これが、ちょうど百はある」
「すごいな・・・でも、なぜこんなものを?」
白刃をしげしげと眺めるアーレンに、カリアは言う。
「ウナクと小競り合いが始まる前から、部族の女達の護身用に注文していたのさ。刀は奪われても、楽器くらいは捨て置かれるだろうと思ってな。高くついたが、こんなところで役に立とうとは」
「・・・カリア、やらせてくれないか」
揺るぎないアーレンの口調。
「そうか。…そうか」
カリアは不意におかしくなった。キハルの民を守るため、エナーリシャに酷な宣告をした。なのに、結局はアーレンにウナクと剣を交えよという提案をしてしまっている。
「アーレン・シン。 ・・・済まなかったな」
カリアの口から、詫びの言葉がでた。確かに、あのときの状況ではああするしかなかった。そうしなければ、この集落もあっと言う間に潰されていただろう。だが、アーレンのひたむきさに真向かうと、詫びずにいられなかった。
「俺は、今度こそあいつを取り戻すよ」
アーレン・シンの面に、不敵な微笑みが上った。 「あのおてんば娘。さっさと迎えに行かないと、しりを蹴飛ばされるぞ」